F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

極私的映画批評 その2 松下隆一

matsushita_eiga

【1】
 およそ映画とは純粋に客観評価できないものである。特に好きな映画に対しては、心のどこかで、知らず知らずのうちに、これまで生きてきた自分の記憶を辿り、感情の断片を重ね合わせている。その感情が喜びではなく悲しみであった場合にはなおさら、対象となる映画にのめり込んでしまう。それが共感を超越した、同化を生み、真に“映画を観て感動した” ということであろうかと思う。
 もちろんふつうに観ていて、面白かった、つまらなかったという映画の評価が殆どなのだけれども、ごくまれに自分自身の傷口を剣山でえぐられるような、そんな痛みを伴う映画があって、本当に忘れ難い一本となるのである。
 ただ、そういう映画の場合は、得てして自分にとっては面白いのだけど、他者にとってはどうでもいい映画の一本、ということになってしまう。だがこの場は幸いにして“極私的” なのだから、そうした一本を評するのもよかろうと考えた次第である。
 
 というわけで、今回は市川準監督の映画『トキワ荘の青春』(一九九六年 脚本・市川準/鈴木秀幸/森川幸治) を取り上げたいと思う。私はこの映画を観る度に胸がしめつけられ、痛む。にもかかわらず、ビデオでも、DVDでも繰り返し観ている。それは自分自身が一番つらかった若き日々を重ね合わせ、同時に作り手としての原点をも呼び覚ましてくれる映画だからである。
 いや、酒を飲むとこの映画を無性に観たくなる瞬間があるというのは、やはり現実逃避という名の、ノスタルジーを求めているのかもしれない。あの頃に比べれば、どんなに今がつらくても、わずかでも仕事があるだけマシじゃないかと、自分自身を慰めたいからだろう。
 断っておくと、この映画はおそろしく地味だ。取り立てて言うほどのストーリーはなく、出て来る場所の殆どがトキワ荘というアパートの内部であるし、例によって市川監督らしくロングショット、フルショットの連続で、ミディアムショットですら多用されず、クロースアップなどは皆無に等しく、しかもキャメラの切り返し、カットバックが殆どない、さらにはセリフも明瞭でないところが多々あるから、悪くいえばテンポのない退屈な、眠い映画ともいえる。
 だが、日本映画の中で、青春群像の痛切と哀切を描いたものを一本あげろと言われれば私は間違いなくこの映画をあげるし、およそ作家と名のつく職業についている人、志している人で、この映画の底辺に流れている感覚がわからないという人はいないだろう。もしわからないという人があるならば、作家としての資質を疑ってしまうほどである。いや、何かに没頭してものをつくろうとしている人ならば、必ずわかる映画だと思う。
 ただ、地味なのだ。淡々とした描写の中に、人物たちの、極めて小さな気持ちの揺れ動きを、濃密に描いているだけである。だから表向きは何も起きていないようにも感じる。いわば我々が生きている日常世界そのまま、原寸大で描いているだけなのだ。
 それにしても、こうした日常を積み上げてゆく日本映画も、今では本当に少なくなってしまった。小津安二郎監督の影響も大きいと思うが、小津監督の世界、娯楽としての機微の滋味というものの継承者が、今の日本映画界においては皆無と言い切ってもいいだけに、市川監督の早過ぎる死というものは、日本映画界にとって、一つの大きな損失だったと言っても過言ではない。
 
