F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

花酔い 前 磯崎愛

isozaki


 
 この数年、都じゃ御百度参りが流行ってる。なんでも鳥門とりもんのしたに耳飾りを埋めて百度を踏むと、どんな願い事でもかなうという。おれと同じ城勤めの厩番うまやばんはもちろん、近衛兵このえへいのあいだでも噂になってるようだから大した効き目があるそうだ。
 だがおれは、ひとびとの夢石を繋ぐ鳥門を我欲でけがすような振る舞いがどうしても好きになれなかった。そのうちお社から御沙汰があるものと思っていたが、何もないまま二年がすぎた。それはちょうど昼間の空に暗闇が点々と見えはじめた時期と重なっている。みんな不安なんだろうと育て親は口にした。おれはそのとき黙っていた。誰も彼も天が落ちてくるのが不安で願い事をしてるわけじゃないと言い返さなかった。いや、それとこれとが上手く繋がらなかったのだ。ひとりひとりの暮らしぶりと、この視界しかいの実情が。
今なら、少しはわかるかもしれない。
 まあそれはいい。
 ついさっき、おさななじみの織枝おりえも百度を踏んだときいたときには目をむいた。何を願ったか知らないが、後見人が用意してくれた耳飾りを埋めるのもどんなもんかと思う。そう言っただけで、ようは私の気持ちを知ってるのに意地悪をいうと唇を尖らした。しかも、その耳には春売りのように大きな紅い耳飾りがあった。あいつは都一の織物商の娘らしく派手に着飾っているし、婀娜あだっぽい顔立ちに似合わなくはない。だが、おれはどうも好かなかった。
 しまいにはべそをかきながらこないだの約束がどうのと言い出すもんだから、呼びとめるのも聞かず飛び出した。きものを取りに行ったはずなのに置いてきちまった。
 むしゃくしゃしてどうしようもなかったが、今日は天上にましますいつきの帝のご機嫌がひときわ麗しいらしく、見あげる空は瑠璃るり色に輝いていた。天を支える視界樹しかいじゅの、その青金の枝葉がこんなふうにきらめいて見える日は、何かいいことがあるものだ。
 そう思い直し、おれは噂の鳥門を見てこようとお社へ詣でることにした。
 いまの時季は桜がちょうど盛りで、お社は薄紅色に埋もれるようだった。おれは桜にいい思い出はないせいか、花見で浮かれるほうじゃない。酔客も嫌いで酒もやらないが、それでもやはり花を見たいひとの気持ちはわかる。
脇参道から桜並木を行きかうひとを眺め、橋を渡って境内にはいる。日がいらしく、あちこちの親木おやぎの根元に家族連れがあつまっている。その近くには儀式を執り行う讖緯しんいの巫女の姿もちらほらと見かけた。樹の帝の花妻たる彼女たちはいつも白装束に身を包んでいるのだが、親木式にはその樹木に合わせて衣を変え、花や実をかたどった冠やかんざしをさすこともあり、なんとも艶やかだ。
 ぐるりと見渡してみれば、どこの儀式もとうに終わったようなのにみな親木から離れがたいらしく、親も子も、その後見らしき者たちも、それぞれの面持ちで木々を見あげていた。柳を親木にもったらしい男の子は背伸びして枝先へと手を伸ばし、風に揺れるそれを指先にとらえては放し、じぶんで揺すってはつかんで遊んでいた。
 おれもああしてよく親木にひっついていた。成人して耳飾りにする夢石を七歳まで守ってくれる親木は、いってみればもうひとりの親みたいなもんで、捨て子のおれも、その樹のそばにいるとさみしくはなかった。
 おれには七人の親木仲間がいる。この境内の最奥にあるけやきの巨木を親木にもったのが縁で、何かとつるんで遊ぶようになったおさななじみだ。織枝もそのひとりだ。今じゃ所帯もちもいるせいで全員そろって会うこともなくなったが、昔は花見だ川遊びだとよくつるんでた。子供のおれたち全員が隠れられるくらい大きな洞をもった欅は、この都でももっとも古い樹として崇められていた。
