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夜による夜 4 伊藤佑弥

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 帰るとまだサオリは起きていた。
「遅かったね」と言われて何を言ったらいいかわからなくなり、頷くことしかできない。寝ていると思ったから、起きていた時のことを考えていなかった。
 でも頭に浮かぶのはさっきまで話していたことと答えのない自問自答。考えていたことを言うべきかどうするか。言わなきゃもやもやしたまま生活をずっと過ごし、言えばどうなるかは想像できない。単にそれは創造できないだけ。
 サオリはいつものように、本を読んでいる。僕は何も言わず、というより言えず、座ってサオリを見ていた。違う景色のように思えた。自分が今いる場所がいつもいる場所ではないような気がして、落ち着かない。
「どうしたの?」
 落ち着かない様子がサオリに伝わったのか、聞かれてしまう。聞かれてさらに、どうしたらいいかわからなくなる。
「今日はバイト行ったの?」
 漫画から目を離して聞いてくる。優しい口調だったけど、目は怖い。目は仕事にちゃんと行ったのか、おいこら、行かなかったらどうなるかわかってんだろうな、って言っている。なんのために付き合っているのかわからなくなる。僕は見張られているのか。
「うん、行ったよ、」
「そう、ご飯は?」
「食べた」
 つまむ程度にしか食べていないけど、そう言った。ビールを飲んでいるせいでお腹がすいてはいないから別に食べたくはなかった。
「そう、なにやってたの」
「飲んでた」
「誰と、」
「立花さん」
「え、誰? それ」
 立花さんと知り合いじゃなかったのか。少し驚く。立花さんはサオリのこと知っているのに。
「大学の同期の、あれ知らんの?」
「へー、知らないや」
「知ってたよ、立花さん、サオリのこと」
「ふーん」
 サオリはもう漫画を読み始めていた。あんまり立花さんに興味がないみたいだった。なので僕も漫画でも読んで、気分を紛らわせようと手を伸ばして本を取る。めくる。何も内容が入ってこない。お酒のせいか。今の気分のせいか。感情っていくつもあるはずなのに、スイッチが切られているというか、何も最初から、いくつかの感情がないような状態になってしまっている。考え事が一つ。それしかできない。漫画を読んでいるふりのようにページをめくる。サオリの読む音も響く。ぺくりぺくり。サオリを見る。彼女は漫画を読み続けている。沈黙。静かで外の音も聞こえる。持っていた漫画を置く。
「谷口に告白されたでしょ、」
 僕が言う。僕が言ってしまう。何故か。なんでか。どうして。どうした。言わなきゃだめだと思ったけど、今言うつもりはなかった。
「え?」
「なんで隠してたの?」
 僕は地面に向けて言う。まるでひとり言のように。さっきまで持っていた漫画の表紙を見つめる。本当は言いたくないのにもう口が止まらない。口だけがもう僕ではない。
「え、どうしたの」
 心配そうな声なのか、不信がっている声だけ聞いてもわからない。サオリの表情はまだ見ていない。
「なんでさ、隠してたのさ」
「え?」
「もしかして付き合ってた?」
「何言ってるの?」
 明らかに戸惑った表情を浮かべるサオリを無視して続ける。
「立花さんが言ってた。もしかして、さ。あいつが死んだから、僕と付き合ってる?」
「何言ってんの? 酔ってる?」
 心配の声に聞こえた。でも気にしないで言葉を続ける。
「惰性で付き合ってるんでしょ、情だけでしょ」
 どんどん言葉が繋がっていく。言いたくないことが言いたくないことを作っていく。
 サオリは何も言わない。沈黙が続く。終わらない沈黙。沈黙が答え。ようやく口が気付く。言ってはいけないことに。僕はどうしたらいいかわからない。何で言ってしまったのだろうという後悔がすぐに大波になってやってきた。
「ごめん、なんでもない」
 話すべきないようじゃないと思って、すぐに謝る。言うべきではなかった。息を吐く。まるでため息のように深く、部屋に響く。静けさのせいで空気にヒビが入ってしまったような部屋。
「なにそれ」
