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山田宗太朗、千夜千冊に挑む 第5夜:河井寛次郎『火の誓い』~無心で作るということ~

senyasensatsu

【松岡正剛・千夜千冊】http://1000ya.isis.ne.jp/
いわずとしれた知の巨人が営々と築き上げた
本のエベレスト。
挑むのは若輩・山田宗太朗!
この読書エッセイは頂点に辿り着くのか!?

第5夜:河井寛次郎『火の誓い』~無心で作るということ~
 
 無知な私は、当然、河井寛次郎の名を知らなかったし、その作品を見たこともなかった。私は本稿を、それらの作品を見ることなく書こうとしているので、自分はなんて傲慢なんだろうと思いながら、同時に、見たところで私には何の参考にもならないだろうな、と思いもする。
 河井寛次郎は、大正・昭和期に活躍した陶芸家・彫刻家・書家である。
 陶芸や彫刻にほとんど興味のない私が普段目にする陶芸作品といったら、最近帰省する度に家に増えつつある、父の、珍妙な陶芸コレクションくらいであり(変な壷とかある。よくわからない)、私には陶芸の良し悪しなどさっぱりわからない。試しに河井寛次郎記念館のウェブサイトを開き、その作品を見てみるも、「ああ、すごいんだろうなあ」と、ほとんど何の意味もない、アホみたいな感想しかない。
 
 私には陶芸作品を味わうことができない。
 その理由をあまり考えたことがなかったのだが、最近、これはある種のコンプレックスなのではないかと思うようになった。というのも、私が育った土地は、陶器の街として有名な地であり、思春期の私は、その街からは今すぐにでも抜け出したいと強く望んでいたのであって、ということは、おそらく、陶芸は、私にとって、その成長過程において否定すべきものの象徴だったのかもしれないのである。かつての私は、故郷の一切を否定しようとしていた気がする。とにかくあんな街(というか狭いムラ)で生きていくのは嫌だ、こんなところに自分の将来があるはずがない、そう強く思っていた。若いなあ。
 
 それはさておき、『火の誓い』である。カッコ良いタイトルだが、「陶芸家のエッセイでしょ?」という感じで、読み始めるまでに時間がかかった。そして案の定、読み終えるのにも時間がかかった(いつものことだが)。
 結論からいうと、あまり好きな本ではなかったが、それなりに心に残る箇所も多かった。たとえば次に引用する箇所。

 
 

 どんな農家でも――どんなにみすぼらしくっても――これは真当の住居だという気がする。(中略)小さいなら小さいままで、大きいなら大きいままで、どれもこれも土地の上に建ったというよりは、土地の中から生え上がったと言いたい。

 
 

 最後の部分が私の心のどこかを叩く。
「土地の中から生え上がった」という文。
 住居とは本来そういったものではないのか、という気がする。
 人間は土地を所有し、売買し、貸し借りする。そこへ家を建てる。しかし、本当に「土地を所有」することなどできるのだろうか。
 土地は誰のものか。いや、この問題提起は少し違うかもしれない。土地は本来、所有という概念から自由であるはずではないのか。つまり、人間が先にあるわけではなく、土地が先にあるのではないか。
 当たり前のことを言っているように聞こえる。しかし、我々の生活はむしろこの当たり前の逆から始まっている。人間は土地を発見し、開発する。山を削り、川や湖や海を潰し、コンクリを流し、固め、埋め、その上に住居を建て、人を呼ぶ。もとあった土地を壊す。人間の都合で造り直す。住居は、暴力から始まっている。我々は暴力の上で生活している。そのような生活を疑いなく享受する人間とは、いったい、何様なのか?
 現在、我々、少なくとも大部分の日本人が住む住居には、「土地の中から生え上がった」ような住居はほとんどない。土地から固有性を奪うように、土地を潰し、その土地のものを追い出して建てられた住居ばかりである。これは河井に言わせれば「真当の住居」ではない。「真当の住居」を持たない生物は人間だけである。人間には(と、ざっくり言ってしまうのは本当はためらわれるのだが)、土地に対する敬意というものがほとんどない。あるいはそんなものはとうの昔に忘れてしまっているようだ。
 もっと、その土地に合う住居が、土地に合わせた暮らし方というものがある気がする。河井は農家に真当な住居を見る。美しい暮らしを見る。しかし私には、正直に言って、その美しさはまだよく見えない。私の目はまだ開かれていないらしい。
 
