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プロメテウス 岩尾晋作

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 年末から非常に体調が悪く、2週間ごとに発熱していた。ある夜など40度近くの高熱に朦朧としたかと思うと次の瞬間には台所に仰向けに倒れていた。意識が戻ったときにはどこで目覚めたのかさっぱり理解できずにぼんやりする頭で足もとの壁を見つめていた。小さい頃にお盆や正月に祖父母の家に泊まり、そのことを忘れて目覚めたときのようだ。ひどく気分が悪い。壁にもう何年も前から貼ってあるスポーツ選手のポスターが目に入ったときようやく状況を理解した。
 
 他人の意見じゃない 自分の意志が大事 自分で考えることに意味がある
 そしてそれが力になる みんな知ってるとは思うけど
 
 ゆっくり読むと、吐気に耐えてなんとか立ち上がらなければいけないような気がして、床に手を付いて上体を擡げた。倒れたときに思い切りぶつけたようだ。後頭部に鈍い痛みが広がった。全身に冷や汗が溢れた。
 

 
 最初は火だった。
 ガスの通らないワンルームのアパートに火がやってきた。
 
 「トンカチ持ってる? とりあえず電子レンジをぶっ壊すことから始めるといいよ」
 Kさんは精気の抜けた顔をする僕にそう言った。
 「マイクロウェーブって兵器になるんだよ、そんなの食べ物に当てていいわけないじゃない」
 Sさんが追ってそう言う。
 「野菜は口に入る瞬間まで生きているんだよ。人間は命を食べてるってことを知っておいたほうがいい」
 
 ご飯は炊いておかずは冷凍食品やスーパーで惣菜を買ってチンして食べてます。普段何食ってんの?という質問に応えた僕に、夫婦顔を見合わせてからそう言った。
 そしてまた顔を見合す。チンだって、変な言葉だよな、おかしなものって名前がもうおかしいよね、ゲルマニウム温泉とか、げるまにうむ、だぞ、おかしいよな。二人で笑って言う。僕もおかしくなって一緒に笑った。
 
 倒れたこと、次の日に病院に行って採血してもらったら、その検査結果から原因不明のよく知られた難病の疑いがあることを医師から告げられたこと、とにかく体調が悪いことなどをこの年上の友人夫婦に話したら夫のKさんが、食が悪いんだよ、住み込みってわけじゃないけど、飯食いにうちに通ってみな、絶対良くなるから。そう言われた。それから毎日僕はバイトが終わったら青山通りを歩いてKさんの家に向かった。
 
 KさんやSさんが作る料理は常に野菜料理と穀物が一品というものだ。僕は以前にも何度かこの家でご飯をご馳走になっていていつもそうだったから僕の病気に合わせて作っているわけではないことを知っている。野菜と、穀物。全てが有機栽培された素朴な素材だ。それを突付きながら物静かなKさんは一日に少しずつ話をしてくれる。食事中に水を飲まないほうがいい、胃液が薄まるから。それに、水を飲まないほうが良く噛むようになる。農薬を使っていないなら野菜は洗う必要がない、土が汚れだなんて、おかしいだろ、そこで育っているんだから。足を組まないほうがいい、ただの癖だし、背骨も内臓も曲がる。卵は有精卵がいい、無精卵は本当は存在しないものなんだから。牛乳は牛のお母さんが自分の子どもを育てるためのものだ、人間は飲まなくてもいい。
 こんなのもあった。本当に体調が悪いときは、細胞に話しかけろ。
 ほんとよ、私なんてもう半年は足なんか組んでないんだから。Sさんがそう言ってKさんと僕は笑う。
 3人で囲む食卓は、唐突の事態にどうしていいのかわからなかった僕の心をとても安らげてくれた。
 
 食後にはいつもお茶を淹れてくれた。びわ茶や桑茶、穀物コーヒー、お腹にいいから、と葛湯や梅湯を作ってくれることもあった。どれも小さいとき飲まされたことがあるものばかりで僕は懐かしさを抱きながら改めて熱いお茶を啜った。
 
