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山田宗太朗、千夜千冊に挑む 第4夜 ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』~意識に利点はあるか~

senyasensatsu

【松岡正剛・千夜千冊】http://1000ya.isis.ne.jp/
いわずとしれた知の巨人が営々と築き上げた
本のエベレスト。
挑むのは若輩・山田宗太朗!
この読書エッセイは頂点に辿り着くのか!?

第4夜:ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』~意識に利点はあるか~
 
「コンピュータ・心・物理法則」という副題が付けられた本書を、図書館でリクエストし、「他の自治体から取り寄せるのでしばらくお待ちください」と言われ、届いた日、その分厚い実物を見てページをぱらぱらとめくって、「これは実におもしろそうだ、すぐに読めるだろう」と、私は、全然思わなかった。
 むしろ完全にヒヨった。第4夜にしてすごい課題に当たってしまった。
 ロジャー・ペンローズは、スティーヴン・ホーキングと共同でブラックホールの特異点定理を証明したことで有名で、他にも、ペンローズの階段・ペンローズの三角形などでエッシャーの絵にも影響を与えたと言われている、超有名な物理学者である。
 
 本書の主な論点は次の引用の通り。
 

「考えたり、感じたりするというのはどういうことか。心とは何か。心は本当に存在するのか。存在するとして、心はそれと結びついている物理的構造に機能の点でどこまで依存しているのだろうか。心はこのような構造とはまったく無関係に存在できるだろうか。それとも、それは(適当な何らかの)物理的構造の働きにすぎないのか。いずれにせよ、心と関連する構造は本性上生物的なもの(脳)でなければならないのか。それとも、心はエレクトロニクス装置とも同じくらいにうまく結びつけるのか。心は物理的法則に支配されているのか。だとすれば、その物理的法則はいったい何であるのか。(p4)」

 
 それから、次に記すのが本書の目次である。
 
 1章 コンピュータは心をもちうるか?
 2章 アルゴリズムとテューリング機械
 3章 数学と実在
 4章 真理、証明と洞察
 5章 古典的世界
 6章 量子マジックと量子ミステリー
 7章 宇宙論と時間の矢
 8章 量子重力を求めて
 9章 実際の脳とモデル脳
 10章 心の物理学はどこにあるのか?
 
 これらの引用文と目次を見ると、それなりに興味深い内容の書物だなあと思うかもしれない。
 しかしこの本、全体のほぼ七割が数学・物理の話なのだ。これらの学問に精通していない者、特に、量子論に馴染みのない者にとっては、ほとんど何も理解できないのではないだろうか。一応、一般向けに書かれた本なので、書かれている文章はたしかに平易、ユーモアもふんだんに含まれ、読みやすいことは読みやすい。しかし、書かれている内容が複雑すぎる。はっきり言って、私にはほとんどわからなかったと白状しておく。
 
 だが、わからない部分は読み飛ばしてもいいのが本書の特徴で、というのも、509ページある本文において、約400ページが前振りなのである。
 7章「宇宙論と時間の矢」までは、学術論文でいうところの先行研究と問題提起に当たる。私がヒヨったのは、この部分を理解する知的バックグラウンドに欠けていたためである。できるだけ数式を見ずに生きていきたいと願う者にとっては、古代の呪文か、見たことのない外国語が書かれているに近い感覚である。
 
 本論は8章「量子重力論を求めて」から始まる。10章「心の物理学はどこにあるのか?」にして、ようやく「心とは何か」を問う。
 松岡正剛は、この10章を「三分の二はつまらない」と書いているが、それはちょっとおかしいのではないだろうか。というのも、本書のキモとなる部分はこの10章なのである(これをつまらないって言うなら、こんな難しい本を千夜千冊の第4夜に持ってこないでくれ!と身勝手な不満を覚える)。
 私にとって、おもしろかったと言えそうなのは10章だけだ。とはいえ、この10章でペンローズはまともな結論ひとつ出していないのだから、相当な労力をかけてクソマジメに読んできたいじらしい読者(私)は肩透かしを食らってしまう。
 
 10章は、「意識」について考察している。「意識」という言葉は、本書においては「心」という言葉とほぼ同義である。この章の重要な点は次の二点にまとめることができるだろう。
 
1. 意識の働きには本質的に非アルゴリズム的な成分がなければならない
2. 意識はそれを実際にもっている者に、どのような淘汰上の利点をもたらすか?
 
