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〈3・11〉をめぐる現代小説⑤ 綿矢りさ『大地のゲーム』における賭け 松本和也

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『インストール』(二〇〇一) でデビューした綿矢りさは、第二作『蹴りたい背中』(二〇〇三) で芥川賞を受賞した。当時、「19歳・綿矢りささん 20歳・金原ひとみさん 芥川賞最年少記録更新」(『産経新聞』二〇〇四・一・一六) といった見出しで話題になってから、すでに一〇年以上になる。ティーンエイジャーのごく限られた人間関係の中で交錯する内面の描出を得意としていた綿矢りさは、いつしか、より現実的・社会的なモチーフをとりあげる作家へと変貌を遂げてきた。
 このことを、『大地のゲーム』へと至る道程として考えてみると、次のようになる。
 一九八四年に生まれた綿矢りさは、一九九一年の阪神・淡路大震災を小六の時に京都で体験し、小説家になって後に〈3・11〉を東京で体験する。また、ちょうど地震のエピソードから書き起こされた『かわいそうだね?』(初出『週刊文春』二〇一一・二・一〇~五・一九) は、その連載期間中に〈3・11〉をくぐりぬけ、ラストシーンには再び地震が書かれている。つまりは、小説の「はじめ」と「おわり」を地震が縁取っているのだ。
 そのような綿矢りさであれば、二〇八〇年頃と思しきSFとして、原子力を断念した日本で、地震によって七万人が死亡し、さらに一年以内の大地震が予報されているという設定をもった『大地のゲーム』を書くのは、ごく自然のことなのかもしれない。
『大地のゲーム』は、文庫本にして四ページのプロローグにつづき、「学祭二週間前」、「学祭一週間前」、「学祭二日前」、「学祭当日」と、学祭と地震予測のカウントダウンが重ねられた時間軸に沿って展開され、最後に文庫本にして九ページのエピローグが付されたかたちで構成されている。ここでは地震がどのように書かれ、主人公たちにどのように影響を及ぼしていくのかにポイントを絞って『大地のゲーム』を読んでみよう。
 プロローグでは、語り手にして主人公「私」が、死なるものを知り、その恐ろしさを兄に教わった日の出来事が綴られる。さまざまな状況を想定しながらも「ヘーキ」だと嘯く兄に、「おまえはどうする」と問われた幼き日の「私」は、次のようにこたえていた。
 

「じゃあ、わたしもいきる!」
 生きると決めたとたん、世界がキラキラとかがやき始めた。

 
 『大地のゲーム』は、こうして無邪気に示された生きていく決意、サバイブする精神を、長じてからの震災後に、改めて「私」が手にしていくプロセスを書いた小説なのである。当の震災は、「私」によって次のように捉えられている。
 

 あの夏の日、未曾有の大地震が私たちを襲った。そして、また一年以内に巨大な地震が来ると政府は警告している。夏の大地震よりひどいか、同程度の揺れが私たちを襲うと断言し、対象地域一帯に避難勧告を出した。この大学ももちろん対象地域に含まれている。
 再び地面が激しく揺れる日は、まだ来ていない。しゃくにさわる余震が一日に数回足の下を通り過ぎてゆくだけ。でもカウントダウンは始まっている。だから平和な日々をまだ思い出したくない。どうせ築いても、またすぐ壊れるのかもしれないのだから。

 
 そうした中で興味深いのは、地震に関する次のような意識である。
 

地震当日については、誰かが話し始めると必ずもめるので、大学内では暗黙のうちに禁句になっていた。〔……〕なにより異常事態に情報処理能力が追いつかず、私たちの記憶自体が混乱していた。のちによく考えてみれば整合性がなく、翌日や翌々日の記憶と当日の記憶が混ざっているのに気付いた部分もあった。

 
 この一節によって、まずは地震を客観的に鳥瞰することの不可能性が、記憶の混乱というかたちで示される。さらにこれは、地震前後の出来事を「私」が書いた『大地のゲーム』の自己言及にもなっている。つまり、『大地のゲーム』もまた、異常事態の中で書かれた、見通しのきかない、それでも/それゆえに「私」の体験的主観による小説なのだ。
 再び地震が起きた時のことは、次のように書かれる。
 

 この世のものとも思えない地響きが足元を鼓膜を、全身を震えさせる。簡単に吹き飛ばされそうになる、私たちの柔らかい身体。つないだ手だけが温かく、とにかく何かにすがりつきたくて、マリの手の甲に歯を立てていた。大きな綿ぼこりに似たふわふわした謎の破片が、死の灰のように天井から降ってくる。
 世界の割れる音、見えない巨大な手に狂ったように開け閉めされる窓、衣装やイミテーションの宝石、剣が散らばる。

 
 ここで「私」は、限られた視角から、「見えない巨大な手」による天災を、それが何と定かに見定められないままに、レトリックを用いて言語化していく。「死の灰」といった比喩さえ用いられた状況の中、実感をもって書かれているのは、つないだ手の温かさであり、自らの身体(感覚)である。そしてそれは、地震を起こす大地の上にある/上にしかない。このようにして、「私」は生きるための大前提として大地との共生を選ぶ。
 

 ときどき不思議になる。なぜ私たちは、わざわざ危険な土地に、危険と知りながら残ったのだろうか。土地に愛着があったから、土地に執念があったから、大切な人がいたから。土地を踏みしめているときには、そのような理由だと自分で信じ込んでいたが、実は違ったのではないか。
 私たちは、何度でも大地の賭けに乗る。
 Bet.

 

 ここでの賭けに関連して、「「世界の割れる音」を聞いた若者たち」(『波』二〇一三・八)で綿矢りさは「『大地のゲーム』というタイトルには意表をつかれました。」というインタビュアーの問いかけに、次のようにこたえている。
 

不謹慎かなと思いましたが、地震がどこで起こるかというのは、ルーレットみたいなものじゃないかという感じがして、とにかく人間的な規模ではないなと思ったんです。わたしたちはそういう大地の賭けの上にのっかって生きているんだなと。あとこの小説では、あえて危険な場所に残った若者たちを書いたので、つぎの地震に身構えている感じが、だんだんゲーム化してくるということもあります。

 
 人間(人知) を超えたスケールの大地、しかもその「賭けの上」に生きる若者たちは、事前準備可能な努力によってサバイブすることなどできない。ならば、どうするか。「どれだけ大穴の危険地帯となっても、ここで自分の人生を紡ぎたい」と強く願うこと。身体に即した「生きている証」を確かめながら、「私たちはどこへでも行ける、望むかぎり、力の続くかぎり」と強く思うこと。もとより、『大地のゲーム』に書かれた大地は、現実世界のそれと別のものではない。この小説を読む私たちにもまた、賭ける勇気が求められている。


 

 

 

nigaoe-ma

松本和也(MATSUMOTO,Katsuya)1974年、茨城県生まれ。

大学教員。
昭和10年代の文学場研究と並行して、現代文学・演劇についての批評も執筆中。
著書に『現代女性作家論』、『川上弘美を読む』(以上、水声社)、『平田オリザ 〈静かな演劇〉という方法』(彩流社)、『昭和一〇年代の文学場を考える新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会)ほか。