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九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

世界は多様化していてすべては拡散し、それでも文章の価値は変わらない。けど、やっぱり多様化はしないと変だ

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娯楽と言ったら誰が聞いても「ああ、それ面白そうだよね」「私は好きじゃない」「俺はめっちゃ好き」なんてことを即答できていた時代があって、そのころ、たぶん本ってものは割と当たり前に共通の認識で扱われるものだった。娯楽として読む人も、教養として読む人も、情報源にしている人も勿論いて、それでも「本を手にする」ということへの価値というか、重さって近かったんじゃないか。

いま、趣味や娯楽は溢れるほどあって、そんな趣味もあるんだ、なんて驚くことはとても普通で、クラスに四十人いたら、好きなものが四十通りに分かれちゃっても全然ふしぎじゃない。
じゃあ、今まで娯楽として本を読んでいた人は本じゃなくてもよくなっちゃったかもしれないし、情報源なんてインターネットでもよかったりし、そうやって本の価値や重さはバラバラになったのに、本ってものは見た目がちっとも変わらなくて、値段だってあんまり変わったりはしなくて、発行方法まで、そう大して変わっていない。

出版不況、って言葉を目にしたり耳にしたりするようになって長い。
それでもまだ出版業界はちゃんとあるし、街から本屋さんが全滅したりなんてことは一応ない。
このごろは、とても装丁に凝った本が登場したり、仕掛けの充実した本があったり、ようやく、本も生き返り始めたような、気がする。

夏目漱石の出版百周年とかで、「こころ」は相次いでいろんな形の本になった。
それぞれ、買った人は違うはずだ。コレクターだったり、それが好きだったり、インテリアとしてって人もいたろうし、そうじゃなくていい機会だから読んでみよ、なんて人は文庫だったり古本だったりを買った、んだと思う。
同じ漱石の「こころ」を手に入れたい人の、動機がてんでバラバラで、きっとそんな事は、昔からあっただろうけどこんなにあからさまではなかった。

小説なんてしょせんは娯楽でしょ、と言う人がいる。
否定しない。そういう人には、もちろんそうだろう。
でもそうじゃない人には、そうじゃない。

価値観の多様性は、ものの価値にだって、それはもう、はてない距離をつくった。
だけどさ、最初からたくさんたくさんのものに囲まれているなら、わざわざ本に手を伸ばす人の割合なんて、減って当然なわけだ。それしかないわけじゃないんだもんな、幾らでも、もっと手っ取り早くて楽しいことが溢れているんだもんな。

じゃあ、そういう時代で場所に生きているなら、何が必要かな。

考えて、出した結論が『片隅』だ。
もうあまり、積極的には読まれなくなってしまった「かつての必読書」、勝手に表示されるから読んでみた、ら、面白いじゃん、って次も読む、そういう風にきっかけになる場所が欲しかったんだ。だから、『片隅』にはパブリックドメインの作品を掲載している。今後も、していく。

TOPICSに、時折、文芸でもなんでもない話題が飛び出すのも、同じだ。
作品を書く人たちは、世界があんまり狭くなって近くなって、その分だけ緻密で広く大きくなり過ぎたせいで、身の回りだけで書けてしまう人がとても増えた。
それはそれでとても凄いことだし素敵だし素晴らしいけど、なんとなくで良いから、もっと世界を知っていたらもっとすごいことだって生まれるかもしれない。
そういうきっかけになったらうれしいから、知っていたらいいかもしれない世界の事は、TOPICSで流している。

いろんなコラムやエッセイや、面白い事の取材やインタビューや、素敵な場所の紹介や旅行記や写真や絵や、なんだか世界に溢れかえっているものの中から、これまでもこれからも「本」や「文芸」にあったら絶対いいよねってものをかき集めて提示する。
今を生きているリアルタイムの物書きたちが、どんなものを創り出しているのか、提示する。

世界は変わっていくし、宇宙が膨張するのと同じように、どこまでも拡大していくのだから。
文芸をとりまくものだって、はてなく広がって行けばいい。
たくさんたくさんの中からピピッと反応してもらうために、集めて並べてある場所があった方がいい。

『片隅』は、いつだって『片隅』だ。だけど、そこに立てばそこが世界の中心だ。
世界は丸くて、今なお、広がっているんだから。
そういうふうに、『片隅』はやっていく。そんなことを、ずっと考えている。