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於G郡無言坂 5 匠高岳

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 僕は案能との一連の挿入行為の際にとうの挿入行為の空しさと滑稽さ=非快楽性について語り、あるいは回想しておいたにも関わらず、性懲りもなく性的なるものが、たとえ快楽性が剥奪されたのだとしても、追ってくるその力能にはただ驚くほかない。性的なるものはその空しさと滑稽さとが明確に語られた時にこそ、力を喪い追放されたかに見せかけて僕らの裏側から遙かに強大な力をもって帰ってくるものであるのかもしれない。おそらく登紀子さんはフェラチオが下手くそであることを宣告された時にこそ、最も性的なるものに憑りつかれ、それを与えなければならないという義務感にかられたに違いない。それは空しさと滑稽さとを自覚してもなお、形式的な行為を譲り渡し続けなければならない呪いなのである。
 はたして語られ、あるいは回想されている僕がいかなる状態であるのか、もはやいちいち描写する必要はないだろう。登紀子さんの言うとおり、この閉ざされた別邸で行われていることは永遠のコミュニケーションであって、その過程において僕が眠っているのか、食事をしているのか、シャワーを浴びているのか、排尿排便をしているのか、思考しているのか、拡張訓練を受けているのかといったことはどうでもよいことなのであり、あなた、あるいはあなたがたはこれら例に挙げた行為のいずれかを任意に設定してくれればよい。
 ただしここで例にあげた拡張訓練だけは説明しておいた方がよいと思う。それは簡単に言えば僕の尻の穴を拡張する訓練の言いであって、案能が、つまり三津也ことミッちゃんが――僕はこれより一連の挿入行為を行った相手のことを登紀子さんにならって「ミッちゃん」と呼びたいと思う、なぜなら僕はわずかな時間的経過を享受しただけにも関わらず彼と濃密な、愛ある友情とも呼べる関係を結んだのであり、故に彼に対して「ミッちゃん」なる愛称を用いる権利を有していると考えるからだ――アダルト・ショップでそのキットを購入してきて自ら為したことと同じことを、登紀子さんの主導によって、いくつかのサイズの棒状のものを尻の穴に順次差し入れていくことを行ったのだ。登紀子さんの指によって潤滑剤が塗りたくられ、棒状のものが挿入される。この時僕は淡々としており、恥じらいの気持ちも、性的興奮もなく、従ってペニスが勃起することもないのだった――これがはたして僕の先天的な心性に由来するものであるのか、ある時間間隔をおいて投与される薬物によるものであるかははっきりとしない。ただ僕はその訓練によってある満足の予感が、すなわち僕がミッちゃんと同様の訓練を行うことによってとうのミッちゃんと同化し、登紀子さん―僕―ミッちゃんという繋がりができあがるという形式の生成への満足の予感がするのを抑えることができず、その意味で僕は訓練中絶えず微笑を浮かべていたし、登紀子さんも同様であったろうと想像する。訓練を終え、尻の穴から取り出した棒状のものには潤滑剤とともに血液が付着していることがあった。僕はそれを、躊躇することなく舐めあげるのだった。
 閉ざされた別邸において、確かに僕はその時間経過の多くを――これはもはや語義矛盾であって永遠の中に大半とそれ以外を設定することに何の意味があるのだろう――敷かれた布団の上で夢うつつのままに過ごしていたものの、決して外の空気を吸うことの許されない監禁状態にあったわけではなく、しばしば――それがもはや何度であったことも述べることには意味がない――登紀子さんに伴われて外出することがあったことも語り、あるいは回想しておくべきだろう。
 例えばそれは日の明け切らぬうちの庭の散策であって、力の入らない僕は登紀子さんに寄り添いながらゆっくりと、凍てつく大気によって頬は焼けるような感覚を覚え、白い息を吐き、飛び石に這った苔の霜を踏みながら、いつまでも上がることのない太陽と、沈むことのない月を上空に仰ぎつつ、池の縁へと並び立ち、覗き込む。水面には氷が張り、その下には淀んだ濃緑色の底なしと思える埋められた空間がある。それでもなんとなく眺めていると、不意に水面に向かって淀んだ水の色よりもさらに暗黒の巨大な物体が浮上してくるのであり、それに対して僕は言いしれない恐怖心を覚え、それまで寄り添っていた登紀子さんにしがみつき、その豊満な胸に顔を埋め、浮上してくる物体を見ないように、いや、そう意識する以前に視線を閉ざしているのだった。「大丈夫、あれは山椒魚」と、登紀子さんに言われても僕の怯えは収まることがなく、しがみつくことを止めることも――そうでなければなぜかこのままはるか下方へ落下していくように思われた――なかったのだ。
