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山田宗太朗、千夜千冊に挑む 第2夜 ロード・ダンセイニ『ペガーナの神々』~話しかけなければ何も始まらない~

senyasensatsu

【松岡正剛・千夜千冊】http://1000ya.isis.ne.jp/
いわずとしれた知の巨人が営々と築き上げた
本のエベレスト。
挑むのは若輩・山田宗太朗!
この読書エッセイは頂点に辿り着くのか!?

ロード・ダンセイニ『ペガーナの神々』~話しかけなければ何も始まらない~

 ロード・ダンセイニ『ペガーナの神々』は、まだこの世界が始まる前の、神話以前の神話を描いた物語である。その始まりはこうだ。少し長いが引用する。
  
 

 まだこの世がはじまらない前の、ふかいふかい霧のなかで<宿命>と<偶然>とが賽をふって勝負を決めたことがあった。そうして勝負に勝ったものは、霧を超えて、マアナ=ユウド=スウシャイのそばに近づき、こう話しかけた。
「さあ、わしのために神がみをつくってもらおう、わしは賽にふり勝ち、勝ちびとに渡されるものを手に入れたのだから」
 その賭けに勝ったのはだれで、また、この世がはじまらない前の、ふかいふかい霧を超えて、マアナ=ユウド=スウシャイに話しかけたものが<宿命> だったのか<偶然> だったのか――それを知っている者は、ひとりもいない――

 
 ここでは、この世が生まれ、存在しているのが、果たして何らかの<宿命> のせいなのか、あるいはまったくの<偶然>なのか、という根源的な問いの提示と、すべての神々の上に立つ何者かの存在(どういう意味かは知らないが、ここではマアナ=ユウド=スウシャイと呼ばれていて、かつ、この世界に、マアナ=ユウド=スウシャイを知る者はひとりもいない) が示されている。
 
 私のようにナイーブな人間は、これを読んだ時に、
「なーんだ神様はギャンブラーかよ~イケてないな~」
 などと思ってしまうのだが、そんな下らない感想は脇に置くとして、この世の始まりが、話しかけることによって始まった、という点には注目していいのではないかと思う。
<宿命> あるいは<偶然> がマアナ=ユウド=スウシャイに話しかけなければ、あらゆる神々は存在せず、この世界は存在しなかった、とこの物語は冒頭にハッキリと述べているのだ。ということは、この物語はコミュニケーションをテーマにしている、もっと言えば、世界はコミュニケーションによって成り立っている、という宣言とも解釈できるだろう。
 
 マアナ=ユウド=スウシャイによって創られた神々は、やがて、マアナ=ユウド=スウシャイが眠っているあいだに世界を創ることにする。この部分も興味深いので引用する。
 
 

 そこで神がみは、神がみの印形をむすび、ペガーナの沈黙を破らないように手でことばをかわしながら、はなしあった。神がみは、おたがいに手で会話しながらいう。「マアナが休んでいるあいだ、しばらくの手慰みに世界というものをこしらえよう。」

 
 松岡正剛は、「手で会話する」ことから、「手話文化に携わる人々がもっと注目してよい場面」と言う。
 しかし、私はこの場面、必ずしも「手話」を意味しているわけではないと思う。
「手」による会話とは何か?
 たとえば、どこでもいいが、知り合いとすれ違う時、私たちはその知り合いに向けて手を挙げたりする。手を挙げることが挨拶の代わりというわけである。これなど、もっとも単純な手による会話のひとつと言えるだろう。また、喋りながら手を動かして意味や感情を補強する、つまりジェスチャーと呼ばれる類いの動きだって手による会話と言えるだろうし、さらには、相手の手を握る、手で相手の身体に触れる、といった行為も手による会話だろう。
 もし神々が、音声言語ではなく、お互いの身体をいたわるようにして触れ合いながら世界を創ろうと決めたのであれば、この物語は途端にロマンティックな容貌を現すのだし、だとしたら、世界の始まりはであった、と言うこともできそうである。
 私としてはもちろん、世界の始まりが愛だなんて、これは素敵な考えだなあと思いながらこの文章を書いているわけだが、しかし、ひとつ気になる記述もあって、どこかと言えば、引用した箇所の最後の部分なのだが、
「しばらくの手慰みに世界というものをこしらえよう」
 
 手慰み。
 
 手慰みとはどんな意味なのか?
 原文を読んでいないので正確なニュアンスはわからないが、試しにgoo辞書を引いてみると、
 
1 手先で物をもてあそぶこと。てすさび。
2 ばくち。
 
 ……
 どうやら神々は、よっぽど退屈であったか、根っからのギャンブラーだったようである。
 
  

