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山田宗太朗、千夜千冊に挑む 第3夜 長尾雨山『中國書畫話』~退屈な、あまりに退屈な~

senyasensatsu

【松岡正剛・千夜千冊】http://1000ya.isis.ne.jp/
いわずとしれた知の巨人が営々と築き上げた
本のエベレスト。
挑むのは若輩・山田宗太朗!
この読書エッセイは頂点に辿り着くのか!?

第3夜:長尾雨山『中國書畫話』~退屈な、あまりに退屈な~
 
 本書は、中国の書画・書法・碑帖・文具について書かれた書物である。
 こういった種類の書物は、その分野に詳しくない者にとっては非常に読みにくいことが多く、時には閉鎖的・排外的ですらある。
 しかし、本書は、長尾雨山が行った講演の筆記であり、平易な話し言葉で書かれているので、中国の書画・書法・碑帖・文具について無知であっても、それほど苦労することなく理解することができるだろう。
 第一部、書画についての章は、「支那南畫について」と題されており、主に南宗画について、北宗画との違いを、語義や起源、その時代背景などを解説しながら、丁寧に説明している。
 ここで長尾が強調しているのは、画の区別は便宜的なものであり、厳密にはそれほどはっきりした区別はない、ということである。
 たとえば、建前上、南宗は「輪郭の線は薄くして、皺と渲染とを以て仕上げいく」のに対し、北宗では「手強い線を以て、濃い墨で輪郭をごく剛く描く」。また、南宗では着色画を描く際、「多くみな水繪具を使いまして、緑青、群青、あるいは金泥というような濃厚なものは用いぬ」が、北宗は「青緑、金碧のごとき濃厚な着色を加え」る。この点が大きく異なるだけであり、「人物、花鳥というようなものについては、南宗畫でも北宗畫でも同じように描くだけ」で、「そういう方面の畫に対しては南宗北宗という区別は一つもないのです」とある。
 
 もう少し整理しよう。
 そもそも、北宗の元祖は唐の李思訓、南宗の元祖も同じ時代の王維、ともに北方の人であり、従って、北宗・南宗という呼び方は、地理が由来ではない。この呼び方は禅から来ており、中国禅宗の開祖・達磨大使から五代目の引忍の弟子、慧能と神秀が、禅の教義を広めるために南北に分かれ、やがて南宗禅・北宗禅という言葉ができた。これに基づいて画を論ずる際に、南宗・北宗という言葉を適用した。
 と、いうことらしい。
 まあ、要するに、南宗画・北宗画、という言葉は、そもそも他ジャンルの言葉を借りて分類しただけであるので、正確に定義・区別することはできないし、そのあたりの無理解が多くの誤解を生んでいる、ということである。
 