 せっかくなのでひさかたぶりに親木へと詣でるか。
 くるりと向きを変えたおれの目の前を、背の高い少年と振り分け髪の少女が手をつないで走り抜けていく。なにげなく自分の左手を見る。むかし、おれもああやって手を繋いだことがあった。懐かしさに頬がゆるみ、常よりゆっくりと歩み出す。
 桜に取り囲まれた表参道を外れてしばらく進み、ふと気になった。こんな場所なのに、やけに人がいる。用心してあたりを見回すと、城で見知った顔がいくつかあった。目立たないように参拝者や花見客を装ってるっつうことは……しまった! うっかりしてた。今日は姫様の参詣の日だ。
 引き返そうとしたところで、左の耳たぶが耳飾りごと捻りあげられた。
「いででっ」
「葉、こんなところでなに油売ってるんだよ? ひびきに言いつけるぞ」
 養い親の名を出して脅すとは、朝生あさおらしい。りや盗賊の引き込みをしてたおれの背後をとれるのは、この男と響さんくらいなもんだ。とはいえおれは前ほど身体が動かない。
「朝生さん、おれは今日、非番だよ」
 いちばん見つかりたくなかった相手に見つけられ、おれは襟首をつかまえられた猫みたいになった。 
ひまにかこつけて、ウテナさまの顔を見にきたなんて抜かすとぶん殴るぞ」
「違うって」
 朝生の碧玉の瞳に見据えられて、なんて言い訳しようかと思案した。たしかにウテナと手を繋いでいたのを思い出したばかりだ。でも顔を見にきたわけじゃない。て、それじゃ、まるで言い訳になってない。いや、語るに落ちすぎている。おれはなんにも気づかずにここに来たと言うつもりなのか。それはあまりにみっともない。我知らず首をふったところで、はるか後方から別の声。
「葉、どうしたの、きょうはお休みなの?」
 いってるそばからウテナだ。
 

 
 二年前まで隣に住んでたおさななじみ。おれは響さんという城勤めの衛兵隊長に引き取られた。その兵舎には朝生とウテナが兄妹と偽って住んでいた。
 その当時から、いかにも訳有りふうではあった。朝生はその風貌からして、ただの衛兵に見えなかった。美丈夫と呼ぶにふさわしい相貌と手足のやたら長いからだは目立つことこのうえなく、ましてウテナはといえば、髪が白かった。
「姫様にはご機嫌麗しう……って、おれに気軽に話しかけるなって言ってるだろ」
 後ろ半分小声になってあわててひざまずこうとしたおれをウテナはわらう。おさないころと変わらない笑顔で。それから小首をかしげて言い返す。
「別にいいじゃない。わたしがここで鬼ごっこして遊んでたの、みんな知ってるわよ」
「それでも駄目なんだよ」
「どうして」
「身分っつうのがあるよ」
「まあそうだけど」
 不服そうに赤い唇が尖っている。前は紅なんてつけてなかったと、おれは玉虫色に光るそれを見てあることを思い出し、かっと耳が熱くなった。まずいな、おれはいったい……。
 ウテナが不思議そうな顔つきでこちらを見た。けれどおれは何も言えない。言えるはずもない。見つめ合ったまま動けなかった。
 朝生は、そういうおれたちを引き離そうとはしなかった。それに甘え、おれは他のひとに聞こえない囁き声でいった。
「〈枝葉えだは〉を拾ったんだってな」
 視界樹の〈枝葉〉を拾ったむすめは天上にのぼって視界の総領に嫁ぐという。
 ちかごろ昼間っから蒼弓に点々と闇が見えて、今にも暗い天が落ちてくるのではないかとみなが不安に思っていた。けれどそれは、樹の帝の代替わり、つまりは総領のご結婚の知らせのためだったのだ。