 沈黙を切る静かで落ち着いた声をサオリが出した。いつもの声とは違う。いつものサオリがいない。気がつけばいつもの部屋でもない。僕はどこにいるのだろう。自分の部屋に帰らなきゃ。でも体が動かない。じっと座ったまま腰が浮かない。
「なんでもないです。思っただけ。ごめん」
 誰に声をかけているのか。誰の声を僕は出したのか。わからない。
「言わなかったことがそんなに悪い?」
「悪くないよ、でも知りたかったじゃん」
「だって、知り合いじゃん、ウツギ君と谷口君」
「そうだけど、でも知りたかったよ、死んだから付き合ったのかと思うじゃん」
 再び沈黙。どんくらいの時間が流れたのかと思っても全く時間は流れていない。どこかにある時計の針の音が聞こえている。僕は呼吸を忘れていた。
「ごめん」
 耐えきれず謝る。もうこの状態を終わりにしたかった。自分から作ったのに。
「なにその謝り方、何? 惰性とかで付き合ってるとかと思ってんの?」
「だから、ごめんだってば」
 もうこの場から逃げ出したかった。思っていたことがサオリに全て伝わっている。寝転がって、もうなかったことにしたい。いなくなりたい。眠りたい。寝転がる。
「ねえ、なんなの? ねえ!」
「なにが、」
「なにがって、谷口君に告白されてたらなんなの?」
「別に、関係ないし」
「関係あるから言ってるんでしょ、不機嫌になってさ、」
 不機嫌なつもりはなかった。ただ、知らなかったことが悲しかった。
「不機嫌じゃないし、」
「じゃあなに、」
「なんで、言わなかったの?」
「言う必要ないじゃん、死んじゃったし」
「死んじゃったし、ってなんだよ、」
 寝ながら頭を抱えて、喉の奥で言う。
「だって、そうじゃん、てかなんなの? 勝手に怒って勝手に失望して」
「してないし、怒ってるの、そっちじゃん」
「何がしたいの?」
「え?」
「知ってどうするの? 告白されたとか、別にいいじゃん、」
「知りたいじゃんか」
「だって、告白断った後に死んじゃったんだよ?」
 え。
 目元を手で押さえつける。そして顔を覆い、指の間から、サオリを見る。久々に見るサオリの表情。何も言えなくなるくらい悲しい表情をしている。
「だって、」
「なに?」
「ごめん、」
「ごめんってなに」
「ごめん」
 ちゃんと座ってもう一度謝る。
「出てって」
「え?」
「もう出てって、一人にして」
「え、でも」
「ねえ! 出てって!」
「外寒いし」
「もう出てけよ!」
 座っている状態から立ちあがって、サオリは僕を蹴る。何度も。
「痛い! 痛いって」
 もうこれは蹴りとかではなく、踏むだ。形を変えさせるために体重を乗せ、僕を踏む。
「出てけ! 出てけっ」
「わかった! わかったって」
 亀のように縮こまった僕は、ドアへ向かうため立ち上がる。最後に見たサオリの顔は泣き顔に見えた。
 何もないまま、出てきてしまった。家の方を振り返る。ドアからまたサオリがごめんねって言いつつ開けてくれるのを待ったけど、開く様子すらなかった。ドアノブを回そうとするけどガチッガチッと固まって回せない。携帯と財布はあるけど、寒い。寒すぎる、上着を置いてきてしまった。どうしよう。待っていたら、開けてくれるかなって待ってしばらく経つ。でも開きそうにない。ようやく何であんなこと言ってしまったのだろうと後悔をする。
「どうしよ」
 返事はない。ドアに後ろ髪引かれながらも、背にして歩き始める。
「あー」
 声を出しても白い息が出てすぐに消える。未練と寒さのせいで、歩くスピードは遅い。
「どうしよ」
 どうしよう。どうしたらいいだろう。今すぐ電話をして謝るか。いやたぶん変わらない。ずっと怒っているはず。なんで怒らせたのかわからなくなっているから、何も変わらない。何も分からない。どうしたらいいのだろう。誰か。正解を教えてほしい。
「あーどうしよう」
 さっきから同じ言葉しか出てこない。思考も同じ。後悔が声になって漏れる。よく考えたらわかることなのに、考えもせず口だけが動いて、どうしようもなくなる。
 ただ夜を歩き続けている。当てはない。歩いている最中に何回か来た道を見るが、サオリはやってこない。本当に出てけってことか。本当にそうなのか。フラれたのか。ああそうか。
