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於G郡無言坂 4 匠高岳

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 目覚めると翌日を迎えていた。案能の姿が横にないことによって、またその姿がベッドを映す姿見にもないことによって、案能がいくつかの機能的ボックスに分かれたこのホテルの一室からすでにいなくなっていることを確信する。シャワーを浴びて身支度を整えると、僕も早々に部屋を後にし、同じホテルの喫茶スペースで朝食をとる。そこではじめて携帯型端末機器を取り出すと――はたしていつ自分の仮想空間上のアドレスを伝えたのか定かではないのだが――案能から物質性の相対的に希薄な手紙が届いているのだった。
 
――あなたは微笑みを浮かべ涎まで垂らしながらまったく無警戒に眠りに落ちていて、その姿を見た僕は自身の発言を一部訂正しなければならないことに気がついた。僕はこのような意味のことを、つまり、目的ではなしに手段としてのみ使用したにも関わらず、その役割を嫌悪も喜びも伴わず受け入れたことによってあなたを真から冷えきった人間だと言った。しかしいつまでも眺めていられるあなたの安らかなる寝姿によってそれはまったくの逆ではないか、あなたはあの一連の挿入行為の最中も、その前後においても感情の発露がなかったにも関わらず、その内においては非常な満足があったのではあるまいか。とするならば、あなたは「真から冷えきって」などなく、ここで次のような比喩を使わせてもらうならば熱伝導性の低い物質などではなく、逆に熱=感情、あるいは僕の意志すらも容易に伝導してしまう可変性の高い人物なのではないか。しかしこの問いは勝手にあなたを評価する言葉を吐いた僕にとっての反問であって、おそらくあなたに尋ねたところで正解など返ってはこないだろう。特に、あなたのように饒舌ではなく口数の少なさによってひとと対峙する人間からは決して。決して気の利いた正解など返ってくることはないだろう。
 僕はこれから僕の一族が石油の販売チェーン店によってその一帯を支配する地へ向かう。僕は盗み出した社会=経済機構の優位性のシンボルである骨を形式的には返却し、けれどもそれはすでに汚れてしまっているので、実際には返却不可能であることを話すつもりだ。このことによって僕は「私殺す」――君は半ば眠りつつ聞いたこの言葉にまつわる話をどこまで覚えているだろうか――という強迫観念から自由になり、未成年からの脱却の第一歩を踏み出すことができるだろう。
 僕は昨夜眠らずにいた。眠らずにいて、闇夜が曙へと移行していく時間の経過を堪能していると、自然と鼻歌が流れだし、時に手拍子を打ち口笛を吹くまでに高揚した気分になってしまった。何も身に纏わずに日の光に曝された瞬間の爆発的な浄化感覚といったら!――
 
 その翌日から――それは案能が亡くなった日であるのだが――僕には発声機能における障害が現れたのだった。僕が発話しようとすると、腹筋が収縮運動をするばかりであり、それでも無理に声を出そうとすると、短い呼気の連発とともに、生まれたばかりの鳥類の鳴き声のような、あるいは長い時間に渡って誰も滞在することのなかった部屋におかれた木製の机や椅子が自然に軋む音のような、それとも斬首され転がった頭部がかすかに喉部に残った酸素を排出する音のような、声と言うよりは音漏れがするのだ。それに伴って案能が診断し予告したような失調が、いわゆる社会のみならずあらゆる外界に対する無関心が、いや、というよりは外界に接せられている僕という身体器官は確かにあるにも関わらず、またその接面より伝わる刺激というものもあり、それがいくらの強度であるのかあたかも予測値としては理解できるにも関わらず、自分の側にある刺激の受容体ともいうべき深奥の揺り動かしがない、どころかその深淵自体がとても希薄化しているという事態が起こったのだった。僕は本当に途方に暮れてぼんやりとしてしまい、ふと意識を逃してしまうと途端にある時間からある時間へのいくらか長い距離を時もなく飛躍してしまっているかのような感覚に曝されることもしばしばだった。僕は一日の多くの時間をその対象の定かでないものを見つける探訪に費やすことになったのである。
 父を人生の早期に亡くし、残された片親のみによって育てられた者にとって、自己の危機を伝えることにはそうではない人間には想像もつかずおそらく滑稽ですらあるであろう心理的抵抗があるものだ。しかも今回の場合発話の不可という、感覚としては自分の危機とは思われないが確かにそれを自分の危機としてつなぎ止めておかなければいよいよその危機は重篤化してしまうに違いないとうの込み入った危機を、発話不可能な状態において言語化し、他人に伝えなければならないというのは、疲労や困難と言うよりも、壮大な空しさを覚えるものだ。しかし共に居住し、衣食住、物質的な援助を受けて高等教育機関へと通わせてもらっている身としてはその事実を伝えないわけにもいかず、また早々にその異変が察知されることによって相手より先に質問が飛んでくるという事態もむしろ――その質問の矢の的がどうしても霞んでいるという感覚によって――忌避したいという、思惑というよりもはや条件反射に似た判断があり、僕は筆記によってその相手に自分の――拘泥しているのかもしれないが、この時僕はあたかも自己の症例を他人のそれと引き写しているかのような感覚を覚えた――発話不可という状態を伝えたのであった。実の母親である相手はそれを読みとるといくつかの質問をし、さらにその返信を読みとると、驚きや落胆はなく寧ろ嬉々とした表情を浮かべ、ちょっと待っていなさい、と、自室にある書棚から分厚い書物を持ってきてそれを手繰るのであった。実の母親である相手は西洋医学よりも東洋医学を、それよりもさらにレメディと呼ばれる呪術的療法を信仰しており、自宅には無数の種類のハーブとそれを配合して砂糖でくるんだ菓子=治療薬を生成する実験場まで配置されていて、その呪術的療法の研究と実践とを人生の喜びとしている実の母親である相手にとっては、予想したとおりではあるが、僕の症例は一種の研究対象なのであった。僕はその日以来1ヶ月以上にわたり自宅療養を命じられ、1日に3粒の色付きの砂糖菓子=治療薬を飲む生活を送ることになったのである。ひとは、なぜ僕が自分自身の足によって精神科なり心療内科なりへと赴き、相対的に信頼度の高いとされる治療を受けようとしなかったのか、と、不思議に思われるかもしれない。しかしこれまでに強調してきたように、どうも僕にはこの発話不可という状態が――それを危機として認識しておかなければそれこそ生死に関わる危機と結びついていることを知りながら――どうしても自己の危機として捉え切ることができないのであった。したがって、僕は大学に行くことも、また社会=経済機構への参入のためのカリキュラムにも参加することなく、従ってその参入への決定的な遅れを確かなものとしながら、自宅にておおよそ透明な生活を送っていたのだ。
 