 ウテナが〈枝葉〉を手にした噂は瞬く間に広まって、この国は大いに浮かれている。そして、金糸銀糸のおかいどりを着てぴらぴらした簪をさしたウテナは、一年後に嫁ぐことの決まった幸福なお姫様らしく見えた。
 ウテナが耳飾りをしてきものの肩上げをとったのはいつのことだったか。たしか〈枝葉〉を拾う前の月だっただろうか。おれはふと、その腕から肩にかけてあるはずの火傷痕を思い出した。本当に、見えないところでよかった。
 もしも傷が大きかったら、城にあがれなかったかもしれない。まして帝の花嫁になるなど望めなかったに違いない。いや、そもそもあんなことがあったからウテナはこうして姫様におさまることができたともいえる。
 とにかくも、ウテナはあの日みた炎より、もっと赤く艶やかなきものにくるまれて、目の前で微笑んでいた。
 おれはその姿を目に映し、それこそ万感の想いをこめて祝いの言葉を口にした。
 それなのに、見る間にウテナの眉がまんなかに寄せられた。まるでおれが何かおかしなことを口走ったのを咎めるような表情で。もしや、夢石のないことが障りになったのかもしれないとどぎまぎした。こいつの左耳ある耳飾りはただの真珠だ。
 ところが、ウテナはおれの顔をみて予想もしないことを口にした。
「葉、おめでとうをいうのは早いわよ。あのね、視界樹の〈枝葉〉を拾ったむすめは他にもいるの。それこそ隣の国のお姫様も受け取ってらっしゃるそうよ。つまりね、わたしが視界の総領様のお后さまになるのはものすごく大変なことらしいのよ」
「そうなのか?」
「そうなのよ」
 なぜかウテナは威張っていた。おれが朝生に救いを求めると、彼はしぶしぶ申し出た。
「ウテナさま、ご身分の上ではあなたさまに勝る方はおいでになりません」
 ウテナはいったん生真面目な顔つきでうなずいたものの、おもむろに口をひらいて語りはじめた。
「たしかに朝生のいうとおり、わたしの母上様は樹の帝の妹でいらしたし、この国は《地》ではもっとも古い由緒ある王国だわ。でもね、この手のことはそういう政治向きの理由よりも、器量がいいほうが絶対に有利じゃないかとおもうのよ。だって、昔話のたぐいには、家柄がよくてお金持ちの不器量なむすめより、持参金も何もない、それでも若くて美しい魅力のあるむすめが殿方にえらばれる話しがあふれかえっているもの」
男のひとは、みんなそういうものなのでしょう、とウテナはなぜか賢しらな顔つきでおれに同意を迫ってみせた。おれは何がなんでも首をたてに振るまいと意を決してその顔をみた。
 ウテナはおれから見ればじゅうぶんに可愛いが、この国の王族のなかでいえば並以下だ。
 なにしろ、竜女の末裔たるこの国の王族は妖麗な美貌で名高い。視界樹の立つ《さかい》のさらに上に住まわれる樹の帝が、一時なりとも《地》にとどまったのは、竜女の艶姿のせいだっていうはなしがあるくらいだ。
 しかも、ウテナはなんでか年寄りのように髪が白い。お城で暮らしてから髪を染めるようになったけれど、漆黒とはいかず明るいとび色で、ここではあまり喜ばれない。
 おれと朝生が返すことばにつまって固まっているところへ、玉砂利を踏んで、まさしく王族としての麗容をたたえたしずく殿下がお見えになった。
「なにをいっている、《地》のどこを探してもウテナ以上に愛らしい娘がいるものか」
「雫おにいさま、それは言いすぎです」
「そんなことはない。ウテナ以上に美しい娘は他にいない」
 殿下がそれを口にされてもちっとも説得力がないと申しましょうか、かえってウテナ姫が不憫なことに……と、この場にいるみなが思っていることを、おれは顔に出ないようどうにかこらえた。
 ウテナと朝生はといえば、顔を見合わせて遠慮なく苦笑している。殿下はそれを見ても超然として自説をまげることはないようだった。
