F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

山田宗太朗、千夜千冊に挑む 第1夜 中谷宇吉郎『雪』~科学的研究の重要性~

senyasensatsu

【松岡正剛・千夜千冊】http://1000ya.isis.ne.jp/
いわずとしれた知の巨人が営々と築き上げた
本のエベレスト。
挑むのは若輩・山田宗太朗!
この読書エッセイは頂点に辿り着くのか!?

中谷宇吉郎『雪』~科学的研究の重要性~

 第1夜が本書であることに、私はいささか面食らった。というのも、本書は文学作品ではなく、「雪の結晶について(中略) 行った研究の経過及びその結果をなるべく分かりやすく書いたもの」だからである。
 
 中谷宇吉郎による『雪』は、表紙の帯文によれば、「岩波新書創刊いらいのロングセラー」らしい。ということは、常識程度の教養を持った者にとっては定番中の定番なのであり、私が面食らったのは、単に私が無知だったからということになるだろう。私としては、本連載を通して、このような堂々たる無知ぶりを克服したいと願っているのだが、まあそれはそれとして、『雪』である。
本書が書かれた動機を記す文章があったので、引用したい。
 

いうまでもなく、雪国の人々は、その環境に適応した生活様式を永い間に整えている。しかしそれらはなんら科学的研究を基礎としていない。ただ経験によってあみ出された対策であるから、進歩は遅く、しかも自然の猛威に対しては全くの消極的な防禦に止まらざるを得ないのである

「経験によってあみ出された対策」は、「進歩は遅く」「消極的」であるどころか、実は間違いであることが多い。
「経験によってあみ出された対策」とは、大雑把に言えば、たとえば、去年は十二月に大雪が降ったから、今年も十二月に大雪が降るだろう、という過去の経験に基づいた予測のことである。しかし、去年の十二月に大雪が降ったからといって、今年の十二月にも大雪が降るとは限らないのである。去年の十二月に大雪が降ったのはたまたまかもしれないからだ。
 何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、私たちは案外、このようなデタラメな推論に基づいて日々の選択や判断をしているのである。
 先の例では、実は次のような原理が働いている。すなわち、これまで観察したものと、これから観察するものは似ている、という原理である。これを斉一性の原理(uninformity of nature)という。そして斉一性の原理に基づいた推論の仕方を「枚挙的帰納法(enumerative induction)」という。先の例で言えば、同じ場所ならば、同じ時期に、また同じような気候になるだろう、という推論である。
 しかし、これまでそうであったからといって、これからもそうである、という結論は、論理的には正しいとは言えない。確たる根拠もない。では、経験による帰納法の推論なんて、全然信用できないじゃないか? 
 と言ったのがデイヴィッド・ヒュームであった。これは科学哲学の分野においては現在もはっきりとした回答の出ない重要な問題と言われている(ヒュームの懐疑主義)。そしてヒュームに対する回答の一つとして提出されたのがカール・ポパーによる反証主義(falsificationism) という考え方だったわけだが、しかし、これについて深入りすると話がだいぶ逸れてしまうため、今回はやめておく。
 
 なぜこのような話をするかというと、中谷の問題意識は明確に科学的方法論に基づいているからである。
 中谷が「経験によってあみ出された対策」を危惧するのはなぜか? それは、根拠のない対策など、はっきり言って間違いだらけだからだ。中谷は科学的根拠に基づいて対策しろと言っているわけである。
 正しい。
 そして中谷は、日本における科学的研究の遅れていること――それもこれほどまでに天災に見舞われる土地であるにもかかわらず――に、本書の至るところで警鐘を鳴らしている。
 その語り口はごく控えめで、自分の感情から意図的に距離を取っているように見える。
 
 松岡正剛は、中谷の文章について「師匠の寺田寅彦にくらべると名文家でもないし、関心も多様ではないし、文章に機知を飛ばせない」と書いているが、私は、必ずしもそうではないと思う。
 確かに寺田は、物理学者である前に俳人であって(東京帝国大学理科学科入学の前に夏目漱石らと俳句結社をおこしている)、多くの随筆を著した、機知を飛ばせる書き手なのかもしれない。
 しかし、中谷は、随筆家である前に科学者なのである。
 
 科学者の文章には、第一に論理性・客観性が担保されるべきであり、「機知を飛ば」した文章よりも、誰が読んでもそうとしかとれない、一文一義的な文章が求められる。
 そのような文書を「ロマンチック」だと感じるのも「美しい」と感じるのも読者の自由であるが、それは松岡が中谷に見出した「ダンディズム」や「粋」から生まれたものではなく、もっぱら科学者としての中谷の態度から生み出されたものである。つまり「ダンディズム」が中谷の言葉の態度を生み出したのではなく、科学者としての真摯な姿勢が「ダンディズム」を生んだのである。
 
 多くの優れた書物がそうであるように、本書の場合も、内容が文体を規定したのだった。
 (それではこの文章を書いている私の文体は、内容の要請に応えることができているだろうか? みなさん、YESと言って下さい)
 
 さて、ここから先は、お遊び半分の文章である。科学という言葉から連想された私の独り言を記述しておきたい。
 
 科学と思想は、まったく無関係だろうか?
 
