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山田宗太朗、千夜千冊に挑む 第0夜

senyasensatsu

【松岡正剛・千夜千冊】http://1000ya.isis.ne.jp/
いわずとしれた知の巨人が営々と築き上げた
本のエベレスト。
挑むのは若輩・山田宗太朗!
この読書エッセイは頂点に辿り着くのか!?

 いきなり私事で恐縮だが、先日、30歳になった。
 30歳とはどんな歳だろうか? そう考えても、自分が本当に30歳になるとは考えもしなかった者にとっては、今イチ何かがピンと来ない。情けないことだが、実感がないのである。30歳がどんな歳なのか、自分が30歳であることがどういうことなのか、私には理解できない。
 何かを理解したい時には、比較をすることが有効である。
 私は今、こうして文章を書いている。では、文章を書く人の30歳とは、どんなだったろう?
 たとえば私が好きな二人の作家。村上春樹は30歳の時、『風の歌を聴け』で群像新人賞を受賞した。村上龍は、30歳になる二年前に『コインロッカー・ベイビーズ』を出版し、その一年後に村上春樹との対談集を出している。
 30歳の彼らと比べて、30歳の私はいったい何をやっているのだろうか、という思いは当然ある。しかし私は、彼らとはある一点においてまったく異なる人生を過ごしてきたのではないかと自分では思っていて、それについて語ることが、本連載の前書きとしてふさわしいのではないかという気がする。

 私は、二十代になるまで、文学とはおよそ無縁な人生を過ごした。
 中学・高校の六年間で読んだ本はたった二冊である。
 一冊目は中学一年生の時。学校の国語の時間で、図書室で好きな本を借りて読むという、今にして思えば教師の怠慢とも思える授業があって、その時何の気なしに借りたのが、武者小路実篤『友情』であった。読後感は良かった気がするが、当時の私にとっては少し長くて、全部読むのがダルかった気もする。二冊目はそのすぐ後、同じ国語の時間で、借りたのは、デニス・ロッドマン『ワルがままに』であった。内容は憶えてない。
 それから二十歳になるまで、私は読書という行為にほとんど何の興味も示さなかった。他にやることがたくさんあったからである。

 私が本を読み始めたのはまったくの偶然だった。
 あれはいつだったのか、正確には思い出せないが、ある春の土曜日だったと思う。
 私は大学二年生だった。たしかサークルの飲み会か何かがある日で、早めに集合場所に着いてしまったので、時間を潰すためブックオフに入ったのだった。何も考えずに店内をぶらぶら歩き、偶然、ある作家のエッセイの前で立ち止まり、ちょっと立ち読みし、なんとなく気になってそれを買ったのだった。それを買った時、私はその作家のことをまったく知らなかった。
 当時の私にとっては、ブックオフといえば時々マンガを立ち読みする程度の場所で、特に熱心に通っていたわけではなく、もちろん、そこで本を買ったこともなかった。それなのにあの時なぜ、たとえば当時よく行っていた服屋やCDショップではなく、ブックオフに入ったのか、今でもわからないし、なぜマンガコーナーではなく文芸コーナーをぶらついていたのかもわからない。
 しかしとにかく、私の読書体験は、ブックオフで偶然手にしたとある超有名作家のエッセイから始まったのだった。

 といっても、すぐに熱心な読書家になったわけではない。
 それは人生を変えるような劇的な出会いではなく、たんに読書という行為が、私の日常のほんの一部分に、ちらっと顔を覗かせたに過ぎなかった。

 それから五年経ち、私の人生において決定的とも言える事件が起きた。その日を境に、私にとって読書は、生きるために必要な営為に変わったのだが、それがどのような事件だったのかは詳らかにしたくないので、とりあえずは脇に置くとして、私がここで強調したいのは、二十歳でようやく読書という行為と出会い、二十五歳でそれが自分にとって必要な営為となったという、私の背景である。