 ないしょだが、おれはウテナの腹違いの兄上にあたる殿下が苦手だ。じぶんの主君なのに、というかだからこそ、どうもやりにくくてしようがない。濃鼠こいねずあわせに黒髪をひとつに束ねただけの何でもないお姿だってのに、あまりにも麗しくて近寄りがたい。左耳につけた大粒の金剛石が霞むほど、雫殿下の夢石は大きくて眩いのだ。  
 それに、この方は、おれがウテナと顔を合わせるのを嫌っている。おれはそれを知らないわけじゃない。
 殿下は濡れぬれとした切れ長の瞳でおれを一瞥いちべつし、近侍の朝生へと目顔で合図した。朝生は頭をたれてから、おれの腕をひいた。さがれ、ということだ。おれに否やはない。
 ウテナがおれの名前をよんで眉をさげてこちらを見た。朝生は心得ていて、すぐに声をかけた。
「ウテナさま、雫殿下と大欅に詣でるお約束でしたよね」
「ウテナ、こちらへおいで」
 殿下に名前を呼ばれたウテナはそちらに顔をむけ、はい、とよく通る声でこたえる。おれのほうに振り返ったウテナの唇がきつく結ばれたのは、ほんの一瞬のことだった。
 それから何もなかったような顔をして、またね、と笑顔で口にした。殿下の招きに応じて歩み出す。陽光を受けて、髪をかざる簪がひかっていた。おれは目を細めてながめた。地につくほどに長い袖、兵舎にいたときにはいちども見たことのない贅沢なきものをきたウテナを。
 

 
 腕をつかんでいた朝生がそっと手をはなし、おれの後ろ頭を小突いて言った。
「間の悪いやつだなあ」
「しょうがないだろっ」
「おまえ、なんかしたんじゃないのか?」
「殿下はおれのご主君だよ! 不敬な真似なんかしないって」
莫迦ばか。ウテナにだよ」
 真顔で返され、おれの喉がぐっとつまる。
「ウテナに悪さしたら吊るすっていっておいたよな?」
 低い声で凄まれたが、おれは潔白だ。じっさいウテナに近づいて吊るされそこなった奴らを何人も知っている。さすがに命はとらなかった。だが、この男がそのくらいのこと息をするようにこなすのを、おれは知りぬいている。
「なんにもしてないよ。あいつがほんとはこの国の姫様だから、命懸けて守れっておれに命令したの、あんただろ」
「そうはいったが、惚れろとはいってない」
 ああ、そうだ。そのとおり。おれは腹をくくって言い返す。
「悪いかよ」
「悪かないよ」
 鼻で笑われた。
 おれが唇をかんで見あげると、朝生は横目でふたりの後姿を見やった。そして花見客をよそおった自分の部下たちに、ついていくよう合図した。その横顔の厳しさに息をのむ。寸前に軽口をたたいてたのが嘘のようだ。
「朝生」
 おれはつい昔の癖で呼び捨てにしたが、朝生は気にせず端正な顔をこちらへむけた。こういっちゃあなんだが、血を分けた兄の雫殿下より、この男とウテナのほうがよく似ていた。それは、このあたりでは珍しい碧玉の瞳や癖のある褐色の髪が、ウテナの白い髪と色素の薄い瞳を思わせたせいもあるし、どこか乾いた印象のせいかもしれない。 
 おれはあごをしゃくって、金と銀にきらめく鳥門へと朝生をひっぱっていった。朝生はお役目から外れるのもいとわず黙ってついてきてくれた。
 昔は飽かずここに来て、地面に突き立てられた銀色の縦木のどちらかに、翠玉に似た夢石が紐で繋がれていないかと探した。けど、成人してからはめったに鳥門のそばに立たなくなった。
 おれは、ここで母親に捨てられた。
 桜も終わりのころ、今のおれの三倍ほどもある大きな紅白の錦鯉がここへ泳ぎきた。その空に浮かぶ不思議ないきものが樹の帝の〈おつかいもの〉だと教わった。
