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花酔い 後 磯崎愛

isozaki

 五
 
 あれはいつのことだったか、響さんの世話になってすぐ、そこにいるのがいたたまれなくて家を出たことがある。おれは強盗や人殺しの片棒を担いで暮してたのだ。それが今度、そちらを取り締まる側に住まわせられた。何もしなくとも飯が食え、殴られず犯されず、ゆっくりと暖かい場所で眠れるだけで幸福だった。だが、この暮らしがいつまで続くのか不安でもあった。
 思えばおれは、真剣に家出しようと考えたわけではないのだろう。甘えていた。ちょっとしたいさかいの後、出てってやると吠えた。思い出すだけで恥ずかしい。出てってやるも何もない。おれは当時も今も、響さんにはお荷物なだけだった。
 だが、ウテナは騒ぎに驚いてやってきた。そしておれを泣いて引きとめた。ほっておけと響さんは口にしたが、おれの後についてきた。おれはそのころまだウテナがこの国の姫様だとは知らなかった。だが、なにか深い事情があってここにいる娘だというのは察していた。そもそも女の子がいていい場所ではないからだ。
 おれはけっきょく、この都の外に出られなかった。ウテナが、おれの後をどこまでも、本当にどこまでも追ってきたから。おれを見失うと、道いくひとたちに声をかけておれを探してくれと頼みこんだ。あいつはけっして諦めようとしなかった。転んで擦り剥いた膝小僧から血が出て足を引きずって歩いてるのに、おれが立ち止まって振り返るまで、声もかけてこなかった。泣きもしなかった。
 おれは、じぶんよりも年下の幼いむすめの根性に負けた。だから諦めて、もう十を越していたはずなのに、ウテナといっしょに七つの親木式をした。おれみたいな人間に仲間がいて、まともな職につくことができたのはすべて、あのときウテナが後を追ってきてくれたせいだと考えることがある。あながちそれは間違っていないと、おれの育て親の響さんがよく笑う。その前にあんたが拾ってくれたおかげだろうと言い返すと、おれは一度しか拾ってない、ほんとにおまえを拾ってくれたのはあのお姫さんだろうよ、と。
 あの日、手を繋いだおれたちを出迎えてくれたのは、そのころはまだ今ほど背が高くなかった白木蓮だったはずだ。
 あれから何年の月日がたったのか。七年、そのくらいか。
 おれは今度こそ、あの手を握ってこの都を出るのかもしれない。
 
