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〈3・11〉をめぐる現代小説④ 川上未映子「三月の毛糸」における遠い危機/近い寓意 松本和也

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 川上未映子「三月の毛糸」(『それでも三月は、また』講談社、二〇一二) は、村上春樹を思わせる雰囲気をちりばめた短篇小説である。
 とはいえ、ベースとなる設定や登場人物はきわめて現実的で、むしろ、よくある平凡な夫婦(の日常の一コマ) をねらって書かれた小説のようにみえる。もっといえば、「三月の毛糸」には、ごく平凡な印象をもたらす若い夫婦しか登場しない。倦怠期とも違うようだけれど、妻は終わりなき日常に「うんざり」しており、語り手である「僕」(夫) もかみあわない妻とのやりとりに「うんざり」している。それでも/それゆえに、決定的な破局は予感としてすら書かれることなく(むしろそのことが問題なのだけれど)、妻が妊娠していることもあって、傍目には幸福な若い夫婦にみえる(ように書かれている)。
 そもそも、妻が身ごもったために、出産前の実家挨拶を兼ねて京都へ観光旅行に行くというのが、「三月の毛糸」から取り出せる精一杯のイベントであり、その大半は京都のホテルでの夫婦の会話から成り立っているのだ。
 こうした「三月の毛糸」ではあるけれど、明らかにイレギュラーな事態も夫婦それぞれに書きこまれている。一つは夫の睡眠障害、もう一つは妻が「何もかもが毛糸でできている」世界を夢に見ること、である。そして、こうした寓意に満ちた設定に抗するように、携帯メールによって地震が起きたことが夫婦にも知らされる(知らない番号からかかってくる電話も、小説上では、地震と同様の役割を担っている)。そのことが地なって、図であるところの夫婦の様相に独特のニュアンスを添えていくというのが「三月の毛糸」の構造のようだ。
 まずは、「僕」(夫)が襲われている睡魔がどのようなものか、確認しておこう。
 

 彼女が妊娠してしばらく経ち、お腹が目立つようになる頃から僕はなぜか睡魔に襲われるようになった。額の裏に濃い霧のような眠気がたちこめて、それまでそこに見えていたもの──今月のカードの支払い金額や、採点の残りや、つめ物がとれたままになっている左の奥歯のことや、そういったものにすっぽりと分厚い蓋を降ろしてしまう。そうなるとまぶたが一秒ごとに重くなって、そのまま目をあけていることができなくなる。手のひらから順番に熱が広がって体がしだいに熱くなり、空を覆うことができるくらいの巨大なカーテンを誰かがこちらにむかってゆっくりと引いているのが見えてくる。コーヒーを飲んでも効かないし、トイレに行って顔を洗ってみても変わらないし、時間を見つけて昼寝をはさんでみても無駄だった。

 

 およそコントロールの効かないこの睡魔について、「僕」自身は次のように考えている。
 

 たしかにそれは眠ることで解消できるような眠さではないような気がした。それはこれまで僕が慣れ親しんだふだんの眠りとはまったく関係のないべつのところからやってきて、まったくべつのものを求めているような、それはそんな眠さだった。

 

 そうであれば、この睡魔は「僕」(の身体) の外部からやってきた何かだということになる。本文に書かれた限りでは、妻の妊娠以外にそのきっかっけを見出すことは難しく、それが理由でないならば、あるいはそうであったとしても、そこには何かしらの寓意がある。
 妻は旅先のホテルで「夢ばっかり見てたの」というのだけれど、「子どもを生む夢」なのはいいとして、問題なのは子どもが「毛糸で生まれてくる」ことだ。そればかりではない。

 

「その世界は、何もかもが毛糸でできているの。水も、人も、線路も、海も、何もかもが毛糸で、できあがってるのよ。地面も、コップも、お洋服も、手帳も、とてもやわらかくて、丈夫な糸で編みあがっているの。毛糸でできあがっているの。何もかもが」

 

 そう語る妻は、「顔のところどころに奇妙な色が落ちている」のだが、「僕」にはこれが、「どこからやってくる光なのかはわからなかった」。毛糸である理由は少しだけ語られる。

 

「いやなことがあったり、危険なことが起きたら一瞬でほどけて、ただの毛糸になってその時間をやりすごすのよ」

 
 二人はこの旅で、おそらくは誰かに殴られて血を流しているホームレスを、直接的な暴力(の痕跡) として目撃してもいる。特に妻は、そのことを契機に、「世界ではもっと最悪なことが起こりうる」のだと、危機感をあらわにしてもいる。そうであれば、毛糸になって「その時間をやりすごす」というのは、妻なりの無意識裡の危機対応ということになる。
 ならば、破局の兆しすらみられない夫婦の他に、「三月の毛糸」に書かれた危機とは何か。それは、ごく間接的にしか書かれない地震と、それが代表する、すぐれて現実的な危険だと考えるべきだろう。実際、すべて毛糸でできていると夢の世界を語る妻には、「そこでは三月すら、毛糸なの」と、〈3・11〉を知る者には読みすごせない台詞もある。何でもよかったはずの毛糸でできた世界の例示として、ことさらに「三月」が選ばれているのだ。
 そう考えてみれば、「僕」(夫) の眠りもこれに通じる、つまりは危険(の徴候)の寓意なのだ。してみればこの夫婦は、携帯メールで「地震、だいじょうぶか」とのみ作品にもちこまれた地震の危機(外部) を、睡眠(身体)‐夢(無意識) というアンテナを介して感受していたことになる。「三月の毛糸」における非現実的な要素とは、そうした寓意を担うことで、一度はこの小説を現実から引き離すと同時に、おそろしいことに満ちたこの現実世界に再び折り重ねようとしていく。
 この夫婦は、地震についてTVニュースをみるでもなければ、かかってきた電話に折り返すこともしない。つまり、自ら外部にアクセスしようとはしない。それでも、危険を感受したととるのか、危険を感受しながら何も行動しようとしていないととるのか、解釈は読者に委ねられている。それは、妻の台詞として語られる次のような危惧にしても同様だ。
 

「ねえ、わたしたち、とてもおそろしいことをしようとしているのじゃないかしら。何かとてもおそろしいことを、これまでわたしたちが思いもしなかった、何かおそろしいことをわたしたちはやろうとしているんじゃないのかしら。とりかえしのつかないことを。とてもおそろしいことをよ。そして、何かとんでもないことがわたしたちを待ち受けているんじゃないのかしら。もう後もどりすることもできない、なにか大変なことを、わたしはこれからやろうとしているんじゃないのかしら」

 

 これを、夫婦、ことに妻の妊娠・出産への不安と読むことももちろんできるし、夫婦関係の失調ゆえの危機ととることも同様にできる。ただし、それでは、不可欠の要素として「三月の毛糸」に書きこまれた非現実的なことごとに説明がつかない。だとすれば、ここで妻が怖れているのは、〈3・11〉以降にせりだしてきたこの現実というになるのかもしれない。そうであれば、生まれてくる子供は未来の暗喩である。寓意を孕んだ小説であるがゆえに、はっきりとは書かれていないのだけれど。

nigaoe-ma

松本和也(MATSUMOTO,Katsuya)1974年、茨城県生まれ。

大学教員。
昭和10年代の文学場研究と並行して、現代文学・演劇についての批評も執筆中。
著書に『現代女性作家論』、『川上弘美を読む』(以上、水声社)、『平田オリザ 〈静かな演劇〉という方法』(彩流社)、『昭和一〇年代の文学場を考える新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会)ほか。