 つまり私は、今、自分がいかに無知であるかをドヤ顔で語っているのである。
 そのような背景を前提としてこれからの文章を読んでいただきたい。

 本連載について加地氏から提案があったのは二月某日。私は、二十代最後の数日を、いつもと変わりなく過ごしていた。
 この数年間で、私は、自分としてはかなり積極的に本を読んできたと思っている。しかし、他のどんな分野でもそうだと思うが、たかだか数年の経験は、自分に何かを与えてくれるというより、むしろ、自分がいかに足りていないかを自覚させてくれる。私は、本を読めば読む程、自分がどれほど無知であるかを発見させられたのだった。そして、私が今後の人生でやりたいと思っていることのためには、体系的な読書がぜひとも必要ではないだろうかと、そんなことを考えていた二十代最後の数日間だったのである。
 なんて(私にとって都合の) 良いタイミングで、なんて(私にとって都合の) 良い企画だろうか。私の30歳からのリーディング・ライフを、このような形で押し進めてくれる機会に出会えるとは。

 私は加地氏の提案にソッコーで乗った。

 しかし、根本的な問題が二つあった。
 まずはこれが千夜千冊であるということ。
 単純計算して、一ヶ月に一冊本を読んで何かしらの文章を書くとすると、千ヶ月かけてようやくとりあえずは完成する(とりあえず、というのは、この文章を書いている現在も千夜千冊は更新されているからだ。2015年3月時点で1576夜)。
 千ヶ月? 
 あと八十年以上もあるじゃないか。
 さすがに八十年もやるのは無理だよね。じゃあ二週間に一度更新? 
 それでも四十年。
 ……。
 まあ、いいか。だいたい、連載なんてものは、つまらないと判断されたら即座に終了させられるものであって、まだ一冊分も書いてないのに千冊分の心配をしたって仕方がない。とにかく多少なりとも読む価値のあるものを一夜一冊分ずつ書いていけばいい。先のことは後で考える。

 もう一つの問題は、松岡正剛である。
 松岡正剛がすでにレビューしたものをさらにレビューする、あるいは松岡正剛のレビューをレビューする。これは一歩間違うと、とんでもなく退屈な企画になってしまうのではないか?

 そこで、私は弱者の戦い方を選びたい。
 第1夜に進む前に、現時点で私が考えている、本連載の簡単な方針を三点だけ示しておく。

1. これは批評ではない
 レビューという言葉を日本語に訳すと批評になるが、私は本連載を批評としては捉えていない。だから、当該作品あるいはそれに対する松岡正剛の文章に対して、批評めいた文章を書くことは時々あるかもしれないが、常に批評を書くわけではない。なぜなら、私が批評をしたところで、当該作品に関する何らかの新たな視点を提示できるとは思わないし、松岡正剛に対抗し得る批評が書けるとも思わないからだ。
 とはいえ、これは批評ではない、という宣言と、批評的な視点を持って書くこととは別の話である。

2. これは書評でもない
 千夜千冊に取り上げられた作品を扱うことで、私はそれらの作品の作者・出版社等からギャラをもらうわけではない。関係者に頼まれて宣伝するわけでもない。ただ勝手にやっているだけだ。従って、本連載の目的は、当該作品未読の読者の興味を喚起し、その作品を買わせることではない。つまり私は、自分で必要性を認めなければ作品の要約などはしないだろうし、それどころか、著者の有利に働かない文章を書くことがあるかもしれない。
 しかし、利害関係を持たないからこそ書けることは確実に存在する。

3. これは読書エッセイである
 読書エッセイ、あるいは読書日記、まあ、そのような言葉がふさわしい気がする。
 私の読書エッセイは、時には悪口を含むだろうし、時には個人的な体験記でもあるだろう。
 つまり、自由にやらせてもらう。
 ある部分では読者をドン引きさせるかもしれないし、ある部分では読者を不愉快にさせるかもしれない。しかしできるだけ私の素直な見解(そんなものが仮にあるとしてだ) を、できるだけ刺激的に書きたいと思う。