 画の描き方だの禅だの、何やら第3夜は堅苦しい雰囲気になってしまいそうだが、この話、日本の現代文学に置き換えてみるとわかりやすい。
 たとえば、「純文学とエンタメとの違いは何か?」という、文芸誌でもネットでも定期的に議題になるこの問題。
 あるいは、「私小説とは何か?」という問題。
 なんだか、南宗画と北宗画の違いは何か? という問いに似ていないだろうか。
 どうやら『中國書畫話』は、長きに渡って日本の文学界を悩ませている(あるいは甘やかし、延命させている?) 永遠の(というにはあまりにもスケールの小さい) テーマのメタファーとして読むことができそうである。
 私は、個人的には、このような問題(問題?) に関して、自分でも書きながらウンザリしてしまうほど興味がないし、こういった文学論(文学論?)を嬉々として論じる者を、無意識的な露出狂、あるいは自慰中毒者であるかもしれないと思っているし、また、そういった議論(議論?)からは距離を置き、自分のやるべき仕事に注力したいので、本稿を通して「純文学とエンタメの違い」とか「私小説とは」について語る気は全くないので、まあ、それについては、やりたい人は各自やってください、と言う他ないのだけれど、長尾雨山という人は相当マジメな人であるらしく、中国の書画における「純文学とエンタメの違い」や「私小説とは何か」問題に、なぜそんな問題が存在するか、という点にまで言及し、実に丁寧に、紙幅を使って(正確には長い講演を通して) 向き合っているのである。
 実にマジメである。私はやりたくない。
 マジメ繋がりでいえば、長尾は、南宗画に対して北宗画が衰退している当時の現状を分析し、その原因は、北宗が技巧に寄り過ぎたことだ、と言っているが、これもまた、日本の現代文学のメタファーとして読めるのではないだろうか。
 本稿の読者の中で、ここ数年の芥川賞候補作や、新人賞受賞作をチェックしている人がどれほどいるかわからないが、それらのいくつかの作品を読めば、「昨今は小説が売れない」などという言説が、いかにバカバカしいほど当たり前のことであるか、理解できるだろう。
 売れるわけがないのである。
 誤解してほしくないのだが、私はもちろん、売れるということに最上の価値を置いているわけではないし、一番売れているものが一番下らない、ということがままあることを知ってもいる(いや、ままあるどころか、一部の例外を除けば、下らないものばかりが売れている、とハッキリ言っても、それほど間違いではないかもしれない)。
 しかし、そのようなことを考慮した上でも、日本の現代文学は、技巧ばかりを問題にして、あまりに閉鎖的になっているのではないだろうか。
 文学の話は苦手なので、バスケットボールの話にする(逆にわかりにくい?)。
 たとえば、物凄くボールハンドリングのうまい選手がいるとする。そいつは両利きであるかのように、左右どちらの手でもうまくボールを扱えるし、ボールが手に吸い付くようにドリブルすることができる。一対一でそいつからボールを奪うことは不可能だし、ノールックパスや、誰も真似できないアクロバットなプレイをすることができる。カットインしてレイアップと見せかけて右手でビハインドパス、と思わせといてボールを左の肘に当ててノールックのまま右サイドにいる味方にパスすることができる。まるで全盛期のジェイソン・ウィリアムズのように(知ってる?)。
 つまり超絶技巧を持った選手を想像して欲しいのだが、では、その技術はいったい何のためにあるのか、ということだ。
 バスケだったら、試合に勝つためだ。その技術、そのプレイが、試合に勝つために必要なものならいい。
 しかし、そうでないとしたら?
 その技術、そのプレイには、少なくとも試合においては意味がない。
 同じことが文学にも言えるはずだ。
 いや、文学とスポーツは違う、と言いたい人があるのも理解できるが、しかし、技術というのは、それを適切な状況で使えた時に、初めて価値を持つのではないのか?
 もっと踏み込んで言うと、たとえば、小説における移人称という技術。
 渡部直己によれば、移人称とは、ひとつの作品の中に二種類の人称が存在し、「語りの焦点が一人称と三人称とのあいだを移動し往復」し、「同一次元の作中人物としてかかわりあい、あるいは、同じ話者の資格で、語りを引き継ぎ譲り渡すといった関係におかれる」ものを指す(渡部直己『今日の「純粋小説」――『日本小説技術史』補遺』新潮2014年10月号を参照)。
 小説、とくに、一般的には純文学と分類されるジャンルの世界で、この移人称小説、去年あたりにちょっとしたブームになったのだけれど、古今東西の小説を読み込んできたはずの小説家達が、なぜ、今、移人称を使った習作みたいな作品(作品と呼ぶより、移人称技術習得のための課題、とでも呼んだ方がしっくりくる) を発表してドヤ顔しているのか、私にはまったく理解できないのである。
 福永信は、移人称を「ギャグである」と言った。
 まあ、これはこれで福永が言うからおもしろいのだけれど(福永の小説は、この文脈で言えば、昨今流行りの移人称小説などよりよっぽど高等な「ギャグ」小説ばかりである)、そこまで言わなくとも、移人称を使って何を書くか、が大事なのであって、バカのひとつ覚えみたいに移人称を連発してドヤ顔しているだけの小説が売れるはずがないし、そういった小説をチヤホヤしておいて、「昨今は小説が売れない」などと言うのは、単なる甘えと、自分だけは良さをわかってるぜ、という、なんとも虚しい劣等感の反映かもしれないのである。
 