 
【2】
 かつて手塚治虫氏をはじめとする著名な漫画家たち、石ノ森章太郎氏や赤塚不二夫氏、藤子不二雄氏などが住んでいた“トキワ荘” というアパートが存在したことは、漫画家なら当然のことながら、作家を志す人であれば一度や二度は聞いたことがあるだろう。
『トキワ荘の青春』は、そうした漫画家たちが若き日に、互いに切磋琢磨し支え合いながら、漫画家として成長してゆく物語である。主人公は寺田ヒロオ氏であり、彼が兄貴分のようにトキワ荘の漫画家たちを見守り、寄り添い、語り合い、やがては筆を折るまでが描かれている。
 ストーリーは取り立ててない。主人公の葛藤はあるにはあるが、それを軸にして展開もしていかない。市川監督らしい機微というものによって、物語が綴られてゆく。だから、この映画は何かを求めて観るものではなく、観る者の心の内に、そっと沁み入ってくるような映画だといえよう。
 そして撮影手法も、キャメラを動かすことによる芝居の強調を切り捨て(予算の都合もあったのかもしれないが)、定点の反復によって芝居ではなく日常のリアリズムが強調されている。それはまるで観客でさえもトキワ荘の住人の一人になったかと思わせるほどであるが、市川監督とすれば、実際に生きた漫画家たちを描く上で、極力映画としての作為を排除したかったのではないだろうかと思う。
 いや、地味な映画だと書いたが、それは映画全体の成り立ちのことであって、登場するのは先に書いた漫画家たちの他にも、棚下照生氏やつのだじろう氏、水野英子氏、つげ義春氏など、伝説的な漫画家たちも登場するので、その人たちがスクリーン上で動いているというだけで、こちらの気分が高揚し、楽しくなってくるのである。
 
 主立ったストーリー展開はないが、市川監督が強調している視点ははっきりとしている。それは、うまくゆかない人生、人間がこうなりたいと願い、努力するも認められずに苦悩し、挫折するといった、若さゆえの才能に対する〝もがき〟である。しかも、成功し、うまくいった人生を間近に見つつ、それを経験するのだから、本当につらい。
 こうした切実さ、つらさを、市川監督はキャメラの作為を排除し、自然なタッチで優しく映像を切り取ってゆく。
『東京日常劇場』という、市川監督の真骨頂というか、素晴らしいオムニバスドラマのシリーズがあった。人間の奥底に潜む気持ちというものを、いかに我々がふだん生きているのと同じ状態で見せるかが考え抜かれ、実に繊細なタッチで描かれ、それによって観る者も、その作品の世界を覗き見ているような感覚にとらわれる佳品群であった。
 市川監督の作品に教えられるのは、感動というものは、ことさらに強調し、「観てくれ」という質のものではないということである。
 つい先日も、地下通路を歩いていて、壁一面の大きな映画宣伝広告の中に“号泣” という二文字を見つけたが、これほど、作り手として恥ずかしいこともない。そんな安っぽい言葉で惹きつけなければならぬほど、この映画の出来は悪いのかとさえ思ってしまう。
 そういえば最近の映画の予告編の中でよく人物が泣いているが、何だろう、あれは。泣けば感動作だと思わせたいのだろうか。だいたい悲しみを抑え、涙を見せないから感動するのであって、人物があんなに泣いたら興ざめするだけである。
 市川監督の映画と、こうした“号泣” 映画を一緒にしては絶対にいけない。映画づくりにおいて、どこまで深く思考したのか、どこまで深く人物を愛しているのか、思いやるのか、作り手はそこに腐心しなければならぬ。泣くとか泣かないというのは結果論であってどうでもいいことだ。泣ければいい映画だという安易な考えは妄想であり、作り手もそうだが、観客自身もそろそろ捨てなければならない。「泣けてよかったよー」なんていうのは自己愛的で薄気味悪くて仕方がない。
 