 例えばそれは深夜に行われる盆の踊りの見物であったりする。G群では盆の時期になると集会場に櫓を組み、そこを中心に盆の時期3日間を祖先の霊を迎え、歓待し、送る踊りに明け暮れる習わしがある。まだ陽のある内や夜のふけ切らぬ内は――この盆踊りはこの国内でもなかなかの知名度を誇っており、はるか遠くから見物にやってくる者も少なくはないのであるが、そんな彼らに対してばかりであるとは言えないだろうが――どちらかと言えば威勢の良くて華やかな踊りがなされるのだが、深夜のある時点がやってくると阿吽の呼吸で祭囃子の音が哀しげなものに変わり、踊る者の顔つきも皆一様に沈んだものに変化すれば、その踊りも下方への手つきの流しを大半とするものへと変貌する。そんな音が静けさを呼ぶ踊りを眺めていると、どこからともなく「登紀子ちゃん、ミッちゃんも踊りに入らんね」と声がかかる。この時も私は恐怖心を覚え、登紀子さんの胸に顔を埋める。「やめとく。これミッちゃんじゃないし」、「そんな嘘言わんと、ミッちゃんじゃ」、後はふふんと鼻で笑うと登紀子さんは怯える僕を胸に抱いたまま、いつまでも終わることのない祭りを眺めているのだった。
 
「穴は完成した。はたしてこれが本当に拡張訓練の日々という時間経過によるものであるのか、あるいは実際にははじめから開いていた穴であるのかは分からないし、どうでもいいことだけれども、とにかくあなたの尻の穴はその名にふさわしく完全な穴になり、常時開きっぱなしのトンネルが開通した。今ならばこの、私が本家より盗み出してきた新たなる社会=経済機構における優位性のシンボルである骨を挿入し、汚すことも可能だし、あなたも私もそれを早く決行したくてうずめいているところだ。しかしここでミッちゃんの――もはや何度あなたに語ったことか、あるいは語っていないか知る由もない死について振り返っておきたいと思われる。ミッちゃんはあなたとの一連の挿入行為を、すなわち社会=経済機構における優位性のシンボルである骨を汚す行為をした翌日にはこのG群に戻り、父、母、兄ら、私なども含めた親族の前で自分の行った行為を一切の感情的な興奮もなく、理路整然と語ったのであり、それによる親族らの動揺は相当なものだった。その呪術的な力によって一帯での優位性を勝ち取り続けてきたと信じている者らは――男たちは怒号を浴びせかけ、私を除いた女たちは家の焼かれた者のように泣くのであって、その怒号と泣き声とのふたつの音律が本家の広大な一間の中で錐もみしながら竜巻となり、いよいよその空間をふっとばす臨界までに達した時、父は床の間に飾っておいた真正の小太刀を手に取り、鞘から刃を抜き、ミッちゃんに対して斬りかかろうとしたのだ。それを私ははるか遠く、望遠鏡を通して見る光景のような心持ちで眺めていて、父の一連の抜刀から斬撃に至るまでの動きも、それを確かに視線の対象としつつも決して動こうとしないミッちゃんも、練達者ふたりによる武道の組み手のようにゆったりとした光景に私には見えたのだが、次の瞬間には私は大声を、すなわち『逃げて、ミッちゃん』と声をあげていたのだ。それに触発されたのか、あるいは――私はあの時冷静であるような気がしていただけで実際のところ冷静ではなかったのか――私がミッちゃんに体ごとぶつかって逃げることを促したのか、とにかくミッちゃんは障子戸を蹴り倒し、裸足で庭へと飛び出したのだった。『逃げろ、ミッちゃん、裸足でそのまま、裸足のままにあなたは青年になるんだ」』と、私は叫んでいたかもしれない、けれどもそこで思ってもみないことが起こったのであり、その一瞬の光景に誰もが一言もなく、ひとつの動きもすることができずただ眺めるばかりだった。何が起こったか。庭に出たミッちゃんの前に下肢のみの怪物が出現し、鉢合わせてしまったのだ。全長2メートル程の怪物にぶつかり転ぶミッちゃんを後目に、下肢のみの怪物はさっさと私たち一族の視界から消えてしまった。それはあまりに意外な、社会=経済機構における優位性のシンボルである骨を汚された一族に対して与えられし解決法であったことか、それを汚したとうのミッちゃんこそが次の社会=経済機構における優位性のシンボルとなってしまったのだから。どれだけの時間が経過しただろう、誰ともなく声をあげて笑い始めた。それははじめひとりのひっそりとした笑いであったが、しだいに大きく、多数の笑いとなり、いつの間にか私自身も大声で泣き笑っているのだった」
