F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

ご馳走――終戦記念日のたより

20150815

 8月15日である。
 
 語るべきことは無数にあるかもしれないのだが、ひとつ、書いておきたい事がある。主人公はわたしの血縁で、喜怒哀楽がはっきりして、しかし中でもよくわらい、よく食べるひとだった。
 
 大伯母である。
 大黒像に似たふくよかで大きな人だった。
 母方の祖母の姉、になる。彼女は、祖父母の暮らす家の隣に住んでいた。ほとんど一続きであったその古い古い借家は、大伯母に世話になったのだという家主が、曰く「特別に安く」貸し与えてくれていた家だった。祖父母宅側には小さな小さな内庭があり、代わりに風呂がなかったが、大伯母宅側には庭の代わりに土間があり風呂があるのだった。互いを行き来し、融通し合って大伯母と、祖父母とは暮らしてきたのだった。
 
 連れ合いを早くに亡くしたひとだった。
 毎日、壁に掛けた亡夫の写真を見上げて線香をあげた。
 十人になろうかという兄弟姉妹の、ほぼ最年長であり、半分以上の弟妹は大伯母が育てたようなものだったという。貧しい床屋の、二間しかない家でぎゅう詰めに育った彼らは贅沢を知らなかった。母親は良い家のお嬢さんで、何を思って嫁に来たか、貧しさを嘆いても疎いはしない人だったらしい。貧乏の子沢山は病人を数人抱えて尚更貧しく、祖母も大伯母も小学校では成績が同じくらいであった母親の実家のいとこ達が女学校に通うのを横目に弟妹をみながらひどく苦労して働いた。
 末っ子は耳が聞こえず、生涯独り身で、為に彼の晩年、大伯母は彼をひきとって共に住んだ。
 息子も同然の末っ子に大伯母は甘かったが、癇癖の強いひとだったから、聞こえない彼に向かってよく怒鳴り散らしてはまるきり通じないことに悔しそうに手足を振り回した。肩を竦める大叔父はひょうきんな人で、そんな時はわたしに向かってちろりと舌を出していたものだった。
 
 大相撲が好きだった。他にジャイアンツと時代劇が好きだった。食べることが楽しみで、食べさせることは食べること以上に好きだった。
 亡夫の連れ子はあったのだが、自身は子を産まなかった。持ち前の癇癖の強さで義理の子とは縁を切ってしまい、「世話になんぞならん!」とわめいた。
 世話にならんて、じゃ誰が面倒みるってこともない、と彼女の弟妹や弟妹の子らは呆れたが、確かに晩年、僅かな期間を除けば大してひとの手を煩わせることなく、逝った。
 胃をなくしているせいで便がゆるく、尾篭な話で申し訳ないが、時折粗相をした。わたしを従えて少し離れたスーパーマーケットに出かけた際は、かろうじて手洗いに駆け込むのに成功したが、直後、まさか店内中に広がるのではとわたしが恐れおののいたほどの、すわテロかという悪臭を発生させて、手洗いから出てくると困ったようにふにゃりふにゃりと笑った。わたしはそのとき自分が何をどうしたのかよく覚えていない。何も知らずに手洗いに踏み込んだ人が直後に扉を壊す勢いで飛び出してきたことだけは記憶に鮮明で、本当に動転したのだが、思い出してその話をすると、もう明るい笑いしか出てこないのだった。
 不思議なことに、自宅で粗相をした際は、わたしに外へ出ていろと追い立て、ものの数分もしないうちに跡形もなくすべてが片付いているのが常だった。今でも、彼女がどうやってあれらを消し去っていたのかは謎のままだ。
 
