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〈3・11〉をめぐる現代小説① 現実の多面性と言葉/想像力 松本和也

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現実の多面性と言葉/想像力
 
 二〇一一年三月一一日、後に東日本大震災と呼ばれる出来事の端緒となる地震が起きて、しかも地震は広い範囲でその後もつづき、(実感としては) そうこうしているうちに、地震と津波の影響による福島第一原子力発電所の事故が明らかになった。
 その日の夕方から夜にかけてのことは、よく覚えている。震源からはずいぶん離れた職場で大きな揺れを感じて、同僚とTVニュースを見た。大地震だということはわかったけれど、ことの重大さに気づくまでには、少しく時間がかかった。茨城県に住む母と連絡が取れないと、東京都に住む姉から連絡が入った。すでに帰宅していたが、それからニュースを付けっぱなしにして、ネットで情報を集めた。実家への電話はつながらないまま、TVモニタに映る光景をみているうちに、実家の罹災状況が自ずと想像され、一刻も早く戻らなければならないと焦燥に駆られた。ようやく実家に連絡がつくと、すぐに駅に向かい、特急のチケットを買った(結局、特急は走らず、二度の払い戻しを経て、三日後にようやく実家に帰ることができた)。
 こうした、ごく私的な震災体験にはもちろんつづきがあるけれど、ここでは省く。確認しておきたいのは、私にとって東日本大震災とはまず、視野の限られた、ごく私的な体験であり、一方でメディアが報じる公の現実や、政府や関連企業のみている(らしき)現状もあり、さらには、それらのいずれからも死角となる、膨大(?) な現実がある(もちろん、それを直接体験することはできないけれど、その所在は確かなようである)。
 こうした、東日本大震災とそれに端を発することごとを、ここでは〈3・11〉と称し、その意味するところを広めに、そしてゆるやかに設定しておきたい。というのも、現実とはすべからくそうではあるけれど、こと今回の出来事は、居住地域や年齢、被害状況や健康状態、さらには興味関心や立場、情報量等々によって、その個別性が顕著なもののように感じられるからだ。ある具体的なコンテクストの中に置いた時、何かしらの意味を生じていくであろう個別性の、それでいて東日本大震災及びそれに端を発する諸現象を、〈3・11〉という記号で、仮にあらわしておきたいのだ。
〈3・11〉と芸術(家)の営為について、ここでフォローしきることは手に余るけれど、すでに批評的な考察を含んだサーベイとして、文学を中心に映画も視野に入れた木村朗子『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』(青土社、二〇一三) や佐々木敦『シチュエーションズ 「以後」をめぐって』(文藝春秋、二〇一三) があり、その後にも、斎藤美奈子「世の中ラボ51) 震災文学論が映す「3・11後」の風景」(『ちくま』二〇一四・六)・「世の中ラボ52)「震災後文学」が描いたこと」(同前二〇一四・七) などが書かれている。アートについては倉林靖『震災とアート あのとき、芸術に何ができたのか』(ブックエンド、二〇一三) があり、演劇については後藤隆基「震災・原発演劇論のために――2011」(『ゲストハウス』二〇一四・一二) が有益な視座を提供してくれる。
 私自身も、川上弘美の小説「神様2011」について拙著『川上弘美を読む』(水声社、二〇一三) で論じ、最近、『祝/言』という演劇作品について「日中韓国際共同制作作品『祝/言』における「風」と「結び目」――“3・11”をめぐる多言語演劇」(『立教大学日本学研究所年報』二〇一五・八) で論じた。
 次回からは、そうした展開を参照しつつも、興味を現役小説家による〈3・11〉を直接的/間接的なモチーフとした現代小説に絞り、川上弘美「神様2011」(二〇一一)、多和田葉子「不死の島」(二〇一二)、川上未映子「三月の毛糸」(二〇一二)、綿矢りさ『大地のゲーム』(二〇一三)、金原ひとみ『持たざる者』(二〇一五)をとりあげて、〈3・11〉が現実に端を発する虚構として、どのような言葉/想像力によって編みあげられているのかを読み解いていくつもりである。
 こうしたテーマを選んだのは、私が日本の近代文学を研究していること――しかも、昭和一〇年代の文学に興味をもっていることと、関係がある/ない。
 はっきりしているのは、アジア・太平洋戦争と〈3・11〉を類比的に考えることはしたくないということ(そう考える契機が私には見当たらない) と、少なくとも職業ゆえの使命感のようなものは皆無だということである(むしろ、使命感をもつ方が不遜に感じられてしまう)。かといって、興味関心がないわけではなく、〈3・11〉をモチーフとした文学についてならば、こと右にあげたラインナップについては、むしろ強い興味をもっている。
 そしてその興味は、昭和一〇年代の文学(研究) とも通底している。一口にいってしまえば、「他ならぬこの現実と虚構=文学とがどのようにして歴史的な切り結びを演じたのか」というテーマである。もとより、虚構/現実といった二元論は、議論としても古く、また、今日のテクノロジーや感性のもとでは、少なからぬ要素がこぼれ落ちてしまうだろう。
 それでも、ひとまずは虚構/現実という極を仮設することで、時には作家やその書く営為も含めたこの現実に虚構を対峙させつつ、私的な体験、出来事の現実性、現象の死角、想像力などに思いをめぐらせながら、右にあげた小説をていねいに読んでみたい。そのことによって、〈3・11〉をめぐる個別性についても、小説を通じて考えていきたい。

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松本和也(MATSUMOTO,Katsuya)1974年、茨城県生まれ。

大学教員。
昭和10年代の文学場研究と並行して、現代文学・演劇についての批評も執筆中。
著書に『現代女性作家論』、『川上弘美を読む』(以上、水声社)、『平田オリザ 〈静かな演劇〉という方法』(彩流社)、『昭和一〇年代の文学場を考える新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会)ほか。