やっぱり谷口はフラれたから自殺したのかもな。今自殺したくなるくらいに絶望だ。フラれたって溺れてしまっているようだ。もがくほど苦しくなる。藁のない場所でもがいている。差し伸べてくれる手はない。あるには夜だけ。夜の暗さは絶望を増やす。街灯が少しだけ希望のように見えるけど、少しだけの希望は絶望を大きくするだけ。ああ。もうそうか。これを谷口は体験したのか。それで自殺したのか。ああ。
付き合えないって言ったせいで相手が自殺してしまったのならサオリも言いたくないよな、ああ、なんで聞いたんだよ、考えたらわかるじゃんか。
「あーもう」
 怒りがこみ上げるが、その矛先は僕。自傷のように、自分を殴るしかない。立ち止まって太ももを殴る。痛くない。振り返るがやっぱりサオリはいない。
「どうしよう」
 これからどうしよう。寒い。そしてお酒のせいで眠たい。もう寝転がって寝てしまいたい。でも死ぬ。外で寝たら死ぬ寒さだ。死んでももう大丈夫かな。ちゃんと働いていないし。サオリを怒らせてしまうし。こんな奴死んだほうがいいな。僕だけど。
「あああもう」
 頭を抱えて、唸って太ももを叩く。痛くない。いくら自分で殴っても痛くない。追い出される前に蹴られた背中の方が痛い。
 これからどこへ行こう。当てもなく歩いても夜に吸い込まれていくだけ。寒さに負けそうになる。夜に吸い込まれたら抜け出せそうにないので、携帯をポケットから出す。光がぼわっと浮かぶ。誰かの家を探す。夜の川に流されないように方舟を探すように携帯を出す。誰かと話したくなっている。一人でいたくない。ため息を何度も吐く。白い息が暗闇に消えて行く。
 泊めてくれそうな優しい人を考える。一番にサオリを思い出す。いやいやサオリには電話できない。また心をすり減らしてしまう。家に入れてもくれないに決まっている。もしかしたら出ないかもしれない。あるいは着信拒否までされていそうだ。だめだ、もう嫌われた。好きじゃないのかな。不安が溢れる。谷口じゃなく僕を選んだからこんな目にあったのかと思っているのかな。
 どこに行こう。サオリには電話できない。じゃあ立花さん、いや立花さんかあ。悩む。考えてしまう。いやいやいや、考えることもない。最初からまた考え込んでしまう。彼氏がいなければいいけど、いやそれでもだめか。泊まりに行った場所が立花さん宅ということがサオリにバレたら悪化だ。火に油。大火事になって僕は灰になって死んでしまう。携帯電話の着信履歴や、発信履歴を見て、誰かいないか探す。発信履歴に「増田」の文字を見つける。いた。
「いた!」
 増田がいた。思わず声が出た。泊めてくれそう。話を聞いてくれそうな奴がいた。後輩だし。聞いてくれるはず。よしと、すぐに電話をかけるが、出ない。留守番に繋がる。メッセージを入れずに切ってしまう。入れたらよかったかな。今から行きますみたいに。
 どうしようか。まあいいや。取り敢えずは家まで向かってしまおう。当てもなく今歩いている方向が、幸運にも増田の家の方。これは運命だ。増田の家に行けという啓示だ。少し早歩きで増田の家まで急ぐ。
 これからどうしようなんて考えない。考えるのをやめる。
 決めたのはサオリの怒った熱がこの寒さで下がるのを待つだけ。それまで、増田の家にいることにする。そのころには僕のぐちゃぐちゃになった思考も落ち着くはず。
 家の前に着く。一応携帯で時間を確認。まだ深夜ではないから迷惑な時間ではない。ドアをどんどん叩くが、ドアの向こうは動く気配がない。もしかしていないのか。ノブをガチャガチャ回す。もちろん鍵がかかっている。嘘だろ。え、どうしよう。入れない。
 しょうがなくドアから離れる。どうしよう。もうどうしようもないのか。一人で漫画喫茶に行くか。寒さも限界だ。死んでしまうかもしれない。このまま死んでもいいか。凍死って痛いのかな。どうなんだろう。
 サオリを見るようにドアを未練がましく、背にしながらも何度も振り返って見てしまう。
「何やってるんですか?」
 声。ドアを見ている時だったので、すぐに前を向きなおす。
「先輩じゃないっすか」
 増田だった。女連れの増田。ビニール袋に大量に物が入っている。それが少し夜にくしゃんと鳴った。
「なんがあったんですか?」
「ちょっと、サオリとね」
 苦笑いしながら言う。
「え? サオリさんとなんかあったんすか?」
