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〈3・11〉をめぐる現代小説② 川上弘美「神様2011」が示す生のよろこび 松本和也

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 川上弘美が〈3・11〉をモチーフとして「神様2011」を書く。政治的な発言をほとんどしたことのない川上が、定評のあるデビュー作「神様」(一九九四) をリライトして、ごくはやい時期に震災後文学を発表したことは、賛否両論を惹起し、話題ともなった。
 とはいえ、川上はそれ以前に、小説家として〈3・11〉に直面している。『朝日新聞』に「七夜物語」を連載中だった川上は、〈七章の最後に向かう部分〉を書いていた折に震災にみまわれ、〈書こうという気持ちに、一切なれなかった〉という。そんな川上は、三月一六日に届いた〈津波で、父が行方不明になりました。テレビも、新聞も、悲しすぎて見られません。今はただ、ずっと読んできた連載小説だけを読んでいます。日常というものがまだこの世界にはちゃんとあるのだと思えるからです〉という読者からの葉書を読み、再び筆を執る。〈葉書を下さった方をささえたのは、おそらくわたし個人の力ではありません〉という川上は、それを〈言葉自体の力〉・〈物語自体の力〉だと捉えている(「言葉の力 物語の力 「七夜物語」連載を終えて」、『朝日新聞』二〇一一・五・一〇)。
 二〇一一年三月末に書いたという「神様2011」は、『群像』二〇一一年六月号に発表される。その冒頭を、オリジナルの「神様」からの変更点を含めて、まずは引いておこう。
 
 

 くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。〔歩いて二十分ほどのところにある川原である。〕春先に、鴫を見るために、【防護服をつけて】行ったことはあったが、暑い季節にこうして【ふつうの服を着て肌をだし】、弁当まで持っていくのは、【「あのこと」以来、】初めてである。散歩というよりハイキングといったほうがいいかもしれない。

 
 「神様」は、隣に引っ越してきた「くま」に誘われた「わたし」が、川原まで散歩に行って帰ってくるだけの、メルヘン風の短編である。「神様2011」は、ストーリーはそのままに、「わたし」と「くま」が暮らす世界が、放射能汚染後に設定し直されている。
 右の引用でいえば、〔〕内の削除と【】内の加筆が、「神様」から「神様2011」への変更点である。しかも、「神様2011」は、雑誌初出、単行本『神様2011』(講談社、二〇一一)、収録されたアンソロジー『それでも三月は、また』(講談社、二〇一二)と、いずれのケースでも「神様」と併載されている。従って、読み手としてはつねに、「神様」と「神様2011」における重なりとズレを気にすることになり、そのことによって、「神様」と「神様2011」は、「あのこと」以前/以後のようにも、可能世界の別バージョンのようにも読め、二作品の化学反応よろしく新たな作品世界~理解が生みだされる。
 また、「神様2011」を読むことは、「神様」の読解可能性を引きだすことにもなる。川原についた「くま」(と「わたし」) に浴びせられた、他者の視線・発言をみておこう。
 
 

 荷物を下ろし、タオルで汗をぬぐった。くまは舌を出して少しあえいでいる。そうやって立っていると、男二人が、そばに寄ってきた。どちらも防護服をつけている。片方はサングラスをかけ、もう片方は長手袋をつけている。
「くまですね」
 サングラスの男が言った。
「くまとは、うらやましい」
 長手袋がつづける。
「くまは、ストロンチウムにも、それからプルトニウムにも強いんだってな」
「なにしろ、くまだから」
「ああ、くまだから」
「うん、くまだから」
 何回かこれが繰り返された。サングラスはわたしの表情をちらりとうかがったが、くまの顔を正面から見ようとはしない。

 
 大幅修正が施された右の場面では、「くま」を類を異にするものとして差別化する視線が「神様」同様に書かれながら、より端的な差別へと変じている。また、「神様」には登場していた子供が消え、放射能汚染後の世界が暗示されてもいる。さらには、人間(主人公「わたし」) と動物(「くま」) との共生のあり方や意義が、くまの危険性によって「神様」以上に読み手に問いかけられている(「くま」の野獣性に、被曝量とその蓄積がプラスされる)。
 散歩を終えて戻ると、「神様」同様に「神様2011」でも、「くま」は抱擁を求める。
 
 

「抱擁を交わしていただけますか」
 くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
 わたしは承知した。くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなことを気にするつもりなど最初からない。

 放射能汚染以前であっても、「くま」との抱擁には、類を異にするものゆえの快楽/危険性が孕まれていたけれど、右の引用部では放射線量というリスクが明示される。それでも、「わたし」は抱擁を受け入れる。むしろ、求めているといってもよいのかもしれない。
 ここで、川上が、初出「神様2011」に付した「あとがき」の一節を引いておく。
 
 

 静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。〔……〕この怒りをいだいたまま、それでもわたしたちはそれぞれの日常を、たんたんと生きてゆくし、意地でも、「もうやになった」と、この生を放りだすことをしたくないのです。だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから。

 
 この発言も、飄逸な文体を得意とする川上にしてはストレートに過ぎる。「熊の神とはどのようなものか、想像してみたが、見当がつかなかった。悪くない一日だった。」という結末は、「神様」でも「神様2011」でも変わらないけれど、その意味するところは大きく変わっている。そうであれば「神様2011」とは、現実世界において見えないものとして排除されているものを、「わたし」を通じて目に見え、触れることのできるもの(「抱擁」) として示した小説であり、そこでは〈生きること〉の〈よろこび〉が目指されていたのだ。

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松本和也(MATSUMOTO,Katsuya)1974年、茨城県生まれ。

大学教員。
昭和10年代の文学場研究と並行して、現代文学・演劇についての批評も執筆中。
著書に『現代女性作家論』、『川上弘美を読む』(以上、水声社)、『平田オリザ 〈静かな演劇〉という方法』(彩流社)、『昭和一〇年代の文学場を考える新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会)ほか。