 1は、納得がいくというか、なんだか当たり前の、平凡な見解じゃないか? 
 松岡はこれを読んで「びっくり」したらしいが、どうしてびっくりするのか私にはよくわからない。これでびっくりするのは、人工知能について勉強しすぎて、その領域に引っ張られすぎているからじゃないだろうか。つまり人工知能の発展を恐れるがゆえに、人間の意識、あるいは知性、理性、そういったものに対して安心したい、という松岡あるいはペンローズの「無意識」が透けて見える気がするのだ。逆に、意識がアルゴリズム的で、無意識が非アルゴリズム的だ、という主張が、否定しがたい根拠とともに提示されていたら、それはかなり興味深い。なぜなら、我々が主体的に選択し、悩んだと思われる事柄が、実はほぼ自動的・機械的に決定されていることを示唆するからである。
 
 本書の主張をざっくりと述べるなら、「人間の心はコンピュータなんかではわからない」ということになるだろうが、最初からこういった結論ありきで議論が進められている気がする。もちろん、ペンローズの書き方には、自分の結論を変える用意はいつでもある、というように見えるし(結論というのは、結局のところ、現時点ではこれがもっともらしいという「仮定」あるいは「思考の小休止」に過ぎない)、別に結論ありきで議論を進めることが必ずしも悪いわけではない。しかし、ペンローズは長い長い複雑な前振りの後で、ごく一般的な見解を示しているだけのように見える。果たしてこの長い前振りは、本当に必要だったのだろうか?
 
 2について。この問い自体はおもしろいので、本文を引用する。
 

「意識が淘汰に役立つのでなければ、小脳のような知覚力のない「自動機械」脳でも同じようにうまくやっていけそうであるのに、自然はわざわざ意識ある脳を進化させるという面倒なことをなぜしたのだろうか。(中略)自然淘汰はなぜこのような固体の種族に味方したのだろうか。ジャングルの情け容赦のない自由市場がこのような無用のナンセンスをずっと以前に根絶していただろうに」

 
 ……しかし、役に立つものばかりが淘汰されずに残るのだろうか?
 本来は何の役にも立たないのに、何らかの理由でたまたま残ってしまった、ということはありえないのか?
 
 環境の変化に適応できた者だけが淘汰されずに生き残る、というようなことがよく言われる。しかし、ある文化人類学者の仮説にこんなものがある(誰だったか忘れた)。
 両生類は、陸上生活に適応しようとしたわけではなく、海に戻ろうとする努力を何世代も続け、その結果、陸でも生活できるようになってしまった、と。
 つまり、変化に適応しようとしたのではなく、現状維持を望む意志が結果的に進化を誘い、淘汰を免れたのである。
 
 では、意識には本当に何らかの利点があるのだろうか。
 意識に淘汰上の利点が当然あると考えることは正しいのだろうか。
 むしろ不利益になる点はないのだろうか。
 意識には、淘汰の後から付いて来た単なる付属物である、という可能性があるのではないだろうか。
 
 ペンローズは答えを出せていない。
 
 だが、先に記した通り、答えとは仮定であり思考の小休止である。
 ここは松岡の言う通り、我々読者は、科学者たちの最高の成果のその先でしばらく遊ぶことにしよう。

宗太朗の本棚
8月号

yamada

山田宗太朗(やまだそうたろう)
早稲田大学スポーツ科学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了。
2013年からKindle等で小説を発表し始める。2014年、第一回CRUNCH NOVELS新人賞最終候補。ユリイカ「今月の作品」佳作(2014.11)。カルチャー誌『アヴァンギャルドでいこう』編集人。音楽ユニットPUNK IPAs作詞担当。ときどきバーテンダー。
twitter: @ssafsaf
tumblr: http://ssafsaf.tumblr.com
blog: http://borntobeavantgarde.hatenablog.com