 後ろの女が僕を見ている。髪の毛は金髪に近い茶色で、派手な顔立ちをしている。誰。
「喧嘩した」
 照れながら少し地面を見ながら言う。
「あ、そうなんですね」
「うん」
「だから、電話したんすね、出れなくてすみません」
「いや大丈夫」
 過剰に両手を振って否定する。それを増田の横にいる女が見ている。
「あ、一緒に飲みません?」
「え?」
「これから飲むんですよ、だから」
「え、でも」
 僕は横の女の方を見る。
「あ、こいつ覚えてません? 一回飲み会で会ってる気がするんですけど」
「そうだっけ」
 思い出せないけど、見覚えはあるかもしれない。でも誰だろう。
「どうもです」
 見かけとは違って丁寧に頭を下げる横の人。
「アイです」
「あ、どうもです。ウツギです」
 壊れた獅子脅しのように何度も頭を下げる。
「あれ、はじめましてだっけ?」
 増田がアイさんの方を見て言う。
「うん」
「あの、学祭の時とか」
「え、私学祭いなかったし」
「そうだっけ」
「うん」
 二人の会話を無言で眺めている。僕はどうしたらいいだろう。このまま「じゃ」って帰った方がいいのか、それとも「飲みましょうよ」の言葉を信じて待つべきなのか。
 二人は話しながら、歩き出す。僕はどうしたらいいのか、わからずその場で立っていると、増田が気を使ってくれて、
「ほら、先輩もぼくんち行きましょ、寒いですし」
 と言ってくれたので、僕の足が動く。アイさんも頷いて僕の方を優しく見てくれる。
「あ、ありがと」
 先輩とは思えない情けなさを感じながらも小走りで二人の後ろを歩く。
 部屋に入る。増田の家は久しぶりだ。二人が上着を脱ぐ中、僕は脱ぐ上着がなく、何をしていいかわからず、立ったまま。
立ったまま、やたらときょろきょろして部屋を見回してしまう。炬燵がある。入りたい。もう体がとても冷たい。これは死んでしまっているかもしれない。それくらいの冷たさ。もう炬燵お預けに我慢できなくなって、スローモーションで立ちっぱなしから、炬燵の中に入る動きをする。二人に気付かれないように。気付かれてもいいんだけど。
増田とアイさんはビニール袋から大量のビールを出して冷蔵庫へ入れている。僕はゆっくり座ろうとしている。二人は僕に聞こえないような声で、何か喋っている。ものすごく気まずい。その二人を見て気付く。これは確実に120%、セックスをするつもりだったはず。なんていう場所に来てしまったんだろう。誘われたからって、ほいほい付いてきてしまった。ちらっとアイさんが、僕を見た。僕は今中腰。それを見たアイさんはなにこいつ死ねよ的な視線をしているような気がする。どうしよう。このまま帰ろうか。帰る様子を窺うが、二人は自分たちの世界に引きこもってしまっている。
帰るタイミングを伺う。帰らなきゃ。中腰から、また背骨を伸ばして進化の経路をたどるように立ち上がっていく。
「えーっと」
 濁す。タイミングを作ろうとするけど、増田はキッチンの方へ行ってしまったし、彼女はテーブルの上にスナック菓子やお酒をかつんこつんこたかたと次々に置いていく。どうしよう。じゃあ帰りますんでっていつ言おう。今か。飲み会が始まったら帰れない。多分。
「じゃあ僕帰ろうかな」
 じゃあって何もしてないけど、じゃあって付けてしまう。
「え? 帰るんすか? まだサオリさんの話とか聞いてないですよ?」
「ああーそれは別に今度話すよ」
 早くこの場から抜け出したかった。聞いてもらいたかったけれどもしょうがない。
「いやいやいや、飲みましょ?」
「そうですよ、飲みましょーよ」
 アイさんが笑顔で炬燵に入りつつ見てくる。え、いいの? 社交辞令? わからない。中腰のまま止まってしまう。
「話聞きますよ?」
 増田からビールを差し出されて受け取ってしまう。
「じゃ、じゃあ」
 笑顔のつもりで笑ってみたが、多分変な表情になっている気がする。そしてまた座る。ようやく炬燵の中に入れる。暖かい。目も口も開いてしまう。お風呂に浸かった時のように声が漏れそうになる。
 炬燵に三人。テーブルの上にはビール。恋人同士と僕。どうしよう。とりあえず缶ビールは持っている。パシャパシャと二人が開けたので僕も開ける。飲みましょうよ、と言われたからいるものの、場違いな雰囲気が伝わる。