 
【3】
 この映画において、赤塚不二夫氏のエピソードが大きく扱われている。これは有名な話でもあるが、赤塚氏は破天荒なギャグ漫画に辿りつくまでに、相当な試行錯誤があり、挫折の連続であった。先に売れっ子になった石ノ森章太郎氏の仕事ぶりを間近に見つつ、才能とは何か、オリジナリティとは何か、個性とは何か、という壁にぶちあたり、苦悩する。
 出版社で、編集者が原稿を見ながら赤塚氏に言うのだ。
「君は、諦めた方がいいかもしれないね……漫画ってのは個性だと思うんだ。その人らしさ。ところが君のこの漫画、誰かさん(石ノ森章太郎) の画にそっくりじゃないか……ただの人まねしかできないんだったら、田舎へ帰った方がいい……才能っていうのはそれほど厳しいものかもしれないって気がするよ」
 このシーンを観る度に、胸が痛くなる。こうした経験のある作り手であれば、死にたくなるようなシーンである。しかもこの編集者は威丈高に言うのではなく、切々と説得するように言うから、観る者は本当のこととして聞いてしまう。
 茫然自失状態となった赤塚氏はその後、寺田ヒロオ氏に相談をする。寺田氏は本当に優しい男で、そして赤塚氏のこともよくわかっているから。こう言ってくれる。
「書けないんじゃないんだ。詰め込み過ぎてるだけなんだよ……何が書きたいか整理していけば、自然と自分が見つかるよきっと……みんなみたいにって考えないで、諦めずに自分を探してみろよ」
 そして黙して聞いている赤塚氏に、幾ばくかの金が入った封筒を差し出す。驚いて寺田氏を見る赤塚氏に、寺田氏は、
「いいんだ。大金が入ってるわけじゃないんだ。一度食べたらなくなっちゃうよ」と言う。
 そして、赤塚氏は居住まいを正して「すみません」と頭を下げるのである。
 こうした呼吸というか、感覚というものは、経験した者でなければ胸には迫らないかもしれない。だが、私のような無駄に遠回りをしている者には、心底響くシーンなのである。
 私事で申し訳ないが、若い頃、全く仕事がなくて、才能の有無で悩むどころか、何をどうしていいのかすらわからなくなっていた時期があった。「何か書く仕事がないですか?」と、直接我が師匠に相談するのも気がひけて、大師匠の映画評論家、滝沢一先生のもとに出かけて行ったことがある。
 その時滝沢先生は、昼飯でも食おうと、祇園の鰻屋に連れて行ってくださった。結局、私は仕事の話が切り出せず、何を話したのも憶えてはいないが、その店の鰻の美味しさと、やっぱり安易に人に頼らないで自分で何とかしないといけないなと感じたことだけは憶えている。
 当時、滝沢先生は七十の齢を越えられていたかと思う。映画界で、酸いも甘いも舐め尽くしておられたような方だったから、今にして思えば、滝沢先生は、私の顔色を見た瞬間に、全部お見通しだったのだろう。同時に、箸にも棒にもかからぬような私のような者に、そうして優しく接してくださったことがありがたくて、思い返す度に恥ずかしさとありがたさで今でも胸がつまってしまう。
 そうした人を思いやる気持ち、慮る気持ちがタイジンには必ずあって、それが赤塚不二夫という才能までも救ったのだった。
 その後赤塚氏は、石ノ森氏が先の編集者に、「あいつ、そういうの俺よりうまいんですよ」と赤塚氏の原稿(ギャグ漫画だろう)を読ませたことがきっかけで、世に認められるのである。
 連載が決まった雨の日、赤塚氏が外に出て空に顔を向け、呪縛から解放されたように「やった」と呟いて雨にうたれるシーンがあるが、物書きならばその心情が本当によくわかる感動的なシーンとなっている。
 
 売れないといえばもう一人、森安直哉氏もそうだった。森安氏は結局売れないまま、トキワ荘を去ってゆく。後に売れなかったトキワ荘の住人ということで注目をされたりもしたが、痛々しいだけに私自身、他人事とは思えなかったが、それでいてすっとぼけたようなキャラクターが魅力的で、華々しいスターたちの中で異彩を放っている。
『テラさんへ テラさん、すみません。いきなりこんなこと。みんなによろしく伝えて下さい。色々と世話になって、本当に楽しかったって……本当に、夢のようだった……』
 という、モノローグとも書き置きともつかぬ言葉を残し、ある日突然、森安氏は姿を消してしまう。これが本来の人間の姿であり、才能のあるなしの世界で生きることの非情さでもあるわけだが、そんな中にあっても、気の置けない仲間たちと過ごした時間を愛おしく思っているところが、かえって残酷さを浮き彫りにしている。
 