 六
  
 七日後の宵、何食わぬ顔で朝生の部屋にいくと、ウテナはせんとちがって地味な藍の小袖姿でおれを中にさし招いた。
「早かったね。まだ誰も来てないよ」
「ほかに誰か来るのか?」
 目を丸くしたおれに、ウテナは知らなかったの、という顔をしてこたえた。
「うん。織枝をはじめ、みんな今年の桜の見納めだって七人全員ひさびさに集まる予定だけど。織枝からそう聞いてない?」
「いや、それは」
 そこで言葉を濁した。あいつが呼びとめたのはこの件か。だが、おれが聞かなかったのだ。
 たしかに、朝生の部屋の前には軒にかかるほど大きな八重桜の木があった。散り始めているが、まだ見頃といってもいいだろう。八重桜のくしゃりとした花のひとつひとつは昼間みると可愛らしく感じられるのに、こうして夕闇のなか篝火に照らし出された桜の大木は色の濃淡のためか、その花弁の重なり具合のせいかやたら豪奢で妖艶にさえ見えた。
 おれは軒先に出てあぐらをくみ、まんまと朝生に謀られたとがっくりきた。
 ウテナはそんなおれの様子をどう思ったのか、すぐ隣に立ったまま、
「こないだはごめんね。おにいさま、葉とわたしがおしゃべりするの、気に入らないのよね」
「それは当たり前の話しだよ。おれ、昔はひどいごろつきだったし」
 ウテナはゆっくりと首をふった。
「そういうんじゃないと思う。だってそしたらご自分の厩番に取り立てないし、養子の話も口きかないと思うよ?」
「養子?」
「あれ、知らない? 葉の教わってる馬医の先生があんたを養子に欲しいって件」
「おれは響さんとこの子だよ」
「そんな立派な耳飾りして、もう子供じゃないよ」
 ウテナが呆れ顔でおれの左耳にある石を見た。朝生が用意してくれたのは、小粒ながらごく上等の翡翠だった。金に困ったら売ればいいと笑った朝生の顔を思い出していると、ウテナがおれのすぐ横に座り、斜めからのぞきこむようにして問うた。
「葉は織枝と結婚するんじゃないの?」
「は?」
 こいつ、いきなり何を言い出すんだ。そう思ったが口には出せない。
「織枝が言ってたよ。葉が上のお役目もらったらお嫁に行くって」
「おれ、そんなこと」
「接吻して約束したって聞いたけど」
「いや、それはっ」
 違うと断固として言いたかった。
 織枝はどうしたものか、ここずっとおれのきものの繕いや仕立てをしたがった。おれは身の回りにかまう質じゃない。気のすむようしておいたらいつの間にか箪笥の中身は総とっかえされた。いくらするのか恐々たずねたら、葉はこれからいいお役目につくんだからとわらうあいつに言い寄られた。それが、ついこないだのことだ。
 そのとき、たしかに接吻はした。したが、あれは向こうから無理やり仕掛けてきたことで、おれがしたかったわけじゃなくて、約束だって無論おれはしてない……。
 おれは頭をかきむしる。どうしてあいつとあんなことになったのか。泣き顔が目に浮かぶ。ぎゅっと目をつむり、奥歯を噛みしめる。わからない。目をあけると、ウテナが息をつめ、のぞきこむようにしておれを見守っている。余計に視線が定まらなくなった。おれは口をひらき、唇がわななくので慌てて閉じる。どうしてか、口のなかが苦い。ため息が出た。
 そんなおれを、目を輝かせて見つめるウテナがいる。
「すごいね、葉。都一番の美女と所帯もてるなんて、みんなに羨ましがられるよ」
 女同士ってやつは恥じらいがない。それを知らないわけじゃなかったつもりだ。おれは顔を背けた。頬がこわばり、眉間にしわが寄っていくのを止められなかった。
