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極私的映画批評 その1 松下隆一

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【1】
 
 本題に入る前に、少し映画批評についてふれてみたいと思う。
 その昔、淀川長治さんの書かれた映画批評を読んで深く感銘を受けた記憶がある。それまで淀川さんの話し言葉による批評は数多く読んではいたが、本格的な批評文は読んだことがなかった。
 淀川さんの話し言葉で書かれた批評は、基本的には、好きな映画について語り尽くすという批評スタイルが多かったが、私が感銘を受けたというその批評は、とても厳しく、作り手の背筋が自然と伸びるようなものだった。
 冒頭に、歌舞伎や日本文学を原作にした日本映画を取り上げられ(淀川さんが日本映画に言及するのは珍しい)、映画が歌舞伎や文学を汚すようなものであってはいけないと強く戒められているが、それを紹介したい。
 まず、篠田正浩監督の『心中天網島』(一九六九年)について、監督自身が近松の悲劇のすべてがセックスからくるということをテーマとして掲げ、映画もお春と治兵衛が死にゆく前に墓場でセックスするシーンであったことにふれ、実際の舞台の『心中天網島』は死ぬ間際まで治兵衛がお春に詫び続けており、そこにこそ、この名作の輝きがあるのだと淀川さんは書かれていた。
 また、『春琴抄』を原作とした新藤兼人監督の『讃歌』(一九七二年) についても、お琴を全裸にしたことは、見方によっては面白いかもしれないが、谷崎文学のお琴は肌を見せないばかりか、妊娠の相手さえ言わない、その、〈ひめごと〉こそが芸術であると書かれている。
 その一方で、木下恵介監督の『新釈四谷怪談』(一九四九年) において、雪の日、若き日の伊右衛門が傘をさし、お岩が寄り添い、二人が歩いて行くシーンで、お岩が、伊右衛門が寒かろう、つめたかろうと、両の袖で伊右衛門の手を包み込んであたためるという、このワンカットを取り上げて、歌舞伎では夏の場面だが、それを冬に置き換え、黒っぽい衣装で雪の中に立たせた趣向が面白く、美しい演出であると淀川さんはほめたたえている。
 この差は何か。それは、小説であれ歌舞伎であれ、そのもととなるテーマ、本質とは何かを、作り手がふまえているかどうかということではないかと思う。以前にも書いたと思うが、原作の中に作り手が死ぬ勇気、気概を持たねばならぬということだ。人々がその感動を脈々と語り継いできた歌舞伎というものの美しさの本質を、作り手のエゴで曲げてはならぬということだ。
 自分はこうしたいからこうやるというのは、オリジナルによって初めて生かされることであって、原作をもととする場合には、その本質を見極めなければならないし、テーマや根底にながれる人間の心情、情緒というものを壊してまで、映画をつくる意味などないと思う。
 近松が描こうとした情愛はセックスという欲望の形ではなく、そんなものは通り越して、法もセックスも恋も突き抜け、二人の葛藤を、相対死をもって終わらせるという、嘘偽りのない、究極的に純粋な男と女の契り、思いやり、生き様そのものであった。だからこそ昔も今も人の心をうち、名作として語り継がれているのである。
 なぜセックスにこだわり、限定してしまうのかといえば、古典であっても何か新しいテーマを私は見いだしているというような現代性を誇示する、つまり、普遍的テーマを無視して監督のための映画をつくってしまっているところに原因があるのではないか。だが、それならばわざわざ近松の看板を借りなくても、オリジナルでやればいい話だろう。
 
 映画監督というものは自身の持つ哲学や思想を、そのまま映画の中で描いてもらっては困るのである。優れた監督ほど、その想いというものを映像の中に潜ませ、観客に感じさせるという、人間の感性を信じる作り方をするものである。あからさまに主義主張をセリフで言ったり、セックスを見せれば大人の世界を描いているような気になっているような監督では困るわけである。セックスでいうならばむしろ私は小津安二郎監督の作品の中にこそ、濃厚なエロティシズムを感じる瞬間がある。そんな時、大人の監督やなあと感心してしまう。抑制の中にこそ、映画の醍醐味があり、観客にしてみれば真実を嗅ぎ取ろうとする意志がはたらく。
 監督は原作の中で死に、作品の中で死に、自分の中で死ななければならない。伊丹(万作) さんの言ったように〈原作と心中する〉ことだ。そのことがかえって監督自身のオリジナリティ、純粋性が保たれ、監督として生涯にわたって根底に持つテーマが浮き彫りになるのではないだろうか。
 余談ながら、私が川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』(一九五六年) が凄いと思うのは、映画の中で明確に、川島監督の不自由な肉体というものを感じるからだ。そのあがきや、もがき苦しむ姿やコンプレックスが、溌剌と動き回る人物たちに託され、昇華されていると、はっきり感じる瞬間があるからだ。
『洲崎パラダイス赤信号』はまぎれもなく、川島監督の映画そのものだと、強く認識させられる作品だ。だが川島監督は、己の思想信条など、映画の中で全く押しつけてはいない。全身の生身の感覚というもので映画を撮っているから、そんな小細工は全く必要がないのである。
 