 
【4】
 寺田ヒロオ氏は突然筆を折ったことでも知られている漫画家だが、映画の中では時代が求めるものに作風がついていけなくなったのがその原因として語られている。いや、ついていけなかったのではなく、ついていくことを拒絶したというのが正しいだろう。
 寺田氏が友人の棚下照生氏のもとを訪れ、才能について語り合うシーンがある。
「才能の引き出しなんてさ、考えても仕方がないんじゃないかな。引き出しがなくなったら、人様のものをかっぱらってくるしかないだろ」
 と言う棚下氏に対し、寺田氏はこう答える。
「古いんだよ。俺の漫画って。よくわかっているんだよ……でも、子供たちのことを思って描きたいから」
 才能をかっぱらうこと以前に、寺田氏が、自分自身の絶対的な才能について悩み続けていることがわかる。もとより、寺田氏の気質として、かっぱらうなんてことはありえない話だった。
 寺田氏は、作風が変わらなければこれから生き残っていけないことがわかっている。もっと激しいアクションや、派手な趣向を凝らした漫画がこれからの時代に求められるだろうということを。だがそれでは子供たちを刺激であおるばかりで、子供たちの心の成長のために本当にいいのかどうかと、自問自答しているのである。そんな寺田氏に対し、苦笑まじりに棚下氏は言う。
「寺田の画の良さっていうのはさ。優しさなんだよな。ほんと、恥ずかしいくらいいい人ばかり出てくるしさ」
 棚下氏の言う通り、寺田氏の漫画はただただ優しくて、善良だった。それゆえに、自分というものを投げ捨ててでも、時代に合わせなければならないのかという葛藤は、映画の時間をおうごとに寺田氏の心を浸食していき、蝕んでゆく。
 やがて、担当編集者とのぶつかりで、それは決定的なものとなってしまう。
「僕だってテラさんの言う通りにつくりたいですよ。ほんとは。ただね。うちも商売だから。発行部数伸ばさないことにはどうしようもないんですよ」と、現実的な話をして、編集者は寺田氏に新しい漫画を求めるのだが、寺田氏には結局それができなかった。期待を裏切られた編集者は怒りをにじませて言う。
「あのね、修身の教科書つくってんじゃないんだから。漫画なんだよ漫画。面白くなきゃダメなんだよ。何度も言ってるけど、今は新しい漫画がどんどん出てきてるんだから、それに合わせていかないと、時代に乗り遅れちゃいますよ……それくらい、君にだってわかるだろ」
 だが、寺田氏は編集者を見据えて言うのだ、「わかりたくないです」と。
 その後、寺田氏がファンの少年たちと語り合うシーンがある。少年らは寺田氏の漫画を、ただ面白いだけじゃないと言い、誇りを持てと教えられたと話すが、寺田氏はそれに対しこう答える。
「君たちは僕の漫画のことを大事に思ってくれるけど……僕という人間は、自分が描いてきた漫画ほどきれいじゃない。強くもないし、優しくもない。君たちが大事に思ってくれる価値なんかないんだよ」
 そして、寺田氏は筆を折り、二度と漫画を描くことはなかったのである。
 寺田氏は亡くなってしまったが、今の漫画界を眺めてどう思うのだろう。当然のように、売れるために、刺激をエスカレートさせ、感覚麻痺を起こさせる。そこには、作り手の良心、子供の心というものは置き去りにされ、ひたすら食事を与え続けられて貪る養豚場のブタのように、子供たちはゲームやアニメをあてがわれ、空腹になって何かを考えるという、子供たちの天職たるイマジネーションが入る余地もない。
 今の時代は、表現の自由という隠れ蓑の中で、ただただ刺激で人心をあおろうとする。表向きは、人命は大事だと言い募りながら、戦争アニメだから、SFアニメだから、探偵アニメだから仕方がないといって、何人も人を殺すことを許している。いつの間にか表現の自由が、子供の心を利用する、巧妙な大人の商売にすり替えられている。
 大人は虚構の世界として割り切れても、子供には限界がある。寺田氏は子供のためという、その一点で、漫画を描いていた。大人たちが正しい道筋をつけてやらなければならないという信念があった。だが商売が優先され、信念を描く場を失い、その心が折れた時、これ以上描いても子供に嘘をつくだけだと考え、二度と筆を取ることがなかったのである。
 器用な人間なら、自分を誤魔化して、生活のためだとうそぶいて描くだろう。だが寺田氏にはそれができなかった。やるべきことは信念や誇りの想いを漫画にこめて対価を得ることであって、嘘を描いて子供たちを欺き、その対価を得ることではなかったのである。
 こうしたジレンマは寺田氏に限らず、小説家にだって脚本家にだってある。主義主張を曲げて、金のために書くことを悪いというつもりはない。これはただ、人間の生き様の問題だ。自分が死ぬ時に、自分が何のために生きたのかという、その一点に尽きる。自分の思いと乖離した生き様が、果たして誇れるものなのかどうか。純粋無垢なる子供に、正面切って自分の生き様が正しかったと言えるかどうか。人間の真価というものは、本来は、こうしたところではかられるべきものなのだろう。
 いや、大部分の人々は、組織や会社や、あるいは友人たち、家族などの関係性の中で言いなりになり、犠牲になり、自分を押し殺して生きて、死んでゆく。だがごく稀に、寺田氏のような人間もあるのだということだ。彼は挫折したのではない。己を貫いて、漫画界に見切りをつけたのである。そこに市川監督は主人公として、人間としての美質を見いだしたのだ。
 