「……おれの話はいいよ」
「でも」
 ウテナがはなしを続けたそうにしていたのを、おれは無理やり断ち切った。
「おまえはどうなんだよ」
「わたし? わたしは〈枝葉〉を拾ったから、総領様に嫁ぐよ」
「御総領には何人も妃がいるっていう話じゃないか。そんなの、妻じゃなくて春売りとおんなじだぞ」
「いくらなんでもそういう言い方は乱暴すぎると思うな」
「違うったってひとりを相手にするか、多勢を相手にするかの違いだろ?」
 おれの声が尖ったのに、ウテナはいつもの声で返した。
「総領様に何人もお妃様がいるのはしょうがないじゃない? そういうものなんだから。それに、みんながみんな、好いた相手と結ばれるわけじゃないもん」
「そりゃそうだよ、でもウテナの場合は」
「あのね、葉」
 ウテナがおれの頬に手をあてた。頭をひこうとすると、たたみかけられた。
「わたしは〈登頂〉するつもりでいくのよ」
「トチョウ?」
「次の総領様を御産み申し上げることをそういうんですって。わかる?」
 とっさに言葉がでなかった。ウテナの両のひとみに射抜かれて、その掌の冷たさを、乾いたやわらかさを、ただひたすら感じていた。
「わたしは総領様の従妹なのよ。もっとも血がちかい人間のひとりなの。しかもこの国の王女なんだから、わたしが一番、皇后の座につくのが相応しいでしょう?」
「う、ん」
「そりゃあ兵舎育ちでお姫様らしくないし、おまけに器量もあんまりよくないけど、でも、わたしが皇后になるとみんな丸くおさまると思うの。そうしたらきっと、視界樹もまた枝葉をしげらせて青く美しい空が甦る」
 おれはそれを聞いてうなだれた。もうその目を見返すことができなかった。ウテナは総領に結婚する気がないことを知っている。蒼穹に綻びができるのはやはり、天に乱れがあるからだ。そう考えているに違いない。こいつには、それを正しにいく気概がある。少なくとも、おれに今、それを伝えようとしている。
 翻っておれは、そういうことを何ひとつ考えなかった。いったい全体、何をやってるんだか……。
 ふいに、うつむいたままの額にウテナの声が触れた。
「それにわたし、母上様のお生まれになったところで暮らしてみたい」
 それは、おれの身体の真ん中をまっすぐに貫くだけの強さをもっていた。おれはウテナの顔が見たくて頭をあげようとして、できなかった。頬を挟みこむ掌の熱がそれを阻んだ。目の前に息づく華奢なからだは、ただひたすら天をだけ目指していた。
 それは嫁ぐとはいわないとおれは思った。
 ウテナは聡い。たぶん、そんなことくらい自分でよくわかっている。
 呆然とした。
 おれにはいつのまにか、ウテナの考えていることが前のようにはわからなくなっていた。あんなにずっとそばにいて、こいつのことは何でもわかっていると思っていた。それはとんだ思い違いだった。離れて二年もたったのだ。その時間がもたらすものを、おれはうっかり忘れていた。いや、考えようとしなかった。
 顔をあげると同時にウテナはおれの頬から手をはなした。そして、花冷えだねとつぶやいて、火鉢の炭をかきたてはじめた。
 おれはまた、その顔を見ることができなくなった。目が合うのがこわかった。それなのに、おれの目はむさぼるようにウテナを追った。火箸を扱う手の先の淡い爪の紅を、炎にかざした両手が赤く透けるように照り映えるさまを、もうこんな近くでウテナを見ることがかなわないのだと感じた。
 