 映画を製作するプロセスにおいては、映画は監督のものだといえようが、もっと俯瞰して見れば、映画は結果、観客のものだ。映画製作は監督の哲学や思想をひけらかす場ではない。それは観客に対する押しつけでしかない。歌舞伎なら歌舞伎の、文学なら文学の、美しい情緒の本質を、主人公の生き様を通して感じさせるものでなければならない。
『心中天網島』は批評家たちの選ぶその年のベストワンとなったが、〈心なしかそのあとこの監督は光を失った〉と、淀川さんは手厳しく結んでいる。
 
 淀川さんの批評は、読者への批評を飛び越えて、作り手にも大きな影響を与えてくれる。昨今の映画批評家と呼ばれる人にはそれを殆ど感じない。それはやはり映画を語る上で映画しか観ていないからだ。淀川さんのように、あらゆる芸術を体験し、勉強してきたというベースがないからだ。
 淀川さんにかぎらず、例えば滝沢一先生や荻昌弘さんもそうであったが、昔のひとかどの映画批評家というものは、古今東西の文学、古典芸能、美術、音楽などに精通され、書いても語っても、批評のベースにはそれが確かに感じられたものだった。
 だいたいが、今の批評は、映画感想文になってしまっているものが多い。いわゆる友達どうしの茶飲み話だ。批判するのは簡単だし、作り手からすれば〈そんなことはわかっているんだ〉と言いたいような批評が殆どである。批評家というものは、批判するならそれをもっと深くつきつめて書かなければならぬと思う。深くつきつめられないのは、批評家自身にベースがないからだ。あらゆる芸術を読んで見て、考え抜く。こうしたベースがあってこそ、知識や理屈ではなく、優れた直感による批評が生まれるのであり、作り手をも納得させられる批評が生まれるのである。
 淀川さんは批評に関して次のように書いている。長文になるが引用したい。

 

『映画を批評するときに、その時代と歴史と思想だけを取り上げて人間が描かれているかどうかを見きわめぬ批評には生きている人間のぬくもりを感じない。人間の本物が描かれるかどうかということと演出の美を摑むことが批評の第一と私は思う』

『映画に人間を発見する批評をとなると映画批評というものはありとあらゆる芸術鑑賞能力が必要なことは勿論だ』

『困難な漢字がつめこまれた文体が、また理解に苦しむ難文の批評は当人はそれで満足であろうが、それがいかに映画の内容を摑んだとしても、そうであったとかりにそう思えたとしても、そう思うまでに時間がかなり要し、かかる批評ははっきり申して下手な批評なのである。批評は自分のものではなくあらゆる人へのものなのである。そして批評は厳正でなくてはならぬと同時にそこに映画への愛情がしみこんでいる批評でなくてはなるまい。』
(以上、山田和夫監修 映画論講座1「映画の理論 映画批評論」合同出版より)

 

 最後の一文だが、私の定義では映画の作り手にも小説の書き手にもいえることだろう。早い話がハッタリかハッタリでないかということだ。ハッタリでなければそれは難解とは感じず、大切なことが描かれている、書かれているという感覚が呼び覚まされ、観客は観続け、読者は読み続けるだろう。いずれにしろ、観始めて五分でいやになったり、読み始めて数行で読む気をなくすのは、その作品そのものに、何か重大な欠陥を孕んでいるのではないかと思う。
 
 さて、今回から映画批評編ということなのだが、残念ながら私には淀川さんのような立派な批評はできない。ただ、批評の精神というものについては全く同根であるし、それをもとにシナリオ的に読み解くということであれば少しはできるかもしれないと考え、試みる次第である。よって、誰に向けてと問われれば、どちらかといえば作り手を志す若い方に向けての批評となってしまうことをご容赦願いたいと思う。
 