 
 その夜、お茶を飲んだ後、僕は糸を紡いだ。職場の先輩がスピンドルを貸してくれ、それを使って綿を糸にする。綿は僕の家のバルコニーで育てたものだ。糸に吊り下がって回り、その重みで糸を作っていくという原始的な道具は、しかし驚くほど便利だ。道具ってすごいね、指から糸を吐き出しているみたいだ、と僕は言った。
 「そうでしょ。電子レンジは道具じゃないでしょ」
 とSさんから返ってくる。指先で繊維が渦を巻き絡まっていく感触を直に味わうと、言いようのない説得力があった。
 糸を紡ぐっていうのはいいんだよ、ガンジーも糸を紡ぎながら抵抗したんだ、Kさんがギターを弾きながらそう言った。
 
「人間には火が必要なんだよ。大昔から火は人間のそばにあったんだ」
 僕が帰るときKさんは押入れから大きなカセットコンロを取り出し、あげないけどこれ使いなよ、火って全部借り物なんだよ、そう言って僕に渡した。
 
 最初は火だった。
 こうしてガスの通らないワンルームのアパートに火がやってきた。
 
 

 
 相変わらず体調が悪いし食欲もなかった。食べ物が制限されていて消化の悪いものは食べられない。小さな炊飯器でおかゆを作るのは気が進まなかったし夜はKさんの家で自然食を食べているので朝や昼にレトルトのおかゆを食べる気も起こらなかった。それに、Kさんがくれた野菜がいくつもある。電子レンジの電源コードはすでに抜いた。ドライバーを使って台所の蚊取り線香のような電熱線を取り外し、そこにカセットコンロを置いた。ガスをセットしつまみを回す。カチッ、ボッといって青い光の円ができる。上昇気流が額をかすめて天井へ駆け上る。つまみを戻すと幻のように熱は消える。
 火だ。
 ひとりつぶやいた。土鍋に米を入れ水を張ってもう一度コンロのつまみを回す。再び炎が猛りそれを諌めるように土鍋を上に置く。すると炎は土鍋の底を包む手になる。きっと目に見えないものも包み込んでいる、そんな気がする。
 
 雑炊を作るために味噌を買う、塩を買う、醤油を買う、食後の果物を買う、どれもきちんと信頼できるものを買う。自分で選んだものに自分で火を通し自分で味をつけ、食べる。省略できるなら全て省略していたことの意味を考える。何を食べるのか、何を食べたのか、考える。きっと命を食べている、たしかにそう思える。
 
 遠い景色をいつも思っている自身の足もとのくさぐさの不安定感、あのいくつかの欺瞞のひとつがくっきりと見えてくる。遠さを知っているもの誰もが味わう薄弱な意志による苦悩、羞恥の一面をしっかりと捉える。
それは意志で抑えつけることはできない。実は、そうしようとしているうちはまだ意志が存在していないからだ。一本の木に拘泥して森を見ないように、その人は問題を捉えることはない。意志とは木に対峙する肉体ではなく、森を時間にも空間にも覆う季節だからだ。木々を移ろわせ成熟させる季節であること、その者だけが遠く行く。
 そういうことがやっとわかった。
 
 
 その後、体調はいい。医学的にも安定しているようだ。原因があって、それがもう解決された、そういう風には考えていない。ただ、詩人のこんな言葉を思い出すだけだ。
「おそらく恐ろしいものは、深くつきつめれば、すべて私たちに助力を求めている、途方に暮れたものなのです」
 
 
 食事に行ったとき、俺、気付いたんですよ、とSさんに話した。
「外見に現してしまうとき、その思いが充分に強いとは言えないのと同じように、食に出ない思いもまた、充分に強いとは言えないようですね」
「何言ってんのか全然わかんない」
「だから例えばチェ・ゲバラを本当に尊敬していたらチェ・ゲバラのTシャツは着ないでしょう? それと同じように本当に強い思想は食生活を包摂しているんだなってことです」
「わかった。You are what you eat.」
 完璧だった。
 
 

 
 次は淡い青色の封筒。
 とてもいい香りがした。
 
 中には「味噌とざらめの角煮」のレシピが入っている。スピンドルを貸してくれた先輩が手渡してくれた。金木犀の香り漂う夕暮れ道を水に溶かして掻き混ぜて、しばらくするとこんな匂いが浮き上がってくるのかも知れない、そんな光景がとりとめもなく浮かぶ。
  