 七
 
 炎は、おれにあの日のことを思い起こさせた。二年前の猛火の日、おれはこいつを守りきれなかった。その腕から肩にかけて、大きくはないが決して消えない火傷の引き攣れがある。ウテナはおれや朝生の前でそれを気にするそぶりを見せたことは一度もない。
 当たり前だが、おれはウテナの傷を見たことがない。だが、炎に焼かれた皮膚がどんな状態になるのかは知っていた。ふいに、火箸を置いたウテナの腕に古い樹皮のような傷痕が引き攣れるのが見える気がして、おれは息をとめた。
「葉、わたしってそんなに可愛くない?」
 突然そんなことを聞かれて、おれはうろたえた。
「ああもう、あんたには聞かないわ」
 ウテナがそっぽを向いていた。おれは、なるたけふつうに、なんでもないように聞こえるようにしたいと願った。
「ウテナは可愛いよ」
「今さら遅いよっ」
「ごめん、でも、ほんとに……」
 おれは、そこで続けられなくなった。
 ウテナの両目が、おれの顔をじいっと見つめていたから。おれは、この目にいつも先回りされ、何もかもを見透かされ、ただただ怖気づいて逃げ出してきた。
「ウテナ、おれ」
「わたしは、葉がそばにいてくれてよかったと思ってる」
 ウテナが平らかな声で、そう告げた。そしておれが口を開くより前に言い切った。
「今まで本当にどうもありがとう。織枝と仲良く暮らしてね」
 おれだって馬鹿じゃない。だから、こいつに期待されたこたえをわかっていた。それでも、そうだとしても、口にしないではおけなかった。
「……おれ、でも、ウテナが好きだ」
 うん、と小さくうなずかれ、おれはウテナの顔をまっすぐに見た。膝の上で握りしめていた両手にさらに力が篭る。喉の奥から、言ってはならないと戒めてきた言葉が飛び出した。
「ウテナ、おれと一緒に」
「ごめんね。わたしは葉のこと、そういうふうには好きじゃないから」
 そういうふうには、か。
 ウテナらしいとおもった。いかにも、ウテナらしい正直さだった。
「それは、もう、わかってる、よ……」
 返すことばは無様に途切れた。情けなかった。ところがウテナは、
「うん、葉はそれくらいのことはわかってるよね」と、いつもの調子でさらりと言いのけた。ウテナは、なにか考え事をする顔つきで幾度も顎をひいた。しばらく目を伏せて俯いていたが、ついには満面の笑みで、
「でも、葉からそれ聞けてうれしいな」
 そう、言った。
 なんというか、おどろいた。おれはだから素直になった。
「おまえ、おれが真剣に言ったのに、笑うなよ」
「笑ってないよ」
「笑ってるよっ」
 怒りかけたおれに、ウテナは、だってすごく嬉しかったんだもん、とやわらかく目を細めた。おれは虚をつかれた。織枝ならまだしも、おれの知るかぎり、ウテナがこういうことで喜ぶのを見たおぼえは一度もなかった。いまのウテナは、どこにでもいる娘のようだ。
 ウテナはそれからこちらにきちんと向き直った。おれは居住まいを正したウテナを息をひそめて見守った。
「葉があのとき助けてくれて、本当にうれしかった。あんな大きな火のなか手をひいて逃げてくれて、立ち竦んで動けないわたしのせいで背中に大火傷させちゃったのに、ほんとに命の恩人なのに、わたし、あのあとすぐ御殿にあがっちゃって、ちゃんとお礼いえなくてずっと、ずっと気になってたの……」
 ウテナの声がそこでわずかに掠れた。肩がかすかに揺れている。でもおれは、それを黙って見つめた。
 あの炎のなかでウテナは、もういいと言った。もういい、もうしょうがない、苦しいと頭をふった。あのときおれは、ウテナが目の前の火が怖くて動けないのだとばかり思っていた。轟々と風が吹き、あちこちで悲鳴が聞こえ、何かが崩れる音が鳴り響いていた。あたり一面くらい煙に覆われて、ウテナは咳きこみ苦しげに喘いでいた。逃げても、逃げても、炎が追ってきた。ウテナはもう歩けないといった。その膝がガクガク震えていた。だから立ち竦むウテナを担ぎあげて逃げようと抱き寄せた。
 ところが、ウテナは首をふってもういいとくりかえしおれの胸を押しのけた。そして、ひとこと口にした。
 わたしなんて、生まれてこなければよかったんだから、と。
 とっさにその腕を掴んだ。ウテナはまた、もういいからと言った。葉ひとりなら逃げられるよと叫ぶように訴えた。おれはこいつをそのまま引きずって走った。長い時間でないなら抱えて逃げたほうが早いとわかっていた。けれどいつまでもそうはできない。
 昼だというのにまともに空が見えなかった。ちらと、助からないかもしれないと考えた。この街で火事が出たときに死ぬ人間の数を思い浮かべた。数百、数千、数万ということだってないではない。おれとウテナがそのなかに含まれないですむ保証もなかった。天守が焼けたことすらあるのだ。
 それでも、お堀までいけば火はよけられるはずだ。けれど風は逆に吹いている。おれはウテナを振り返った。涙と汗と煤でぐしゃぐしゃだった。ああもう駄目かもしれない。そう思ったら、ウテナとは身分がちがうから口にしちゃ駄目だと決めてきた言葉が漏れそうになった。ひとりなら、おれだって生きてたくなんてない。そう言おうとしてウテナを抱き寄せた。
 その瞬間、紅いものが落ちてくるのが見えた。
 あとの記憶はない。
 