 ここで待っていなさいねと言いおいて、母はおれの手をはなし、温まるから飲みなさいと甘酒をくれた。花びらの散るなか、金色の横木のうえを悠々と泳ぐ鯉の姿に見惚れているあいだに、母は消えた。二度と、戻ってはこなかった。
 母親の顔は忘れたが、肩へと垂れるほど長い、金と翡翠ひすいが絡み合った豪奢ごうしゃな耳飾りだけは覚えている。
 場末の春売りでなく、そこそこ名の通った太夫たゆうであっただろうと、今はわかる。おれを捨てたのは食うに困ったのではなく、誰かに身請けされたせいではないかと、おれは母が幸福になったと思うことにしている。
 だから、おれが生きて母に会うことはないが、もし母が死んでいるなら、視界樹の枝でできたこの縦木に、あの桜の新芽のような夢石が結ばれるはずだった。まさに春爛漫の艶やかさを讃えたあの輝きを、おれは見忘れることはない。
へその緒につながれた〈夢石〉は、ひとの〈夢名〉を奏でる。〈夢名〉はひとが他界すると《ちかい》へおりて視界樹の滋養となり、天を支える。天上にまします樹の帝は《地》と《境》の夢名のすべてをるものだ。 
 ウテナが、樹の帝の総領に嫁ぐのなら、これ以上めでたいことはない。
 だが、さっきのはなしではどうも違う。
「朝生、他にも花嫁候補がいるって本当か? けど、ウテナがいちばん身分高いんだよな。そしたらそれで決まりじゃないのか?」
 朝生は難しい顔をして腕をくんでこたえた。
「さっきのはなしのとおり、政治的配慮だけで決まるものじゃない。まして国王陛下が実の娘であるウテナを見えないものとして扱っているのだから、俺たちはろくな準備もなく送り出さないとならない」
 ウテナはおれと同じ捨て子だ。この国の姫君なのに捨てられたのだ。父親である国王は、妻の命と引き換えに生まれてきた娘を疎んじて捨てた。そういう噂だ。詳しいことはこれ以上知らない。おれはそれを尋ねるほど無茶じゃない。
 それでも昔、まだウテナがおれの隣りにいたころ、朝生に聞いたことがある。城に戻って父王に邪魔にされるなら戻らないほうがいいんじゃないかと。朝生は傲然とわらった。殺されなかったのだから戻るほうがいいに決まってる。王はウテナを殺せない。にじ姫様をたいそう愛しておられたからな、と。
 そういうものなのか、とおれは呟いたはずだ。朝生はおれの頭に手をやってぐいぐいと圧し潰した。撫でられたのだと気づいたのは、しばらくたった後だった。
「じゃあ、《境》にのぼっても、お后様になれないときはどうなるんだ?」
「妾妃の身分ってことになるな」
「ショウヒ?」
「ただひとりを相手にする春売りのようなものだ。今の総領はすでによその国の名だたる美貌の姫君たちを幾人も妾妃として召し上げている。しかも総領は誰とも結婚しないと公言してるそうだ。おかげで《境》じゃ弟君たちが帝位を争ってるとのはなしだが……」
「ちょっと待て。それって」
 朝生の手がおれの襟をつかみあげた。
「黙れ」
「朝生っ」
「だからといって、《境》にのぼらないわけにはいかないんだ」
 勢いよく手を離され、おれは銀の縦木に背を打った。おれが顔をしかめたので、朝生ははっとしたようだ。それから、おれを見おろしてゆっくりと口を開いた。
「……痛むのか」
 神妙な顔つきで聞かれた。この男にこんな顔されちゃあ困るんだよ、おれは。
れるとなんか気になるだけだ。そんなことより、ウテナはそれを」
「ウテナさま本人が、誰よりも承知している」
 ウテナさま、ときたか。
 おれの苦笑に朝生が唇を引き結んだ。おれはおれで、ウテナがどんな気持ちでおれの祝いの言葉をきいたのか推し量ろうとしてできなかった。
 参ったな。こんなことなら、言わなきゃよかった。
 おれが寄りかかった銀木は、遠目には色とりどりの紐に夢石が結ばれて、御上臈のしめる帯を幾重にも巻いたように艶やかだが、ごく間近で見ると紐は埃にまみれ、褪せて、侘しかった。