「じゃあ、乾杯ー」
 静かに乾杯の音頭を増田がとり、僕も遠慮がちにアイさんと増田の缶ビールに当てる。
 二人とも何かをしてきたのか、ごくごく、乾ききった喉を潤す砂漠の住人のように飲んでいた。取り敢えず僕は口だけつけて置いたらまだ二人は飲んでいて、ぼーっと飲んでいる様を見ること以外することがなかったので、もう一度飲むふりをして口に付ける。
 二人とも缶を置いたと同時に、僕はビールから口を離して息を吐く。何かしゃべらなきゃ。僕は缶を持ちながら聞く。
「二人は、いつから、つ、付き合ってるのかね?」
 言い方が父親みたいだと言いながら自分で思う。
「えーもうどんくらいだっけ?」
 僕にではなく、アイさんの方を向いて増田は言う。
「半年くらいかな、たしか」
 アイさんは一瞬増田を見てすぐに僕の方を見ながら言った。
「そうなんだー知らなかったー」
 案外長いようで短い。僕とサオリは四年。長くはないかもしれないけど短くはない。
 僕の相づちを聞きながら二人はニコニコ笑っていて羨ましく思ってしまう。僕のことを蔑んだ笑顔ではなく、純粋に二人でいるのが楽しいから出てくる笑顔。二人だけの空気、感覚を纏っていて、僕は除外されてしまっている。その空気が羨ましいと思った。世界に二人だけのよう。僕はどこにもいない。二人だけの正解。羨ましい。
 羨ましいと思ったけど、僕とサオリはどうなのだろう。今目の前にある二人だけの世界のような世界もあるのか。缶ビールに口をつける。僕らがどう見えているのか、僕は中にいるから見えない。見ようとしても鏡を使わなきゃいけない。鏡にはその世界は映らない。映ってくれない。
「んで、サオリさんとどうしたんすか?」
 いつの間にか増田が僕の顔を見ている。
「んー、喧嘩した」
 言葉を濁そうとしたけれど、何を言っていいかわからず、ビールを一口飲んで勢いをつけて、そのまま言ってしまう。
「喧嘩っすかーなにやったんすか?」
 なにやったんだろう。何をしてしまったのだろう。考える。何かをしてしまったからこうなってしまったのに。
「なんだろ。なんか怒った、向こうが」
「でも、理由なく怒るわけないでしょ、サオリさんだし」
「まあそうだけど、なんか、なんか、谷口に告白されたことを言わなかったから、それ言ったら怒った」
 そう言うと、増田は体をあーと言葉を洩らしながら、体を反らす。
「あーそれだめっすよ、ウツギさんそれ。谷口さんのことは言っちゃだめっすよ」
「え?なんで、」
「知らないんすか? 彼氏なのに」
「え? え?」
 
(8月号に続く)

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伊藤佑弥(Ito Yuhya)
@motokano_goyaku

東京生まれ。文芸と演劇とその他ユニット「元カノを誤訳」主宰。
日常や生活や君やあなたと僕、私が回転してぐるぐる回るような言葉に、新たな視点から普遍的な世界を描く。
あの日に見た夕方の風景と恋愛の記憶、話しかける人がいないから話した壁、ふとした瞬間の瞬間の作品作りをしている。
近年は文学フリマなどの同人誌即売会に参加し、主催として文芸と雑貨の展示即売会を企画し、演劇も上演している。
2014年の主な活動として、文学フリマ東京/大阪に参加。
小説は、小さく持ち運べ物語をより身近にするコンセプトのもと元カノ文庫シリーズを発刊。2015年までに9冊刊行中。
演劇は、2013年12月銀座ギャラリー悠玄にて演劇作品『色あせても一人』2014年6月に吉祥寺YORUにて『日々響く、ひび割れて』上演。
個人企画として、に吉祥寺YORUにてライブと展示と同人誌即売会「たぶん家」「たぶん本棚」を企画。
そして同人誌即売会とライブペインティング企画「やすみの誤訳」を企画主催。
7月には、下北沢THREE×お前の先祖共同企画<YOUR SENZO IS GOOD>に参加。
お前の先祖の楽曲とコラボレーションで小説を作成。
他にもしずくだうみ2nd E.P.「泳げない街」の会場購入特典として小説を作成配布。

paco

安藤ぱこ(Ando Paco)

描きたいものを描きたいときに描きたいだけ描いています。パステルカラーとふわふわしたものがすきです。