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フシギな日本文化論──谷崎潤一郎「陰翳礼讃」を読む② 松本和也

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 タイトルに掲げられた「陰翳礼讃」を、文字通りこのエッセイのエッセンスと捉えるならば、それは“暗いっていいよね” という、ごくごく感覚的なメッセージにとどまる。それでいて、そのようなものである「陰翳礼讃」が、一定の説得力をもった日本文化論として長らく評価を得てきたことは、まずもってフシギなのである。
 とはいえ、「陰翳礼讃」は、科学者による論文ではなく、文学者によるエッセイである。しかも、実体験や実感に即して、日本文化のさまざまな側面に考えをめぐらしていく──いいかえれば、論理構成とは別のアプローチを重んじるというスタイルが、積極的に選ばれたものでもあるはずだ。だから、論理の欠如をあげつらうのは、そもそも「陰翳礼讃」にふさわしい読み方ではないのかもしれない。そこで、この感覚的実体験に即して、谷崎の語る日本賛美を読んでみよう。
 なお、本文は最新の『谷崎潤一郎全集』第十七巻(中央公論社、二〇一五) により、一行あきによってわけられた全一六章段を、ここでは便宜上①から⑯と示すことにする。
 「陰翳礼讃」は、①で日本座敷と西洋の文物との齟齬/調和から説き起こされ、②に至ると、夏目漱石をひきあいにだしながら、日本の厠が中心的なトピックとされる。「京都や奈良の寺院」に行った際、「日本建築の有難み」を感じるという谷崎は、茶の間よりも日本の厠に注目し、「実に精神が安まる」と賞賛する。そのための「必須の条件」として、
「或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることゝ、蚊の呻りさへ耳につくやうな静かさ」をあげる谷崎は、「日本の建築の中で、一番風流に出来てゐるのは厠であるとも云へなくはない」とまで述べて、次にようにつづけていく。

総べてのものを詩化してしまふ我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、却つて、雅致のある場所に変へ、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むやうにした。これを西洋人が頭から不浄扱ひにし、公衆の前で口にすることをさへ忌むのに比べれば、我等の方が遥かに賢明であり、真に風雅の骨髄を得てゐる。

 日本文化賛美と読める右の一節に、すでに「陰翳礼讃」全編に共通する特徴がいくつも埋めこまれている。第一に、日本文化の特質を「詩」と称し、「雅致」・「花鳥風月」・「風雅」といった一連の“趣” とでも総称すべき言葉によって縁取っていく言語選択、第二に、祖先も含めた「我等」=日本人を、古来、連綿とした感性を持つすぐれ集団と位置づけ、それを「西洋(人)」と対置する構図、そして第三に、日本(人) にのみ「真」を付与していく際の、根拠のない感性的な断定、とである。当時も今日も、右のような日本人/西洋人の厠‐トイレに対する考え方は、あり得るにせよ、そのような見方もあり得る、という程度のこと以上ではない。
それでも重要なのは、右のような語り方‐言葉のパフォーマンスそれ自体が、いつの時代にあっても日本人読者をして、「祖先」とのつながりを感じさせ、「なつかしい連想」へと想到させ、その帰結として、西洋(文化) とは異なる、日本文化の美質を再認識させていく力をもってきたということだ。つまり、右の一節は、日本/西洋の厠―トイレ(認識) を語ることそれ自体を通じて、日本人をたちあげ、日本文化(の美質) を生成していく、そういったパフォーマンスを果たす文章なのだ。
 もう一カ所、“暗いっていいよね” というメッセージが明示された箇所を、日本座敷を「墨絵」にたとえた⑨から引いておく。

私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使ひ分けに巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、そこには此れと云ふ特別なしつらへがあるのではない。要するに唯清楚な木材と清楚な壁とを以て一つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処へ朦朧たる隈を生むやうにする。にも拘らず、われらは落懸のうしろや、花活の周囲や、違ひ棚の下などを塡めてゐる闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切つてゐるやうな、永劫不変の閑寂がその暗がりを領してゐるやうな感銘を受ける。思ふに西洋人の云ふ「東洋の神秘」とは、斯くの如き暗がりが持つ無気味な静かさを指すのであらう。

 ここで谷崎は、日本座敷という伝統を創りあげ、受け継いできた日本人を賞賛しつつ、自分もそこに連なる者として、それゆえ、「何でもない蔭」に、西洋人には理解不可能な「永劫不変の閑寂」を見出している。ここに至ると、日本座敷についての評価の仕方は、感覚の域をこえ、神秘化とでも称すべき縦横に駆使されたレトリックによって“趣”の極地を現出(=幻出) させていく。逆にいえば、ここでもまた谷崎による巧みな言語選択によって、言葉それ自体のパフォーマンスが日本・日本人・日本文化をたちあげ、そこに「われら」のみが知る「秘密」=美が、文字通り礼讃されていくのだ。
 今回注目した「陰翳礼讃」のフシギとは、一言でいえば〝日本文化(の美質)など、この文章のどこにも想定されていない〟ということに尽きる。実体的にも、論理的にも、ないはずの日本文化(の美質)、にもかかわらず/それゆえ、谷崎という文学者が、実体験や感覚に即したエッセイを綴っていくことで、そこで運用される言葉が、伝統的に日本人のみに理解可能な“趣”をいつしか、しかし確かに、幻よろしく生みだしてゆく。これを言葉の魔力と呼ぶのか、谷崎の戦略ととるのか、あるいは、「陰翳礼讃」というエッセイの奥深さと捉えるのか──「陰翳礼讃」のフシギをめぐって、さらに読解を進めていこう。


 

 
 

nigaoe-ma

松本和也(MATSUMOTO,Katsuya)1974年、茨城県生まれ。

大学教員。
昭和10年代の文学場研究と並行して、現代文学・演劇についての批評も執筆中。
著書に『現代女性作家論』、『川上弘美を読む』(以上、水声社)、『平田オリザ 〈静かな演劇〉という方法』(彩流社)、『昭和一〇年代の文学場を考える新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会)ほか。