 
【5】
 人間が何かを想い、行動する生きものだとすれば、さらにはそこに人との出会いがあり、生業との出会いもあり、それらが人生を左右するのだとすれば、成功者だとか失敗者だとか、いちがいには言うことのできない、複雑きわまりないものが人生だともいえる。名声や金のあるなしで決定されるような、そんな単純なことではないような気がする。
 だが、その一方で確かに言えることは、同じ志を持った人間同士というもの、何かに夢中になって、金でも名声でもない、自立した己の信念を持って物事を燃え尽きるまでやりぬいた、人間の集合体というものの青春性(齢の問題ではなく)というものは、言葉では言い募れないような、美しさに満ちているということである。
 市川監督はその思いを、新漫画党の結成会のシーンや、寺田氏がトキワ荘の漫画家たちと相撲をとるシーンに込めて、実在したトキワ荘の漫画家たちへのオマージュとして捧げている。
 さらには、大ラストでも粋なひと工夫がある。トキワ荘を出た寺田氏が、土手の上に立って少年野球を眺めているシーンがある。飛んで来たボールを捕って、取りに来たユニフォーム姿の少年にそのボールを返すのだが、その時、「ありがとうございました!」と帽子を取って礼儀正しく頭を深々と下げたその少年のユニフォームの背番号が〝0〟であった。もちろんそれは寺田氏の代表作でもある『背番号0』になぞらえてあるのだが、寺田氏の信念のいうものの成就を、そうした形で表現できるというセンスは凡庸な映画監督にはできないのである。
 ともあれ、映画『トキワ荘の青春』は、作家の生き様としても、青春群像劇としても、よく描かれた出色の映画なのであって、私にとってもこの映画は、作り手として、一つの正しい道を示していてくれていると、信じて疑わないものである。
 ちなみにこの映画の音量は極めて低い(日常性を出すための狙いなのだろうが) ので、イヤホンで観ることでいろんな発見があるので、それをオススメしたい。
 
 では、そろそろお時間もよろしいようですので、このへんで終わりにします。
 皆さん、ごきげんよう。
 


 

出演: 本木雅弘, 大森嘉之, 生瀬勝久, 古田新太, 鈴木卓爾
監督: 市川準

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。