 G群と呼ばれる一帯には伝説があることとされていて、すなわち古来よりこの一帯には巨大な下肢のみの怪物が出現し、それに鉢合わせた者には幸運が――ミッちゃん流の言葉を使うならば社会=経済機構における優位性が――保証されるというものであり、案能一族もその歴史過程のある一点において、誰かがその怪物に遭遇したのであり、以来、確かに案能一族は様々な社会=経済機構の歴史的変容にも対処しつつこの一帯において優位性を確かなものにしてきたのだ。言わずもがな、その怪物が実在するのか、本当に幸運を保証するものであるのかを問う必要はなく、少なくともこの案能一族を中心にこの一帯に住まう人々がそれを信仰していることが確かなだけで十分なのだ。それは勿論のこと、ミッちゃんだって例外ではない。
「しかし今になって過去の言動を振り返れば、あの時私が『逃げろ、ミッちゃん』と言ったのは、結局のところある信仰からまた別の信仰への転向、点である信仰から網の目状に広がる信仰への移行、見返りと代償との取引が幾人もの人間に渡るためにもはや信仰とは呼ばれなくなった信仰への跳躍を促しただけに過ぎないのかもしれず、いずれの信仰という呪術―商業的システム体系に入ったところでミッちゃんは代償の側に、もっと強い言葉で言ってしまえば供犠される者の側に立たされ、またそう運命づけられていたかもしれない。あなたにもきっと話したであろうことを私は確信しているが、ミッちゃんの頭の中では絶えず『シコロス』という言葉が反響しており、それがまったくの文脈のない場面で口より音律として漏れて出してしまうこともしばしばであり、それを私たち年長の親族たちは『しっこする』の変形であると解釈し、後になってミッちゃんが自分自身を反省的に眺め始める年になってからは彼自身の解釈を、すなわち『私を殺す』という解釈を聞かされたものだが、今になって考えてみると、あの言葉はミッちゃん自身に対して向けられたメッセージではなく、ミッちゃんという身体器官を介し、その親族、特に父母へと向けられた宿命を表すメッセージではなかったのかと思わずにはいられない。それはそう解釈する私自身だって事件=具体的な事象が起きた後に強引にそれを宿命化しようとするこころの働きに促された行為であることを承知しているものの、『シコロス』を『子殺す』、つまり『お前たちの子を殺す』との下肢のみの怪物からの、あるいは下肢のみの怪物を遣わす何者かからの、それとも殉ずる他ない運命そのものからのメッセージであったのかもしれないという解釈の強迫を押し退けることがどうしてもできないのだ。この時『シコロス』を『しっこする』と解釈し、その幼さに対して微笑みを浮かべていた私たちこそ嘲笑されるべきであって、その社会=経済機構における優位性に対する代償としてそろそろ新たなる供物が必要であることに思い至る者がひとりもいなかったということは、単に過去の供犠される者の骨を特別にしつらえた棚に供えて毎日の祈念さえしていればよいのだと考えていたその惰性こそが笑われて然るべきだろう。そう、あの骨を私たちは下肢のみの怪物の骨と便宜上、いや言葉が違う、良心の疚しさを隠すために呼んでいるのだけれども、さきほども話したとおり――もはや永遠のコミュニケーションの中に入った私たちにとって『さきほど』がどの時間的位置を指すのかなんて意味のないことだけれども――下肢のみの怪物はただ現れてはいずこかへと走り去っていく存在なのであり、あの骨は怪物との遭遇者、その身体自体が社会=経済機構における優位性を保証するシンボルとなった者の遺骨なのだ。遭遇者の亡骸を焼くと、巨大な、見ようによっては――それをミッちゃんはそのように見たのだけれども――ペニスにも見える骨が必ず残される。ご覧、私がさきほど本家から持ち出してきたお骨。煤のひとつも、焼き崩れのひとつもなく、石膏によって制作され美的に完成された身体像の一部であるかのような美しさ。人体のどこの骨の部位であるとも科学的には指摘することができず、しかし遺骸を燃やした後に残される、ミッちゃんの解釈によるならば汚されるべき形をしたお骨。これはミッちゃんの骨なんだ。