 
【2】
 
 観ているようで観ていないのが、名作と呼ばれる娯楽映画である。絵画で例えるならば、名作映画はデッサンにあたると思う。つまり、このデッサンをないがしろにしては、人の心をうつ映画はできないし、本当の自分のスタイルというものを確立できない。ピカソもそうだが、タルコフスキーもフェリーニもそうだった。オーソドックスな作品ができた上で自分のスタイルを築き上げている。
 というわけで、初回は名作の代表格である『素晴らしき哉、人生!』(一九四六年米映画/監督・フランク・キャプラ/脚本・フランク・キャプラ フランセス・グッドリッチ アルバート・ハケット/原作・フィリップ・ヴァン・ドーレン・スターン「The Greatest Gift」より) を取り上げ、未だ色褪せないその魅力を探ってみたいと思う。えーっ、今さらかい、とおっしゃらないで頂きたい。逆に若い方などは、タイトルくらいは知っていてもまだ観たことがないという人も意外に多いのではないだろうか。
 この映画は歴代のアメリカ映画のベストテンには必ず入る名作だし、毎年のクリスマスには風物詩のようにテレビで放映され、またアメリカの大学の映画学科ではテキストとして必ず採用されているほどである。
 ジャンル的にいえばハートウォームコメディということになろうが、このコメディ映画は意外に深い。
 余談ながら、以前この映画を授業で取り上げて、ファーストシーンとクライマックスからラストに至る部分だけを学生たちに見せたところ、みんな感動し、中には号泣している者さえあった。それほどこの映画には切実に訴える力があるといえよう。
 
 主人公はジョージという男である。彼の人生は少年時代からツイていなかった。凍った池で遊んでいて、弟が溺れかけ、それを助けたはいいが高熱で寝込み、左耳を失聴してしまう。
 高卒後、念願の海外旅行に出かけようとした時には、住宅金融会社を経営していた父親が急逝し、あとを継ぐことになってしまう。会社を軌道にのせたら経営を弟にまかせて大学に行こうと思っていたが、弟は大卒後にサッサと結婚し、就職先も見つけてしまったことで、夢は途絶えた。
 町の人によかれと思い、安い金利で住宅資金を貸し付けたはいいが、町の実力者であり銀行家のポッターににらまれ、懐柔されそうになったり、圧力をかけられたりする。
 そんな中にあっても、最愛の女性と結婚し、四人の子供にも恵まれ、貧しいながらもそれなりに幸せな生活を送っていたのだが、ある時、同じ会社で働く叔父が銀行に入金すべき大金を置き忘れ、ポッターがその金をこっそりネコババしたことからジョージの人生が暗転する。このままでは会社がつぶれるどころか横領の罪にさえ問われてしまい、牢に入らなければならなくなる。
 ポッターに頭を下げて金を貸して欲しいと頼むも断られ、絶望したジョージは保険金で穴埋めすべく、自殺を図ろうとするのだが、それを助けたのが二級天使のクラレンスだった。彼は上司から、翼を得るためにジョージを助けるという使命を帯びてこの地に降りてきたのである。だがジョージの絶望は深く、クラレンスの説得を聞き入れようとはせず、「生まれてこなければよかったんだ」と言い放つ。そこでクラレンスはもしジョージがこの世に生まれてこなかったら世の中はどうなっていたのかという世界を見せるのだった……。
 