 以上が本連載の方針である。
 私は、自分が無知であることを、あえて武器にして千夜千冊に挑みたい。無知であるからこそ書けることを書きたい。
 だって、そうでなければ、私がこの企画を担当する意味がないではないか。

 と、ここまで書いてようやく、私は、自分が本連載で何をやりたいのか、わかった気がする。今、ふさわしい言葉を見つけた。

 パンクだ。

 私は、音楽でいうところのパンクがやりたい。
 パンクとは何だったか?
 それはロックの破壊だった、というようなことがよく言われる。
 しかし、その指摘は間違っていると私は思う。もしパンクが本当にロックの破壊を目的としていたなら、あのような単純なコード進行を使うはずがないからだ。
 あなたがこれまでパンクに縁のない人生を過ごしてきたのなら、試しにYou Tubeでセックス・ピストルズの曲を聴いてみて下さい。代表曲『Anarchy in the UK』は、ずいぶんとポップな曲ではないですか? 破壊よりもむしろ、まるでロックに対して全面的な信頼を置いているような……。
 では、パンクとは何だったのか?
 それは、高度に芸術化された、あるいは細分化されたロックに、初期衝動を取り戻すための試みだったのではないだろうか。音楽のための音楽と化し、まるで死んだように生き続けるロックに対する、音楽を愛する素人たちからの異議申し立てではなかっただろうか。
 セックス・ピストルズは、技術的には未熟な少年たちの寄せ集めだった。ジョニー・ロットンの下手な歌を聴いてみればいい。『Anarchy in the UK』の単純なコード進行を聴いてみればいい。それははっきりと私たちの耳に残るが、しかし、実に単純で、誰にでも作れそうな、誰にでも歌えそうな曲ではないだろうか。セックス・ピストルズのメンバーはみなロンドンのゴロツキどもだったし、何より、あのカリスマ、シド・ヴィシャスは、ろくにベースも弾けない素人だったのである。

 パンクとはすなわち、素人たちによって引き起こされたムーブメントなのである。それは弱者による巨大なムーブメントだった。

 さて、私の理解では、現在の日本の文芸界には、ムーブメントどころか、シーン自体がほぼ存在しない。
 シーンが存在しない時、本当にそれを愛し、必要とする者たちから、異議申し立ての声があがる。それは最初、ほとんど聞き取れない小さな声として出現する。だが、それは他の場所で同時発生的に出現した同じような小さな声と共鳴し合うことで、ある日突然、誰にも手におえないほどのムーブメントとなって爆発するのだ。

 私は、文芸のセックス・ピストルズになりたいのかもしれない。
 これまで全然本を読んでいなかった無知な若者が、それでも自分の人生には本が必要であると理解するに至った、その過程には何かがあると私は信じる。
 そのような過程を経た者にしか言えないことがあると私は信じる。
 そして私の言うことがある種の人々にとっては切実な意味を持つと私は信じる。

 だから私はパンクをやる。
 私がセックス・ピストルズだ。
 だとしたら本誌『片隅』主催者の加地氏はマルコム・マクラーレンであり、木間氏はヴィヴィアン・ウェストウッドである。

 千夜と千冊、30歳からのリーディング・ライフ、もとい、30歳からのパンクをお届けする。

宗太朗の本棚
4月号

yamada

山田宗太朗(やまだそうたろう)
早稲田大学スポーツ科学部卒業、同大学大学院政治学研究科修士課程修了。
2013年からKindle等で小説を発表し始める。2014年、第一回CRUNCH NOVELS新人賞最終候補。ユリイカ「今月の作品」佳作(2014.11)。カルチャー誌『アヴァンギャルドでいこう』編集人。音楽ユニットPUNK IPAs作詞担当。ときどきバーテンダー。
twitter: @ssafsaf
tumblr: http://ssafsaf.tumblr.com
blog: http://borntobeavantgarde.hatenablog.com