 材料 豚ばら肉、ねぎ、生姜、大豆、ざらめ、麦焼酎、醤油、味噌。大豆だけ買って家に帰る。あとは全部家にあった。
 レシピには、豚肉をフライパンで焼く、茹でる、煮る。大豆を水に浸す、炊く、豚肉と茹でる、という作業を細かく書いてある。一緒に煮るだけでもできそうだけど。そう思ったがフライパンを取り出した。
 豚肉を適当なサイズに切る。煮崩れ防止のためにたこ糸を四辺にかけて十時に結ぶ、と書いてあるがたこ糸はなかった。一瞬、手撚りの綿糸が頭に浮かんだがあの糸は使い捨てのようなことに使うにはあまりにも不向きだ。そのままフライパンに載せて火をかける。6面全て焼き色が付くまで焼く。
 You are what you eat.
 フライパンから取り出し鍋に移す。鍋に水を注ぎ、いったん水をながしてから、豚肉がかぶる程度に水を入れ、ねぎと生姜を加え火にかける。
 You are what you eat.
 沸騰したら弱めの中火にして、アクをすくいながら4560分ほど茹でる。
 ベッドに座って絵本をぱらぱらめくる。
 You are what you eat.
 ん、そうか。You are what you see. You are what you think……act……write……be……
 豚肉に完全に火が通り箸で刺せるくらいの柔らかさになったらゆで上がり。携帯が鳴る。
 メール1件 「こないだもらったシャーペンの芯一本もなかったよ」
 返信    「入ってるはずですけど。ところでYou are what you eat.て実存主義ですね。ここにきてサルトルですよ」
 ゆで上がったら豚肉を取り出し、水を張ったボウルに入れる。豚肉の周りについた脂を洗い流す。
 携帯が鳴る。
「実存主義よりシャー芯だ。サルトルじゃ線引けない。芯がなければシャーペンはただの筒だ」
「まさに実存が本質に先立ってますね。物においてさえも。今日は鉛筆で」
 豚肉を鍋に戻し、豚肉がかぶる程度に水を注ぎ強火にかける。
 携帯が鳴る。
「もう1着コート作ってる」
「俺料理してる。造形は自由に処せられた実存を可能性へ投企することで……」
 沸騰後、ざらめ、麦焼酎、醤油を加える。弱火にし、そのまま煮込む。砂糖醤油の香ばしい香りがする。豚肉は角煮というにはまだまだ固い。大豆を煮なくてはいけないがコンロはひとつしかない。しかたがないので炊飯器に大豆と水を流し込んでスイッチを入れる。さっき豚肉を茹でたゆで汁はスープにもなるようだ。亀戸大根と小松菜があるからそれを入れよう。炊飯器から湯気が出だしたので醤油と砂糖を少量加える。かぼちゃがあるので切って鍋に入れることにする。鍋は沸騰しながら豚肉を柔らかくしている。台所を離れてもう一度レシピを確認する。うまくできるだろうか。甘さ加減は、炊飯器は大丈夫だろうか。台所に戻ってフライパンとボウルを洗う。かぼちゃを切る。まな板を拭く。台所はもうちょっと広いといいな。炊飯器は床にしか置く場所がない。炊飯器を開ける。スプーンで大豆を掬って味見をする。歯ごたえがあるが充分に柔らかい。そのまま豚肉の鍋に移す。かぼちゃも入れる。蓋をしてしばらく待つ。炊飯器を洗って米を入れて再びスイッチを入れる。豚肉を突付く。ご飯が炊き上がる頃には出来上がるだろう。

(了)

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岩尾晋作(Iwao Shinsaku)

カモシカ書店店主
1982年生 大分県大分市出身

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ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)1577年6月28日 – 1640年5月30日 ヴェストファーレン・ジーゲン生まれ

バロック期フランドルの画家。
『フランダースの犬』において、主人公のネロが見たがっていたアントウェルペン大聖堂の絵画である『キリスト昇架』『キリスト降架』の作者として有名。ネロが祈りを捧げていたアントウェルペン大聖堂のマリアもルーベンスが描いた『聖母被昇天』である。