 当時の人としては、大女である。
 子供のころ、よく負ぶわれた。広い広い背中だった。ほとんど一続きの家にいる都合上、彼女は夕食を祖父母宅にやってきて相伴するのが常であり、つまりわたしが帰省すると、わたしには祖父母のほかに彼女という家族が待っていてくれるのだった。繋いだ手が大きく、父の手と間違うほど大きく、しかし温かく乾いていた。わたしは彼女の背中と手がたいそう好きだった。
 祖母は患ってあまり動ける人ではなかったから、大伯母は祖母も同然の存在だった。彼女も山のようにいる弟妹たちの孫の中で、とりわけわたしを我が孫同然に扱い、可愛がってくれた。
 祖母は、満州にいて引き揚げてきたひとで、祖父はシベリア帰りだった。帰国して連れ添ったふたりは、何人かの子をもうけては亡くし、つまり、末っ子であるわたしの母は、自身の祖父母と間違われるような高齢夫婦の子だった。いわんやわたしに至っては、曾孫なのかそのまた子なのかと訊かれるのが常で、わたしの少々古風な性癖は、多分にあの家で育まれたのに違いない。
 夏に帰省すれば、ほとんどの時間を彼女と過ごし、わたしは朝からラジオ体操に駆けてゆき、朝食をすませると大伯母とともに隣家に「帰り」、テレビで大相撲を観、高校野球を楽しみ、時代劇に興奮し、大伯母と買い物に出かけ、夕食を食べに今度はまた「隣家」に帰り、風呂のために大伯母に呼ばれてまたもや「帰り」、風呂上りにはサイダーを飲みながらプロ野球を観て、そうでない日は大伯母と共に親戚中の墓を参りながら季節を越した(土地柄なのか、寺の多い町で、近隣であるという理由で、盆は親戚縁者の墓を洩れなくめぐるのが町のならわしだ。したがって、この時期、町では夜も降り注ぐ星の光を浴びながらたくさんの人が提灯を手にそぞろ歩いている)。彼女は食の細いわたしにこれなら食うかと次から次へと菓子を出し、わたしは存分にそれに甘えた。
  
 8月15日は、わたしにとって、彼女の誕生日だ。
 小学校も高学年になったころ、彼女の誕生祝いに、わたしが料理をしたことがある。他愛のない照り焼きチキンで、そんなものを喜ぶだろうかといぶかったが、涙さえ浮かべて喜んだ。
 食べることが、食べさせることが好きな人だったから、ことのほか喜んでくれたのかもしれない。
 わたしやきょうだいに食べさせるためにレストランに出掛け、ご馳走してくれるときの彼女は文字通り大黒様のように笑った。肉付きのよい大女は、細い目もあいまって本当に大黒像によく似ていたのだ。
 
 食べることが好きなあまり、彼女は胃がんで胃を三分の二も切除されてなお、食べる意欲を失わなかった。告知されなかったとはいえ、大黒様は福禄寿か寿老人くらいのサイズになっていたのだが、どうもいけん、とは言いつつ、自分ががんで死んでいたかもしれないなどとは露ほどの疑いさえ差し挟みはしなかったのだった。
 さすがに最晩年、多少のボケが出て、時折わたしたちを見ては、戦後すぐの闇市に手を引いて一緒に行った話をした。わたしの親世代は昭和二十年代も後半の生まれのひとたちで、呆れて、自分たちですら行っていないと言い聞かせたが、もはや時間の流れを超越してしまった彼女は、ただふわふわと笑うのみだった。
 食べることがあんなに好きなのに、イモはもういい、と良く言った。昨日のゴミだしで猫がどうした、などという愚痴に続けて、着物が何枚も米やイモに化けてしまった事をため息と共に語っては煎茶をすすってテレビに向き直り、まんじゅうや煎餅を口にした。
 
 8月15日って終戦記念日だから忘れないね、といったわたしに、大伯母はやはり、ふぬけたようなじわりとした笑みを浮かべた。
 今は思う。彼女は自分の誕生日に、玉音放送を聞いたのだ。
 もう彼女のいない8月15日。わたしは今日も美味しい食事を用意する。