 八
 
 目が覚めて、育て親の響さんから聞いた。ウテナは兄上である雫殿下の近侍に救われたのだと。よくやった、と響さんがいった。おまえは本当によくやったと泣きながらくりかえしてくれた。おれは目をとじて眠った。それだけ知れば十分だった。
 その後、寝たきりのおれのところへ畏れ多くも雫殿下の使いがやってきた。殿下がおれを厩番に取り立ててくれるという。身体が動くようになったら城へあがれと命じられ、おれは素直に従った。もしかすると、ウテナの姿を垣間見ることができるかと期待した。
 城では一切それは叶わなかった。
 当たり前だ。身分がちがう。おれは自分の愚かさにわらった。わらいながら、それでもウテナがお忍びで親木仲間と遊ぶときにはいそいそと出かけた。
 朝生にも、それとなくウテナの様子をきいてみた。朝生はあのとおり、おれの気持ちに気づきながらそれを敢えてあげつらうこともなく、接してくれていた。
 この七日前までは。
 だからおれは、あのときにもうわかったはずなのだ。理解して当然だった。
 おれとウテナはもう一緒にはいられないのだ。
 おれはもう、ウテナの言葉のつづきを無理やりに奪って泣かせてやることはできない。それを誰よりも、ウテナ本人が知っていた。
「……よかった。言えて。わたし、これで、どうにかやってけそうな気がする。本当にどうもありがとう」
 そういって、深々と頭をさげた。
 その床に伏した頭の、小さくやわらかそうな耳朶をみて、そこを飾る夢石はいったいどんな色と形をしているのだろうと思いを巡らし、おれはそれを見ることはないのだと考えた。 
 花が舞い散っていた。 
 あの火事の日も、風の強い春のことだった。おれが床からどうにか起き上がったときにはもう、ウテナはしゃをきて御殿にいた。肩口でまだよかったと朝生がいった。うすものを着てもそうは目立たない、と。
 朝生はすぐにはおれのところに顔を出さなかった。響さんが朝生のかわりに謝った。あいつは今、城中のことで忙しいんだ。おまえには感謝していると伝えてくれと言われたよ。
 嘘だとわかっていた。朝生はおれに腹を立てている。そしてそれ以上に、そんなおれにウテナをあずけた自分自身に苛立ったはずだ。だがそれを表に出すほど馬鹿じゃない。
 ウテナに傷をつけたおれに、あの男がウテナを預けるはずなどなかったのだ。
 おれは瞼をとじて、おれの知らないその傷をおもった。それから、そのはだにおのれを刻みつけることがゆるされるこの視界でただひとりの男の身分を寿いだ。それが視界の総領なら、これ以上のことはない。いずれ樹の帝になるものだ。ウテナはきっと、総領をその地位へと導くことができるだろう。
 ウテナはゆっくりと頭をおこし、早く織枝たち来ないかなあと立ちあがった。衣擦れの音に香がたち、おれはそのときになって、ウテナの着ているのが木綿ではなく、上等の絹織物だと気がついた。地味に拵えていても、ウテナは本当に「お姫様」だったのだ。
 いや、そうじゃない、か。
 ウテナは、どんなときでも「ウテナ」だった。おれが初めて会ったときから、自分の身の定まるところを知り、その役目をおりようとはしなかった。
 それでもおれは、ウテナが自分のこころのままに泣いたりわがままを言ったりすればいいのにと思ってきた。それなのに、おれの前でも朝生の前でも、そして半分血のつながった兄の前でも、ウテナはこちらがそれを望んだときにだけ、そういう顔を見せた。
 おれは、朝生にこころのなかで深く頭をさげた。たぶん、この機会はおれのためにあったのだ。
 戸口が騒がしくなり、織枝と朝生が連れだってやってきた。織枝はウテナにむかって、この七日のあいだに起こったことを、よく口が回るなって勢いでまくしたてはじめた。ウテナは相槌をうちながら微笑んで、まあとにかく座りなよと濡縁へと誘った。
 織枝は、おれと目が合ったとたん真っ赤になってうつむいた。子猫みたいにおとなしくなった織枝はたしかに、とんでもなく可愛かった。
 ただ、もしも。もしもおれが百度を踏むとしたら……おれは、やっぱりウテナの願いを叶えてやりたい。
 誰にも、何にも縋らないウテナが〈登頂〉とやらを夢見るというのなら、おれは、その夢を視界の主たる樹の帝に届けてやりたい。
 そう――織枝の願いはきっと、おれが叶えてやれるだろう。
 立ちすくんだままの織枝が座れるよう隣をあけてやると、ウテナが悪戯っぽく笑った。おれのおさななじみは、「お姫様」のくせにとても目聡いのだった。
 ウテナは気を利かしたのか庭へとおりて、桜を見あげた。その肩に、結い上げた髪に、雪のように花びらが舞い降りていた。
 おれは桜の季節にもっとも大事なものを見失うのだと、そんなことを思っていた。
 
 次の春、ウテナは《境》へとのぼり、天からは視界樹の金銀虹色の花びらが舞い散った。
 おれは、新しくできる家族のために強く、つよく、願っている。
 この青く美しい空を、ウテナと総領様が、安んじてくれることを――
         
    了