 夢石はこの銀木の根元で朽ちていく。それがただの塵になるのはたいてい一年、ひとによってはひと月で地に還ってしまう。運が良ければ、二十年に一度の火祭りのときに鳥門の金木銀木とともに燃やしてもらえる。そうすると他の者たちより早く《誓》へくだることができて、生まれ変われるのも早いそうだ。
 おれは生まれ変わりを信じないが、そういうふうに言われている。
 だからこそ、鳥門の下に耳飾りを埋める行為は、やはり不敬なものと見なされて当然なのだ。逆にいえば、そのくらい尊い場所だからこそ、埋めるのだとこたえる奴がいるんだろうが……まあ、それは今ここで考えることじゃない。
 

 
「なあ朝生、正式なお妃様になれなかったら帰れないのか?」
 銀木にもたれかかったまま未練がましく言い募ると、朝生は首をふった。
「たしかに、過去に自分の妾妃を家臣に下げ渡した帝はたくさんいる。しかしそれで幸せか? そんな気まぐれを待つしかないのが妾妃たちだ。それに、そもそもどうやって帰る? 《境》には船でいけるが、樹の帝のいる宮城には空でも飛べないかぎり、いけないのだぞ。〈おつかいもの〉でも呼んで乗りこなす気か?」
 皮肉っぽい嘲笑は、朝生の内心の憤りと見えた。朝生はウテナの母親の侍童として天からおりてきた男だった。その死とともにみなが船に乗って《境》へ行き、そこから天へと帰ったときにもここを離れなかった。恐らくは、残されたウテナのために。
「……ウテナは、あいつはなんて言ってるんだ?」
 おれの問いかけに、朝生は再び黙って首をふった。おれが睨みつけると、らしくないため息をついた。
「ウテナは聡明だ。周囲を困らせるようなことはいわない」
「そういうふうにあんたが躾けたんじゃないか」
「そうだな」
 朝生は吐き出すように口にして瞳を伏せた。それから、誰かが地面を掘り返したあとを見て肩をすくめた。彼も、百度を踏むやつらを苦々しく思う質なのだろう。
 そう思ったくせに、ふとおれは、自分だったら何を願うだろうと考えた。織枝のはなしを聞いたせいもあるが、もしもおれが願い事をするとしたら何を。
 自嘲を押しこめて吐息をつく。すると朝生がいった。
「葉、七日後の宵、俺の部屋に来い」
「なんで」
 おれは斜めに朝生の顔をみあげた。
「ウテナを呼んでおく。おまえになら本心をいうかもしれない」
「やだよ。雫殿下に睨まれる」
「それは、あの方も了承済みだ」
 本当だろうか。いや、嘘であろうとおれはウテナに会うべきだ。さっき、ごめんなさいという顔をして背を向けたあいつに。
「もしもウテナに行きたくないって泣かれたらどうすんだよ」
「それをいわせられるんなら、おまえが連れて逃げてもいい。援護してやる」
「冗談いうなよ」
「冗談でいえるか」
 瞳がかちあい、おれはさらに声を落とした。
「知ってるだろうが、おれは春売りの捨て子で盗賊上がりだぞ」
「ウテナは父王に疎まれて捨てられ、おまけに夢石のない身分だ。まともに結婚することはかなわない」
 けっきょくは、そこ――夢石――にすべての問題がある。
「それ、ほんとなのか? 夢石の在り処がわからないなんてことがあるのか?」
「ウテナは嘘をつくような娘じゃない。おまえだってそれはよく知ってるだろうに」
 それにはうなずかないではない。それでも、夢石の在り処がわからない、というウテナの言うことがどうやってもおれには理解できないのだ。いや、おれ以外のみながそうだろう。夢石は、じぶんと同じ鼓動を、その脈動をたしかに伝えてくれるものだ。たとえ地中に埋められていようとも。
 おれはさらに声をひそめた。