 トップシーンは雪降りしきるクリスマスの夜、行方がわからなくなったジョージを案じる友人や家族たちの声で始まる。続いて宇宙のシーンになり、そこは天上世界で、二人の上司の星雲(天使)が語り合っている。今まさに自殺しようとしているジョージを助けるべく、二級天使のクラレンスが呼ばれて、命を救えと命じられる。そして上司がクラレンスに、これまでのジョージの生き様を見せるところから、映画が本格的に始まるのである。
 この映画のシナリオの構成はよくできている。凡庸な作家、監督ならばこのクラレンスを前面に出し、全編を通してジョージとのかかわりを描くだろう。ジョージはその中で生きることを学び、人生の素晴らしさを感じさせるといったありがちな構成だ。だがキャプラのオッサンはそんなダサダサの構成にはしない。
 仮にその構成を選択したとすれば、それはジョージとクラレンスとの物語となり、映画の根本的な狙いがずれていってしまう。即ち、〈もし自分が生まれていなければ、この世の中はどうなってしまうのか?〉というダイナミックな命題から逸れていってしまうのである。ひいては正しく誠実に生きた人間の人生の美しさ、素晴らしさというテーマからも逸脱してしまう。
 キャプラ監督はクラレンスにジョージの過去(半生) を客観的に見せるという構成にした。これによりジョージが不運ながらも誠実に生きる人間だということを知らしめるわけだが、それはクラレンスが見ていると同時に、私たち観客も見ている(体験する) という構造になっている。
 そしてジョージの自殺未遂に至るくだりと、自分が生まれなければどういう世界になったかを見せるわけだが、この映画の構成の素晴らしさは、観客にジョージの半生をじっくりと見せることによって、観客自身も、もし自分がこの世にいなければどうなるのかを、強くイメージさせられる点にある。それによって主人公が自分の中に、逆に自分自身が主人公の中に深く入り込み、映画を観たというより、体験したという感覚をおぼえる。共感ではなく同化だ。芸術性の高い映画でそうした感覚を得られるというのはしばしばあることだが、こうした娯楽映画においては珍しいことといえる。
 構成はテクニックである。だがそのテクニックはテーマ、人物を生かすためにある。シナリオがテクニックの塊だというのはそういうことだ。テクニックを学ばないではいくら熱情があっても表現はできない。
 
 もう一つ、特筆すべきは、主人公の葛藤の描き方についてである。ふつう、劇映画においては、発端において主人公の持つ明確な葛藤が提示され、それがどうなるかという緊張感をもって観客は観る。だが、この映画におけるジョージの葛藤は、自殺に至るまでの半生全体で綴られ、積み上げられてゆくのである。つまり、大金を紛失するという決定的なアクシデントが起きた時、どれだけ誠実に生きても、所詮俺の人生には運がなかった、神さえも見放した人生だった、もう生きていても意味はないという、その絶望という名の葛藤に至るまでの心情がていねいに描かれている。
 ふつうならばトップシーンで死のうとするジョージの姿そのものを見せておいて、いかなるわけで自殺に至ったかを描くだろう。だがそれを伏せることにより、自殺よりももっと大切な、ジョージの生き様を観客に伝えようとしている。それによって金をなくしたから死のうといった、ピンポイントの外形的な葛藤よりも、積み上げられてきたジョージの生き方そのものについての葛藤が強調されるのだ。
 ジョージという男は世界旅行を夢見る、正直で誠実だが、それはどこにでもいるような人間なのであり、それは私であり、あなたが、ジョージなのだと映画は語りかけてくる。
 そして、人生というものが、しばしば突然の不運や悲しみに見舞われるということも私たちはわかっているので、ジョージを我が身同然に思い、何とかしてやりたいと願うのである。
 
 自分が生まれてこなかったとすれば、世の中が暗黒世界になってしまうと知ったジョージは、どんなに自分の身に苦難が訪れようとも、自分がいない、存在しないという恐怖に比べれば、苦難すら幸せなことなんだと気づく。たった一人の人間であっても、どれだけの人々を幸せにしたか、町をどれだけ豊かにしたか、それを思えば金を失ったことなどとるにたりないとジョージは知るのである。友人たちがいて、家族がいて、愛する町があるということがどれだけの幸せかを、身をもって実感するのだ。
 自分の命というものは自分の幸せのためにあるのではなく、他者の幸せのためにあるのであり、自分が生きていることで愛する人たちも幸せに生きているのだ。だから絶対に自殺してはいけないし、この世に生きていることそのもの以上の幸せはないのだと悟り、暗黒世界から解放された時、ジョージは今自分が生きていることに対して歓喜を爆発させるのである。
 そして観客も映画を観終わった後、必ずこう自問する。〈もし私がこの世に生まれてこなかったとすれば、世の中はどうなっていたのだろう?〉と。ここに、この映画の真骨頂があるのである。
  
 この映画をきれいごとだと批判するのは簡単だ。だが、この映画が秀逸なのは、ファンタジーの形式をとりながら、生活のリアリズムというものをしっかり守っているところである。シナリオの苦労があるとすれば、伏線の張り方でもクライマックスの描き方でもなく、リアルな日常生活というものを、いかに飽きさせずに見せるかということだったのではないか。そうしたシーンは退屈になりがちであり、ふつうの映画なら切ってしまいたいところだ。だが、それを切ってしまうと、この映画の生命線である、自分がいない世界というものがいかにおそろしいことになるのかが、十分に描かれないのである。町でも家族でも、主人公が生きている世界を本物だと観客に思わせなければ、この映画の成功はない。映画において、人物がその世界に本当に生きているということを観客に思わせるのは、意外にむつかしいことなのである。
 
