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鯖がぐうと鳴いた 3 [前編] 萩原 正人

20150424

 漁船は鳥山を追っていた。魚群探知機が、その真下に船をつける。江ノ島は、遥か彼方に霞み、突然の闖入者に驚いた海鳥が、音もなく四方へ飛び散った。
「はい、いいよ」
 船長の合図で、釣人が一斉に竿を垂らした。途端、そちこちの竿がしなる。慶太のロッドも、つの字になった。
 私は、とりあえず見てるよと、まずは傍観を決め込んでいた。
「小魚の群れを、鯖と海鳥が追いかけっこしてるんです」
 慶太のロットがしなり、右に左へと、黒くうねった海面をテグスで切断する。
「こっちには魚群探知機がありますから」慶太が腹に力を込める。「まあ、ばればれなんですけどね」
 慶太が言っていた通り、鯖の引きは恐ろしく強かった。今にも竿が折れそうなほどにしなっている。慶太が腹にリールを抱え込んで、捻じり込むようにハンドルを回す。
「俺達、魚群の真下で擬餌をまいてるんですからね」と慶太が重い息を吐いた。「ずるいよなあ。生態系なんて無視して、横からがつんと鯖をいただいちゃうんだから」
 ロッドの穂先、海面に鯖の魚影が見えた。そこからは、あっという間だ。
 頭上高く、灰褐色の斑点が陽を浴びてきらめき、慶太は船腹に身を乗り出して、鯖が暴れる針元をこちらへ手繰り寄せる。尾ひれをはためかせ、中空に鯖が舞う。
「なかなかいい型じゃないですか」
 慶太が鯖の背を指に撫で、「この斑点がゴマ鯖」とひとりごちて、鯖のエラ下を鷲掴みにする。
 ぐう。鯖が鳴いた。
「えっ、いま、鯖が鳴いたよ」と、私は驚きの声をあげる。
「あはっ、魚に声帯ってあったかな」
 慶太が笑いながら、鯖の口から、ペンチで捻って釣針を外す。
「ぐうの音もでないって、このことなんだ。鯖がぐうと鳴いてから、ぴくりとも動かないよ」
 慶太は鋏を持ち出して、鯖のエラに鋏を入れる。血しぶきが跳ね、鯖を握った慶太の前腕が血に濡れる。
「ちょっと、なにやってんの、それ……」
「血抜きですよ。これが新鮮さの秘訣で、血抜きをするしないじゃ、生臭さが断然違いますから。マキさん、鯖の刺身って食ったことあります? びっくりするぐらい美味いですよ。釣りたてじゃなきゃ、鯖の刺身なんて食えませんから」
 あらかじめ海水を満たした、一方のクーラーボックスに、慶太が鯖を滑り込ませる。すると、さっきまでぐうの音も出ない様子だった鯖が、エラから血を流し、威勢よく身悶えている。またたく間に海水が血に汚れた。見れば、私のTシャツに飛び散った血が、赤く点々と滲んでいる。
 人工透析を導入してから二年が経っていた。透析の間中、黙々と血を見てきた。たかが鯖の血ごときに腰が引けるとは、我ながら滑稽すぎる。
「クーラーボックスをなぜ二台持ってきたか……。ジャーン。その謎がこれでぇーす。いっこは、この血抜き専用の秘密兵器でしたあ。だって、美味しく食べてやらなきゃ、かわいそうでしょ」
 いま鯖を放したばかりの血抜き用クーラーボックスに、慶太が手をつっこんで、腕の血を洗い落とす。そこには微塵の清潔さもない。海水は鯖の血で汚れきっている。
 