「陛下が秘術をつかって隠してるんじゃないのか。竜女の末裔たる雨の王族には特殊な秘術が授けられているっていうはなしを聞いたことがあるぞ」
 朝生はおれの顔をまっすぐに見た。
「つまり、持っていたとしてもそれを返すつもりはないのだろうさ。父王を弑逆しいぎゃくして取り返すわけにもいくまい。この国はよく治まっているのだからな」
 この男ならやりかねない。そうも思う。だが、それはやはり、ウテナが喜ぶはずもない。だからおれはずっと長いこと考えていたことを告げた。
「それなら雫殿下がウテナを娶ればいいのに。腹違いの兄妹の結婚は王族には珍しくない」
 ウテナのほうはともかく、殿下はたったひとりの妹であるウテナを好いている。それが恋という名のものでなくとも、他の男に渡すのが惜しいと考えるていどには。そして、けっきょくのところ、ウテナを御殿へ呼び寄せたのは殿下だった。その身を案じて、そばちかくにおいて守ろうとした。
 だが、おれの提案を朝生はすぐさま否定した。
「それはもう遅い。ウテナが〈枝葉〉を拾う前ならよかったが、今それをすれば《視界》の総領から妻を奪う行為とみなされる。下手をすれば帝への宣戦布告ものだ」
 そういうものなのか。いや、じゃあ。
「おれが連れて逃げても同じじゃないかっ」
「ウテナが死んだことにすればいい。ウテナという王女を生かして幸福にするのは難しいが、ただの娘なら可能だろう。おまえは目端も利くしそこそこ腕も立つ。読み書き計算にも不足はない。ああいう変わった娘をあずけても不安はないよう、俺は鍛えたつもりだ」
 この朝生に手放しで誉められるのはくすぐったいが、
「それ、雫殿下は了承してないな」
 そう断じると、朝生が笑った。
「ああ。むろん俺の独断だ」
「あの方を裏切って、あんた、それでいいのか?」
「よくはないが、俺には俺の都合がある」
 そのときおれは、朝生の都合というやつに思いが至らなかった。妹のように育てたウテナの幸福を願ってのものだと考えた。
「響さんは知ってるのか?」
 おれの親代わりの名前を出すと、朝生はまた首を横にふった。たしかに反対するに決まっている。それよりなにより、当のウテナことだ。
「朝生、ウテナはあれでとても賢いよ。身代わりに誰を殺すつもりだ? 顔かたちの似たむすめひとり、自分のせいで命を奪われると知って、逃げ出すはずもないだろう」
 おれが話し終える前に、朝生は不敵な笑みを見せた。
「その点は心配するな。ウテナ自身に死んでもらうことにするだけだ。雫殿下をも欺くにはそれしか方法がない」
「朝生?」
「雨王に秘術があるように、こちらにも秘術がある。だから、誰にも何も話さないで二人でこの都を離れて二度と戻ってこないと約束するなら、俺はウテナをおまえに預ける心積もりがある」
 それはつまり、おれの育て親の響さんにも、そして親木仲間たちにも何も知らせずこの都を離れて暮らすということだ。
 もしもおれがウテナを連れて逃げたと知られたら、雫殿下はおれをけっして許すまい。響さんは拷問のうえ殺されるに違いない。仲間たちも追及の手が伸びるだろう。
 だがもしも、朝生のいうように、そんな不可思議な秘術があるのだとしたら、この逃亡は成功する。この男にこうまで見込まれて引き下がるいわれもない。
 おれは、ウテナがもしもおれでもいいというなら、この機会を逃すつもりはなかった。
 朝生はおれの覚悟をのみこんで深く頷いてから、遠くを見るような顔つきで述べた。
「まあ、何もかもウテナしだいだがな」
 そう、育て親らしく仕舞いにはきちっと釘をさした。おれは苦笑で頷くよりほかなかった。
 朝生がその場をはなれてからも、おれはしばらくひとりでそこに立ち、桜の花びらが石畳へと舞い落ちるさまを眺めていた。
 
(つづく)