 さて、色々書いてきたが、以上のようなレビューというか感想は、『中國書畫話』について何かを書くという前提で読んだからこそ産まれた文章であり、この本にはレビューすべき何か重要なことが書かれている、という自己催眠をかけなければ、私は本書を最後まで読み、文章を書くことができなかっただろう。
 何が言いたいかというと、率直に言って、本書は、私にとっては、退屈な、あまりに退屈な書物だったのである。
 なぜ退屈だったのだろう?
 断っておくが、確かに私は書画にそれほど興味を持っているわけではないが、とは言えまったく無関心というわけでもない。文字と絵の一体化した芸術という考え方にはそれなりに惹かれもするし、また、東アジアにおける書画文化とイスラム教におけるカリグラフィーの共通点などは、非常に興味深いものだと思っている。だが、これらの点に関して考察するための材料は、本書からは一つも得られなかったし、最後まで読み進めるのが苦痛でさえあった。
 なぜか?
 お前の頭が悪いからだ、という、ごく真っ当な指摘はとりあえずは脇におくとして、私は、これには二つ原因があると思う。
 一点目は、本書の成り立ちに関わっている。
 冒頭に記した通り、本書は、長尾本人が書いたものではなく、長尾の講演を聞いた者が書き取った記録である。息子の長尾正和氏による「あとがき」によれば、長尾雨山本人には著作を出版する意志がなかったらしい(ちなみにこの「あとがき」は、なかなか熱い文章である)。そもそも文章化して人に読ませるつもりがなかったのだから、その文章にケチをつけるのは、まあ、野暮というものかもしれないが、それでもやはり、本書の文章には魅力がない。
 二点目は、本書の性格に関わっている。
 本書は、中国の書画・書法・碑帖・文具を細かく分類し、紹介することを旨としている。つまり目的は説明なのである。それはそれで価値のあることだが、同じように、雪についての「説明」を旨とした中谷宇吉郎『雪』をそれなりにおもしろく読んだ者からすると、単なる知識の紹介・説明に止まっている本書には、どうしても味気なさを感じてしまう。中谷の文章には、危機意識と情熱があった。いや、危機意識や情熱を感じさせる文章の方が優れている、などと言うつもりはまったくない。しかし、中国の書画にそれほど積極的な興味を持っているわけではない私からすると、このような書物を読むことは、誰かに無理やり教科書を読まされるに似た窮屈さがある。その窮屈さを覆すフックとなるものを、私は本書から見つけ出すことはできなかった。
 結果、私は、10代の頃の、嫌いだった読書を思い出したのだった。
 
 退屈な読書の後には口が悪くなるのか、あるいは、自分で付けた本稿の副題に引っ張られてしまったのか、どうやら私こそが「退屈な、あまりに退屈な」文章をダラダラと書いてしまったようなので、この辺りでやめることにしよう。
 しかし、私がこのように辛辣な――というよりはむしろチンピラの文句に近い――レビューを書いたとしても、長尾は決して怒らないだろう。本書でさりげなく繰り返される長尾の言葉を最後に引用して、第3夜を締めることにする。
 

「古人が書いたものならどれもこれも金科玉条として尊奉すべきものだと考えたならば、それは過信になる、そういうことになりますと、常に古人にだまされて常にまごついておらなければならぬことになりますから、自分で常識的に考えることが必要であります」(p114)

宗太朗の本棚
7月号

yamada

山田宗太朗(やまだそうたろう)
早稲田大学スポーツ科学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了。
2013年からKindle等で小説を発表し始める。2014年、第一回CRUNCH NOVELS新人賞最終候補。ユリイカ「今月の作品」佳作(2014.11)。カルチャー誌『アヴァンギャルドでいこう』編集人。音楽ユニットPUNK IPAs作詞担当。ときどきバーテンダー。
twitter: @ssafsaf
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