 私には、河井の言葉は、わかるようでわからない。河井はこんなことも書いている。
 
 

 ピカソ程全身をあげて陶器へ踏み込んだ画人を自分は知らない。しかしよく見ると皿は彼を許してはいない。ピカソは歌ってはいるが皿は和してはいない。この協和しない性格の二重奏はどうしたことなのであろう。

 
 

 どうしたことなのであろう、と言われても、何が驚きなのか、わかるわけがない。私は、本連載を通して、どちらかと言えば悪口に近いチンピラレビューを書いているかもしれないが、この文章を読んで「この人の言いたいことはよくわかる」とか「この人の言っていることはおかしい」と言えるほど、厚かましい神経の持ち主ではない。私には、この文章は、さっぱり意味がわからない。わかるはずがない。この文章を理解できるのは達人だけだ。「皿は彼を許してはいない」とか「ピカソは歌ってはいる」とか、こういうことを理解できる人はほんの一握りしかいないはずだ。
 こういった文章を目にした時に、わかりもしないのに味わい深いようなツラをかます奴が、私は大嫌いである。
 
 というわけで、私にとっては、本書は全体的にわかりにくかったし、今の自分の気分にも合わなかった。
 今の自分の気分に合うのは、むしろ、たとえば本書の『蚯蚓の鳴声』と題された文章において、「闇の中」で「ひときわ鮮やかにジジイジジイと連続的に穴をあけている音」を「地の底でみみずが鳴いているのだと教わ」り、しかしその実、蚯蚓ではなくおけらの鳴声だと知って、「みみずの言葉だ。と思う方がずっと尤もらしくもあり、似合ってもあり、真当らしくもあった」と記すに留める河井寛次郎よりも、同じそのおけらの鳴声から物語を始め、人間の血のしがらみを、愛と憎悪を、土の匂い樹木の匂い草木の匂いを、血や汗や粘液や人々のいきれを、刺すような文体で鮮やかに描いた中上健次の方である(「地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴き続ける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを想った」中上健次『岬』冒頭より)。
 こんなふうに、自分の得意分野・好きな分野にむりやり引き付けて書いてしまうのは、私の悪い癖なのかもしれない。いずれにせよ、本書を味わうには、私にはもう少し修行が必要なようである。
 
   ※
 
 最後に、孫斗昌という名の、江原道から来た藁工品作者について記された文章を引用しておく。
 
 

 ある人が「どんな気持ちで作りますか」と孫君に問うたことがあった。その時の彼の答は簡単であった。「はい、作ります」(中略)「気持ち」などという嵩張った荷厄介な神経は、彼の仕事の中では未だ見た事のない世界の霧みたいなものなのだ。

 
 

 これを読んだ時、私は、坂口恭平『幸福な絶望』の、「名作を作り上げるために書くのではないのだ」という言葉を思い出した。曲がりなりにも文章を書こうとする者、何かを作ろうとしている者として、私も、このような謙虚な気持ちで創作に励みたいと思うのである。
 
 ……と、◯◯な気持ちで作りたい、などと書いてしまった時点で、私が河井や孫の境地からほど遠い地点にいる、嵩張った荷厄介な神経の未熟者であることが明らかになってしまった。私はもっと、自分の仕事に集中しなければならない。
 がんばります。

宗太朗の本棚
9月号

yamada

山田宗太朗(やまだそうたろう)
早稲田大学スポーツ科学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了。
2013年からKindle等で小説を発表し始める。2014年、第一回CRUNCH NOVELS新人賞最終候補。ユリイカ「今月の作品」佳作(2014.11)。カルチャー誌『アヴァンギャルドでいこう』編集人。音楽ユニットPUNK IPAs作詞担当。ときどきバーテンダー。
twitter: @ssafsaf
tumblr: http://ssafsaf.tumblr.com
blog: http://borntobeavantgarde.hatenablog.com