 私もベッドに縛られて四時間、血抜きされている。
 静脈に穿刺した針は、音もなく静脈を吸い上げ、ダイアライザーという、擬似的な腎臓で血液を浄化する。いわゆる人工透析だ。その間、私は読書をしたり、スマートフォンを触ったりして時間を潰す。
 慶太にメッセージを送ったのもベッドの上からだった。
――マキさん、海はいいですよ。何かがパーッと開きます!
 慶太とのいくつかのやり取りがあって、らしくもない海釣りへの同行を決めたときも、視界の片隅には、黙々と血が流れていた。
 この夏、アルバイトの面接に落ち続けた。そして、その度毎に心の底で叫び続けていることがある。
 週三日、四時間の透析について事情を話せば、必ず面接の担当者が、「それは大変ですね」と同情を示してくれた。だったら採用しろと思うが、それは身勝手な理屈だろう。
 心密かに叫んでいるのは、そこじゃない。大変ってなんだよ、言っちゃ悪いが、それは私の日常だ。
 病室のあちらこちらに血が流れている。
 送血管に流れる血液は、生命と深い関わりがあるとは到底思えないほど、静かにしてあっけない。
 鉄柱を這い上がる葡萄色の葉脈。
 それが私の命脈かと思えば心細くもなるし、クリニックの金脈かと思えば皮肉な笑みも浮かぶ。いずれにせよ、社会福祉の恩恵に預かって、大の大人が、この血に縛られてぐうの音もでない。
 それだって、これが私の日常だ。この社会が転覆しない限り、おぼろげながらも明日があるのだ。
 透析か死かの選択だった。
 面倒だとか嫌だとか、覚悟する暇もなかった。腎移植の選択肢もあったろう。あるにはあるが、そんな簡単な話しじゃない。
 澱んだ静脈は澱んだ色のまま、空調の音より低く、自らの静脈から出て、自らの静脈へと還っていく。
 この血を眺め、不思議に思っていたことがある。それは、血は決して赤くないということだ。澱んで暗い葡萄色だ。生命の息吹も感じない。それは静脈だからだろうか。動脈であれば、この透明の塩ビ管が、鮮烈な赤に染まるのか。
 私はある体験から、この澱んだ血の色に、身勝手な妄想を抱いている。
 こいつは死んだ振りをしているだけだ。
 透析を終え、止血に失敗したときのこと、そうとは気付かず帰り支度を始めた。枕に丸めたタオルを畳み始めたとき、血の滴が白いシーツに飛んだ。
 そしてシーツを染めたのは、目の覚めるような鮮やかな赤だった。
 止血が十分ではなく、穿刺後から血が滴り落ちていた。
 白いキャンバスを染めた鮮烈な赤に、なんだこいつ、生きてるじゃんと思った。
 黙って大人しく、塩ビ管に閉じ込められているときは死んだ振りをしながら、それが解き放たれて初めて、生来の赤を発揮する。血が嬉しそうにシーツを赤く染めているように見えた。
――二日後、クリニックのロッカーで、タオルに黒い染みを見つけた。どす黒い染みだ。あのとき飛び散った血が、そこで死体となって死んでいた。
 
(最終回に続く)

hagi

萩原正人元キリングセンス、愛称はハギ。タイタン所属。移植芸人。ライター。

1987年にピン芸人だったシャブとキリングセンスを結成。社会風刺の効いたブラックなコントを得意とし、東京のお笑いライブを中心に活動していた。ところが1998年、母子感染によるB型肝炎から重度の肝硬変であることが判明。コンビ活動を停止。その後、医師から余命半年と宣告されるも、1999年夏に渡米。翌春にダラスで肝臓・腎臓の同時移植に成功する。帰国後、キリングセンスとしての活動に復帰し、2006年に解散。現在はタイタンに所属し、主にライターとして活動している。
著書に移植の体験を綴った「僕は、これほどまで生きたかった(扶桑社)」。テレビロスで連載していたコラムをまとめた「スキスキコンビニ(アスペクト)」がある。2014年12月より、出身地であるCRT栃木放送でラジオのコメンテーターを努めている。CRT栃木放送「ツーミリオン+」16:00〜18:30金曜レギュラーコメンテーター。TVBros.「わらしべマッドサイエンティスト」隔号連載中。

usagi

瀧沢諒(Takizawa Ryo)

文字書き、たまにらくがきとか写真とか。K405のひと。