 いささか唐突に聞こえるかもしれないが、なぜ私がこのようなことを言い出したかというと、最近、次のような文章を目にしたからである。
 

「ゼロ年代」には「東浩紀しかいない」ということだけは、多くの方が同意してくれるのではないかと思うのです。
(佐々木敦『ニッポンの思想』)

『ニッポンの思想』は、「八十年代から現在までに至る「ニッポンの思想」の変遷を、筆者なりの視点から辿り直してみようというもの(佐々木)」という書物である。
 この書物の著者は、ゼロ年代(2000年代のこと)の日本を代表する思想家は東浩紀ひとりしかいない、しかもその意見には多くの人が同意するだろう、とさも当然のように単純に信じているらしく、まあ、それについては別にどうでもいいのだが、私が考えるのは、「思想家」ってどんな人がいるっけ? ということであり、「思想家」と「哲学者」は同じなのか? という疑問である。
 
「哲学者」と聞いて、ジョン・ロールズの名を頭に思い浮かべる人は多いだろう。
 ロールズは『正義論』で、原初状態における「無知のヴェール」という概念を提出したことで有名である。
 無知のヴェールとは、自らの資質や能力の点で社会からどれほど恵まれ、あるいは不利な地位にあるかについて、あたかもヴェールに覆われた状態であるかのように全く見通しを持たないことをいう。この時、人々は、自身の利益に基づいて強者優先の選択をするのではなく、自分を最弱者と想定するため、互いに平等な立場から正義原理の選択が可能になるだろう、ということである。
 
 科学というと、顕微鏡で雪の結晶を観察しているようなものばかりをイメージしがちだが、ロールズの無知のヴェールは、科学的な反実仮想に基づいた推論なのだった。つまりロールズは哲学者であり同時に科学者なのである。そして、まあ大昔はどうだったか知らないが、哲学者であり同時に科学者であることが当然のこととして、というかむしろ必要条件として求められるのが現在のアカデミズムの世界であり、哲学であろうと何だろうと、科学的方法論を無視しては成立しないのである。
 
 で、ニッポンのゼロ年代にはただ一人しか存在しなかったという「思想家」の話だ。
 この「思想家」は、はたして科学的方法論を習得しているか?
 この問いに対して、私は、はっきりNOと言うことができる。
 
 2011年3月11日、周知の通り、東日本大震災と名付けられた大地震が発生したわけだが、その後約一ヶ月間、私は、この「思想家」のTwitterを時々チェックしていた。
 炎上していておもしろかったからである。
 当時(というかたぶん今もだけど)、この「思想家」は、自分にリプライを送ってくるユーザーと、ちょっと感心してしまうくらいの熱心さで口論していたのだった(他にやることがなかったのか、もしくは不安だったんだろう)。そして、その言い争いがいよいよヒートアップしてくると、次から次へとそれらのアカウントをブロックしていたのだった(ブロックしました、とわざわざツイートしていた)。
 それだけなら別にどうと言うこともなく、たんに下品だと思うだけなのだが、この「思想家」が次のようなツイートをしたのを目にして、私は驚いたのだった。

 言うまでもないことかもしれないが、一応確認しておくと、Twitterのタイムラインに現れるのは、基本的に自分がフォローしたユーザー、あるいはリストへ追加したユーザーのツイートだけである。この時点で私たちが目にするツイートというのはサンプルとしてかなり偏っているので、これを一般化して何らかの法則性を見出すことはできない。ましてや、気に入らないユーザーをブロックしまくっているのなら、サンプルはさらに偏っていく。こんなものはサンプルとは言えないのである。だから、自分とは違う意見が目につかなくなるのは当然のことで、それをして「多様性が減った」などとうっかり発言してしまうのは、この「思想家」が、初歩的な科学的方法論さえ知らないからなのである。
 
 このように、科学に対してまったく無知な人間をゼロ年代を代表する「思想家」と呼ぶのならば、「東浩紀しかいない」ニッポンの「思想」界は、雪博士・中谷の七十年前の危惧を空の彼方に置き去りにするほど、すこぶる知的で洗練されていると思うのである。

宗太朗の本棚
5月号

yamada

山田宗太朗(やまだそうたろう)
早稲田大学スポーツ科学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了。
2013年からKindle等で小説を発表し始める。2014年、第一回CRUNCH NOVELS新人賞最終候補。ユリイカ「今月の作品」佳作(2014.11)。カルチャー誌『アヴァンギャルドでいこう』編集人。音楽ユニットPUNK IPAs作詞担当。ときどきバーテンダー。
twitter: @ssafsaf
tumblr: http://ssafsaf.tumblr.com
blog: http://borntobeavantgarde.hatenablog.com