「わかりました。これで僕がバイトを辞めるといったら、もちろん会社都合での退職ですよね?」
「それは、自己都合です」
「はあ!? それはおかしくないですか。だって、来月から業務がないんでしょう」
「こちらとしては契約する意思がありますから」
「うまいやりくちだな」
聞こえるような独り言を言ってやった。利口じゃない態度であることは承知している。
「巻田さん、そんな態度じゃ、話し合いになりませんよ」
「話し合いじゃないでしょう。最後通告でしょう。もう、決定事項なんだから」
「ということですから。巻田さんも頭を冷やして、自分の立場をよく考えてください」
そういって手際よく書類をまとめると、年下の上司は私の目も見ずに席を蹴った。
その後、私にあたえられた仕事は、一ヶ月だけの住所録の入力作業。それ以降に関しては一切の保証がない。つまりは、解雇一月前の予告期間が用意されたわけだ。
どのみち、こんな状況でバイトに居残ったところで、みじめになるのは自分だ。
バイト仲間だけは心配してくれた。自暴自棄になるな、ここは我慢して、バイトに籍だけは残しておいた方が利口だと。
――我慢する?
この先いったい、いつまで我慢すればいい。
私がお笑い芸人を始めた頃は、まさにバブルの最盛期だった。
あの頃、日毎にアルバイトニュースは分厚くなっていた。フロムエーが週二回の発刊となり、火曜と金曜に、大量の雇用を書店にコンビニにばらまいた。
面談のアポを取るため、電話ボックスに駆け込めば、「履歴書なんていいから、いますぐきてよ」と、まさに売り手市場だった。この調子であれば、芸人として売れずとも、東京にいる限りは、生活に困ることはないと思った。
それがこのありさまだ。
いまとなっては、こちらのスケジュールに都合をつけるためのアルバイトでありながら、緊急の予定が入っても、露骨に嫌な顔をされる始末だ。
あの日吐いた楽観の吐息は、時代の変遷と共に薄まり、それどころか、いまや渦となって私に襲いかかっている。
あの年下の上司に、いい年して、青臭いと思われていたなら心外だ。夢を追っているわけじゃない。あらゆる夢なら見尽くした。
慶太が埠頭の突端に車を乗り入れる。
車止めを越えれば、もうそこは漆黒の海だ。
「ここは、海っぺりまで車を乗り入れられるんで、楽なんですよ」
四〇リットルのクーラーボックスは腰にくる重さで、それを二台と、釣竿三本をカーゴルームから下ろす。
クーラーボックスに腰掛けた慶太が、小脇に抱えた黒いケースを観音開きにあけた。子供が宝物を見せびらかすみたいに、ちょっと自慢気だった。
「マキさん、どれにします」
慶太の掌の上、小魚を擬したルアーが、色とりどりの光沢を放っていた。
私はそれを覗き込んだが、何をどう選べばいいか皆目検討もつかない。
「ルアーなんて初めてだし、さっぱりわかんないよ」
「鯖にセンスを試されますよ。ここから鯖との勝負が始まってます」
こんなところにセンスを持ち出すなんて、相変わらずの慶太だとおかしくなった。私はしばし鯖の気分になって、一番美味しそうなルアーを摘み上げる。そして、出航を待つ間、慶太からルアーの手解きを受けた。埠頭の先端に立ってリールを垂らす。
「手首を使って、しゃくって、一巻き。しゃくって、一巻き。そうそう、そんな感じ。そうすると、鯖がルアーに食いつきますから、当たりを感じたら、それに合わせてロッドを立てる。針に鯖をひっかけるイメージですね。こうやって、がしっと合わせる。しっかり食いつかせる」
竿を持つ左手首を、ぎこちなく跳ね上げては、右手でリールを巻き上げる。しゃくっては、巻き、しゃくっては、巻き。それを何度も繰り返す。
あの頃の楽屋のそっけなさとは違って、慶太は面倒見がよかった。
こんな奴だったっけ、私はまじまじと慶太を見てしまった。
すると、慶太はニヤリと笑って埠頭に身を乗り出した。そして、私の垂れた道糸をがっしりと掴んで、それを海に向かって威勢よく引っ張った。
「何してんだよ慶太。ちょっと、海に落ちるって」
私は慌てて腰に重心を落とす。
「マキさん、はやくリール巻いて。鯖が食いつきましたよ。はやく、リール巻いて」
「いや、だって……、強すぎて巻けないよ」
無理にリールを捩じ上げたら、糸がぷつりと切れそうだ。
「なにいってんですか、鯖の引きは、これくらいすごいですから」
「ほんとかよ、身体ごと海に持ってかれちゃうよ」
「鯖だって死に物狂いですからね」
サングラスに隠れて表情までは読めないが、慶太の声は至って真剣だ。私の腰は埠頭側にへたり、釣竿は海にしなって折れそうだ。
「鯖って、こんな力あるの」
「やばいくらいに、すごいです」
私は右手に渾身の力を込めてリールを巻き上げた。そして、本日まず最初の釣果である、慶太の拳を釣り上げる。
朝六時を待って出航。
とも綱を切った船長が、運転席に腰をかけながら慶太に話しかける。
「よお慶太。また、友達を連れてきたか」
「ええ、まあ」
慶太がこちらを向いて、含み笑いを浮かべた。
私はおかしくて、沖に霞む富士山に笑みを投げ、曖昧な相槌をうった。
「慶太は釣り好きだけど、それ以上に釣らせ好きだからなあ」
「あははは」
かつて楽屋の隅で鬱屈と、噛み付くような視線を誰彼構わず投げつけていた慶太が、いまや海を前にして屈託がない。
「いつから、友達だったんだろう」
「さあ」と、慶太がとぼけた声をだす。「先週でしょ。フレンド登録しましたから」
「まあ、あの頃の慶太だったら、絶対に友達申請なんてしないけどな。ほんと怖かった」
「あの楽屋の緊張感、いま思いだしてもゾクゾクしますよ」
「おれは……、ずっと慶太に嫌われてると思ってた」
沖を目指して遠くなる江ノ島に、「全員が敵だと思ってました」と、慶太が言葉を置いた。
「そんなおれのこと、マキさんだって嫌いだったでしょ」
「ああ、大嫌いだったよ」
そうつぶやいたけど、決してそれだけの感情じゃない。悔しいけど、いつだって自信たっぷりの慶太が、羨ましくもあったのだ。
それにしても笑ってしまう。
あの日、お笑いライブの舞台で楽屋で、慶太と同じ夢を追っていた。それから二十年も経って、まさか、慶太と鯖を追っかけることになるなんて思いもしない。
「ねえ、マキさんにとってお笑いってなんでした」
なんだか慶太らしくもない、それはしんみりした口調だった。
「これは、ある人がいってたんだけど、お笑いはすくいだって、そうおれに教えてくれた」
「うーん。救いですか。ちょっとカッコ良すぎるな」
納得できないとでも言いたそうに、慶太が首をひねる。
私は遠ざかるを江ノ島を見ていた。
漁船の航跡が白い尾を引いている。切り裂かれた海の波頭に、昇りたての太陽が輝いている。
さっきから心がそわそわしてしょうがない。たったいま海に出たばかりなのに、はやくも東京に戻りたい。そしてかつての仲間に連絡をするんだ。きっとみんな驚くに違いない。私と慶太が、二十年の歳月を飛び越えて、たった二人で海釣りに行ったのだから。
5月号 鯖がぐうと鳴いた 2 [前編] に続く