 娯楽映画とはいえ、この映画の中ではしばしばリアリズムあふれる描写、演技が見られる。
 ジョージの少年時代のエピソード。息子を戦争で亡くし、悲痛のあまり薬の調合を間違え、あやうく毒物を客に提供しそうになるドラッグストアの店主がいた。ジョージ少年はその店でバイトをしていたのだが、そのミスに気づき、薬を客のもとには届けなかった。客からの苦情の電話で店主が怒り、ジョージ少年を打つ。だが店主もミスに気づき、「このことは誰にも言わない」と言うジョージ少年を抱き締めるのである。このくだりは妙なリアリズムがあり、感動的であり、生々しくもある。
 原作にもあるのかもしれないが、おそらく、キャプラ監督か脚本家の誰かが似た体験をしているのではないかと感じた。
 また、キャプラ監督はイタリアからの移民であり、貧しい家庭に生まれ、幼い頃から様々な仕事をして家計を支えている。そうした経験というものが、演出に生かされていることは想像に難くない。
 
 ジョージ役のジェームズ・スチュワートの芝居も軽妙ながら、生々しく感じられる瞬間がある。人に与えてばかりで身内にはぜいたく一つさせてやれないもどかしさに、ジョージは時として苛立ちをあらわにする。だがその芝居があってこそ、ラストの感動があるのだと、ジェームズ・スチュワートはよくわかっているのである。そして、自分がヒーローではなく、どこかの小さな町の平凡な一市民、一人の男であるということもわかっている。平凡な男だからこそ、困難であっても誠実に正しい道を突き進もうとする姿に、観客は共感をおぼえるのである。これがまるっぽヒーローならばそうは思わないだろう。その芝居の芯を、キャプラ監督はもちろんだが、ジェームズ・スチュワートもよく心得ているのだ。
 
 だが、この映画は興行的には惨敗だった。失意の中でキャプラ監督はそれ以後、輝きを放つ作品をつくることはかなわなかった。
 にもかかわらず、後年、これだけの人々に愛され、名作として認められているのは、やはりいい作品、後世に残る作品というものは、数ではなく質であるということを証明しているにすぎないのである。
 
 作り手の意識として、もう少し踏み込んだ考え方をしてみよう。
 キャプラ監督は第二次世界大戦において戦意高揚のためにプロパガンダ映画を撮っていた。そこで戦場の現実を見てショックを受けるのであるが、その経験がこの『素晴らしき哉、人生!』を製作する一つのきっかけになったのではないかと思う。
 終戦の翌年にこの映画はつくられているが、その根底には、人の命というもの、人間一人一人の存在というものについて、キャプラ監督自身が、深く考察するところがあったのではないだろうか。
 人間の愚かしい行為によって、命をいうものがいとも簡単に失われてゆく様を逆手にとり、人間の正しい行為によってどれだけの命が救われ、人生が素晴らしいものになるかという、映画監督自身が持つテーマを、映画の中に潜ませたのではないか。
 そう、それはかつて脚本家のドルトン・トランボがレッドパージ(赤狩り) に反対し、映画界を追放された後に、名を変えて『ローマの休日』のシナリオを書き、真の自由ということ、解放されることの素晴らしさというテーマをその根底に塗りこめたように、である。
 
 人間の絶望的な不幸というものは、しばしば人間にとてつもない力を与えてくれる。だがそれは、生きてさえいればという前提であり、だから生きよと、この映画は私たちに教えてくれる。
 いや、今こうしている瞬間にも自分よりももっと悲惨な不幸にさらされ、明日の命もわからないという人があるはずである。その人のためにもあなたは生きるべきだと、この映画は語りかけてくるのである。
 
 ともあれ、優れた娯楽映画は同時に優れた芸術でもあるということを、この映画は示してくれている。では優れた芸術とは何かということになろうが、きりがないのでそれを論じるのは別の機会にゆずるとして、今回はこのあたりでやめておくことにしよう。
 それでは皆さんお元気で、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ……。
  

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。