ミッちゃん自身が下肢のみの怪物に遭遇するという、あまりに意外な、それでいて考えようによっては非常に合理的な解決によってもたらされた感性的な浄化作用は、すなわち行為としての止まない笑いは、しかし自身が嫌悪し逃走を試みた被保護のシンボルにとうの自身がなってしまうという皮肉なものとなり、それに対しあるいはミッちゃんは屈辱を、あるいは畏れを伴う崇高さを感じたのかもしれない。自分たち一族の社会=経済機構における優位性の継続を保証され、過去のお骨の汚されたことなどまったく忘れてしまい安堵の内にそれぞれの寝室へと眠りについた親族らと異なり、ひとり爛々と目を輝かせた――これは私の想像に違いないのだけれども、はっきりとしたビジョンが見えることも確かなのだ、その中でミッちゃんの目はなぜか言葉の通り発光している――ミッちゃんはあの怒号と泣き声とがうねりを巻いた居間へと忍びこみ、床の間に飾ってあるあの父が斬りかかろうとした小太刀を自ら手にして、おそらく何の躊躇もすることなく、従って私にとってもあなたにとっても悲しいことだけれどもこの世界の何ものに対しても未練なく、割腹自殺を遂げた。吹き出た血液は少なかった。花を落とした椿のように」
 確かに僕はミッちゃんが未練なく――無論これは登紀子さんの想像に過ぎないのだが――死という、私たちには如何とも想像しがたい仮の言葉を与えられた位相へと移行したことに悲しみを覚えないではなかったし、またその死の方法に驚きを感じたことも確かなのだけれども、それ以上に羨望の情がわき起こったことも語り、あるいは回想しておかなければならない。ミッちゃん流に言う社会=経済機構が網の状に広がった信仰体系に他ならないことは何ら珍奇な考えでも何でもないが、それに対し得意げに了解したような顔をした者が得てしてその了解行為によってあたかも信仰体系の外側に出たような錯覚に陥っていることほど笑止に値することはないのであって、私たちはその生存過程において信仰体系から一切外側には出られないこと、むしろ信仰体系こそがすべてであり必要不可欠であることの哀しみをこそ了解しなければならないのであって、それに抗するわずかな手段のひとつとしては死という不可知な、領域とも言えぬが仮に領域とでも呼んでおく他ない位相へと跳躍することしかなく、社会=経済機構すなわち信仰体系を嫌悪するミッちゃんが――これは僕の想像であるとともに確信であるのだが、きっとミッちゃんは自身がこの地帯の信仰に止め置かれる宿命を知らしめられた時に、同時に、やはり生存過程においていくらもがいても信仰体系から逃れることは不可能であることを象徴的かつ具体的な事件によって誰よりも身をもって真に了解したのではないだろうか――死と呼ばれる位相へと跳躍したその実践に憧れとともに嫉妬に似た感情を覚えずにはいられない。強調しておくが、ミッちゃんが死によって信仰体系より外側に出ることができたかどうかが問題なのではなく、その可能性へと実践したことに感情が動かされるのだ。僕はあの朝ホテルでミッちゃんの不在を認識した時にそれを当然のこととして受け取ったのであるが、今こそ教える者としてのミッちゃんに再び逢いたいという気持ちが溢れる。
 また僕は「シコロス」という言葉の解釈にも拘らざるを得ず、登紀子さんのような強引な解釈が許されるのであれば、僕だってさらにそれを、特に過剰なる自意識へと結びつけて解釈することだって許されてしかるべきだろう。すなわち「シコロス」がミッちゃんへのメッセージではなく、他者、ここでいうなら語り、あるいは回想する僕に対するメッセージであるとするならば、「シコロス」→「詩殺す」であって、この語り、あるいは回想の非詩的言説性を指摘あるいは批判している、いや、そもそも僕の語りあるいは回想が非詩的にならざるを得ないことを予知あるいは駆動させているのではないだろうか。つまり「シコロス」とはミッちゃんから語り、あるいは回想する僕への励ましなのだ。反詩的たれ、特に通俗的な詩的言語こそ殺せ、すでにその破壊力を喪った「詩」という衣装を纏った詩をこそ破壊せよ、その貧しさを自覚することなく豊穣だ豊穣だと虚栄に浸る詩に反逆せよ、常に「詩を殺し」続けることによって真に詩的たれ。
 
(つづく)

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匠高岳(Takumi Kogaku)1982年生まれ。愛知県出身。

批評性を強く意識して小説を書いています。
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