F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

〈3・11〉をめぐる現代小説③ 多和田葉子「不死の島」に仄見える希望 松本和也

elephant
 
 
 
 
 小説において未来や近未来をフィクショナルな設定として構えることはことさら珍しいことではないけれど、多和田葉子は〈3・11〉に関わらせるかたちで、二〇一一~二〇一七年(以降) の世界を舞台とした、過去とごく小幅な近未来を舞台とした小説を発表している。多和田葉子「『献灯使』をめぐって」(『本(読書人の雑誌:講談社)』二〇一四・一一) によれば、福島第一原子力発電所の事故を受けて、被災者が福島を離れることの是非が議論されていることをめえぐって考えあぐねているさなかに、その小説――「不死の島」は書かれたのだという。
 
 

 

 2011年の夏に書いたのが、「不死の島」だった。ゲイシャ・フジヤマのフジは「富士」だけれど、太平洋の隅っこで大陸に身を寄せる美しい列島が「不治」ではなく「無事」であることを願い、できれば「不死」であってほしいとさえ思いながら書いた。

 
「不死の島」を『それでも三月は、また』(講談社、二〇一二) に寄稿した後も、多和田葉子は震災をモチーフとした作品を書き継ぎ、ついには「献灯使」を書くに至り、同作を表題に掲げた『献灯使』(講談社、二〇一四) が上梓される。
 アメリカ旅行から帰ってきた「わたし」が、ベルリンの空港でパスポートを提示した際に不審がられるという場面から「不死の島」ははじまる。
 

 パスポートを受け取ろうとして差し出した手が一瞬とまった。若い金髪の旅券調べの顔がひきつり、言葉を探しているのか、唇がかすかに震えている。

 

 空港という、国民国家の緩衝地帯ともいうべき場所で、日本のパスポートがもつ負の意味が旅券調べの係員の反応によって暗示される。「不死の島」の作品世界では、二〇一一年、福島での原子力発電所の「事故」につづき、「二〇一五年、日本政府は民営化され、Zグループと名乗る一団が株を買い占めて政府を会社として運営し始め」ており、二〇一七年には「太平洋地震」が起こっている。文末を伝聞にしたのは、作品世界内においても、二〇一五年来、日本からの情報は途絶え、航空便もなくなっているという設定による。それでいて、(東日本を中心に) 日本は放射能で汚染されたエリアとして世界から認識されているのだ。それゆえ、冒頭部の「わたし」は、次のような感慨を漏らすことにもなるのだ。
 

「あれから日本へ行っていない」と言うことで我が身の潔白を証明しようとした自分がなさけなかった。「日本」と聞くと二〇一二年には同情されたものだが二〇一七年以降は差別されるようになった。ヨーロッパ共同体のパスポートをもらえば国境を越える度に日本のことを考えなくてもよくなるのかもしれないが、なぜか申請する気になれない。こうなってしまったせいでかえってこのパスポートにしがみついている自分が不思議でもある。

 

 ここに、日本語/ドイツ語で創作活動を行っている多和田葉子一流のアイデンティティのありようを読みとることは難しくない。そこには、国境をこえていくツーリストの多言語・多文化主義と、その裏返しともいえるパトリオッティズムのアンビバレントな共存、をさしあたりみることができるけれど、現実世界の政治と無縁なわけでは、もちろんない。アレクサンダー・C・ディーナー+ジョシュア・ヘーガン/川久保文紀訳『境界から世界を見る ボーダースタディーズ入門』(岩波書店、二〇一五) に、次の指摘がみられる。
 

 国境を越えることによって、ツーリストは、出発国と到着国双方からの検査にかけられる。この検査は、個人の身元証明、市民権のある国、ひいては、その人間が世界の中で正しい場所にいるのかを証明する文書類に象徴されている。パスポート、ビザ、および身元を証明する他の文書類は、9・11のテロ攻撃以降、ますます重要になった。

 

 こうした現実世界の進行に、〈3・11〉、さらにフィクションの設定がくわえられることで、「不死の島」におけるパスポートの重要性と、日本との関わりを示すアイテム(パスポートから日本の文字が書かれた納豆まで) の危険性が連動して高められているのだ。
 このように限られた「わたし」の情報を補うのは、日本に密航したポルトガル人が出版した「フェルナン・メンデス・ピントの孫の不思議な旅」である。そこには、日本では「どうやら死ぬ能力を放射性物質によって奪われてしまった」高齢者たちが死ねないのだという衝撃的な報告が綴られている。その一方、二〇一一に子供だった世代は「次々病気になり、働くことができないだけでなく、介護が必要」になっている。
 そうした世界で、日本に住む人々は「デフォルメされた江戸時代」のような暮らしを営み、研究者たちは被曝者を救うために蛍の光で研究を続けているらしい。あるいは、「太陽電池で動く「ごく小さなゲーム機」があり、「夢幻能ゲーム」が市場を支配しているという。
 

 恨みを持って死んだ人たち、言いたいことを言いそびれて死んだ人たち、そういう死者たちの亡霊の語る理解しにくい言葉や断片的な妄想をうまく並べて一つの物語を作って、彼らにふさわしいお経を選んでやると、亡霊が成仏して消える、というゲームなのだが、消しても消しても新しい亡霊が姿を現すのはどういうわけか。

 

 意味づけが不確かなまま投げだされ、絶望でも希望でもあるようなこの「夢幻能ゲーム」は、倦むことなく「遊び続け」た者だけが勝つというのだけれど、しかし「「勝つ」という言葉の意味を覚えている人ももうほとんどいなくなってしまった」というのが「不死の島」の結句である。最新であるはずのゲームが夢幻能をコンテンツとしているという逆説。価値観の反転、というよりもむしろ既成の価値観の崩壊―消失、それを招いたのはフィクション中の放射能汚染である。これは、〈3・11〉以降の日本が歩んだかも知れない可能世界の一つには違いなく、その意味では川上弘美「神様2011」とも重なる様態をもつ小説でもある。
 その上で、「不死の島」に託された希望を探るならば、「フェルナン・メンデス・ピントの孫の不思議な旅」にしても「夢幻能ゲーム」にしても、言葉‐物語がフィクション中においてもなお、国境を越え、放射能汚染をかいくぐり、力をもっているということに尽きる。現実世界はもとより、フィクション中においてすら、過酷な状況が張り巡らされているにせよ。

nigaoe-ma

松本和也(MATSUMOTO,Katsuya)1974年、茨城県生まれ。

大学教員。
昭和10年代の文学場研究と並行して、現代文学・演劇についての批評も執筆中。
著書に『現代女性作家論』、『川上弘美を読む』(以上、水声社)、『平田オリザ 〈静かな演劇〉という方法』(彩流社)、『昭和一〇年代の文学場を考える新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会)ほか。