 
  
 さて、私の連載を三回目まで読むという、ある種特異な趣向と忍耐力を持ち、かつ、賞賛されるべきハイセンスな批評眼を持った目利き読者の一人であるあなたならば、「手による会話」と聞いてすぐさま、それは文章によるコミュニケーションのことではないか、と思っただろう。
 正しい。
 書くこと、読むこと、これらは一種のコミュニケーションである。
 
 だが、書物を読むこと、何かを知ろうとすることに対して、ダンセイニは警告するのである。曰く、
 
 

「智恵の中には幸いがない」(P69「神でも獣でもないもののこと」)
「知ろうとしてはいけない」(P75「預言者ヨナスの言葉」)
「余が知りたいことは、書物の中などにない」(P163「探索の悲しみ」)

 
 読み手としては、読んでいる最中にこんな文章が出て来てしまうことに対して、ダンセイニってちょっと意地が悪いな、と思うし、書き手として読むと、このような文章を書かなければならかなかったダンセイニの悩みの深さというものが文章から滲み出している、とも思うのだが、いずれにしろ、この三つの文章は、ずいぶんと感傷的で示唆的ではないか(そして、このようなダンセイニの態度は、第1夜に取り上げた中谷宇吉郎『雪』の、科学への態度と明確に対立する。なぜなら、科学が知への容赦ない欲動に支えられているのに対し、ダンセイニの文章は、知への欲動から身を遠ざけようとするものだからだ)。
 
 私には、神話というものを熱心に読んだ経験がないので(というのも、神話ってどれも読みにくくないですか? 文体が古すぎてそれだけで眠くなっちゃうのに、最初に人物紹介がダラダラと書かれていて、全然入り込めない。読書を始めた頃、旧約・新約聖書を一気に読もうとして、何度挫折したか……。でも、池澤夏樹個人編集の『古事記』は読みやすそうだったから、近いうち読もうと思っている)、もしかしたら他のどの神話もそうなのかもしれないが、『ペガーナの神々』からは、ある種の諦念を感じる。それは、すでに言い尽くされて紋切り型になってしまった感のある「無知の知」という言葉が含んでいる諦念であり(ソクラテスの弁明)、無知の知を知ってしまった者だけが感じることのできる悲しみである。
 
 そういえば、「神話」という言葉は常に「崩壊」という言葉とセットで使われる、という文章を以前何かで読んだ気がしたが、あれは誰の文章だったろう。その
文章は、「◯◯の安全神話崩壊」「◯◯の不敗神話崩壊」といった安易な比喩表現として使われる「神話」という言葉とその書き手を批判した文章だったが、そのような意味ではなく、通常の意味における神話であっても、最終的には何かしらの崩壊を迎えるのではないだろうか。
 
「神話」には「崩壊」が<宿命> 付けられているから、「智恵の中には幸いがない」のであり、「知ろうとしてはいけない」のである。
 
 

 
  
 私はこの神話を美しいと思ったが、「崩壊」を<宿命> 付けられている運命の儚さに打たれたわけでも、智恵に対する畏怖におののいたわけでもない。私がこの神話を美しいと思うただひとつの理由、それは、先に記した通り、『ペガーナの神々』はコミュニケーションをテーマにした話であり、世界の始まりが誰かに「話しかける」ことによって始まったとする、愛の物語だからだ。
 
 私は、<偶然> によって出会った私の大切な人々に「話しかける」ことによって、これからもコミュニケーションを重ねていきたいと思う。
 むろんこの場合の「話しかける」とは、音声言語、文字、ジェスチャーや愛撫を含む、あらゆる種類の「話しかける」である。
 私の目、私の舌、私の耳、私の鼻、私の指……、私は私に許された肉体のすべてを使って、大切な人々とコミュニケーションを交わし、何かを積み上げたい。
 
 そしていつか、私たちの関係を、<宿命> であった、と言えるようになりたい、そんなナイーヴなことを思うのである。

宗太朗の本棚
6月号

yamada

山田宗太朗(やまだそうたろう)
早稲田大学スポーツ科学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了。
2013年からKindle等で小説を発表し始める。2014年、第一回CRUNCH NOVELS新人賞最終候補。ユリイカ「今月の作品」佳作(2014.11)。カルチャー誌『アヴァンギャルドでいこう』編集人。音楽ユニットPUNK IPAs作詞担当。ときどきバーテンダー。
twitter: @ssafsaf
tumblr: http://ssafsaf.tumblr.com
blog: http://borntobeavantgarde.hatenablog.com