 それは1ヶ月を過ぎ、もう少しで2ヶ月になろうとした頃、言ってしまえば案能が亡くなって四十九日を過ぎた頃のことだ。僕の携帯端末機器に物質性の希薄な手紙が届き、そこには案能が亡くなったこと、ついては案能の望みを成就させてやりたいので彼の一族の支配するある地帯、G群まで来て欲しいとの要請が、案能の姉を名乗る人物によって書かれているのだった。案能が亡くなったという事実を読んだ時、僕は動揺しただろうか、おそらくしなかったのではないかと思われる。僕の中ではすでに案能は消滅、あの結果的に最後に受信することになった物質性の希薄な手紙にあった言葉――「爆発的な浄化」――を読んだ時から、僕のイメージにおいて案能は真正でまばゆい光によってその輝く身体は数限りない粒子へと拡散してしまっていたからである。案能の劇的消滅は僕にとって哀しみではなく寧ろ喜びであった。しかし、この物資的に希薄な手紙に記された言葉が、つまり「案能の望みを成就させてやりたい」=「未だ案能の望みは成就されていない」という思いもよらない状況が、僕の喜びに影をさしたのであり、また同時にたった一日の間に起こったことであるにも関わらず数十年の経過にも匹敵する濃密な関係を結ぶ一夜を過ごした友人の死が未だ完結していないという事実が危うく完全なる透明となりかけていた僕というものを呼び起こし、行動を起こさせたのである。つまり、僕はしばらくの静養により萎びた身体と、未だ鬱積するこころにも屈することなく、自己の自由となる貨幣をすべて持ち、案能の一族が支配する地帯にあるというG群へと向かったのだった。
さきほどから度々「この国」と語り、あるいは回想している具体性を欠いた言葉が、つまりそれがいかなる空間的領土を有し、いかなる歴史を有し、いかなる社会=経済機構においてあり、いかなる人々によって構成されているのかが不明なままに、よって僕がどの地点から、「案能という一族の支配する地帯」と呼んでいる、しかしさきほどの理由から決してその所在の明らかにされることのない地点へと移動しているのか――あるいは実のところまったく一ミリたりとも移動などしていないかもしれないという疑念も依然として残るのであるが――その移動手段は何か、道中に一体どのようなことがあったのか、いかなる風景の移行があったのかといったことを改めて語り、あるいは回想する必要はないと判断する。ただ僕は「案能という一族の支配する地帯」におけるG群と呼ばれる場所に確かに到達したのであり――確かにその地帯に近づくにつれ「案能石油」と書かれた看板を掲げた石油販売店が多くなっていったことだけは付け加えておいてもよいだろう――そのG群における任意のある一点において案能の姉である登紀子さんに出会ったことだけを伝えておけば十分である。
 注目すべきは視線であった。案能と同じく一重の巨大な瞳から発せられる視線は強く直線的であり僕を刺し貫くかと思えば、次の瞬間には大蛇に似たうねる曲線へと変貌し僕の全身に絡みつくのであり、さらにその視線の効果が案能のそれよりも高い所以は登紀子さんの肉体のグロテクスさにあるのであって、薄いセーターとジーンズの張り付く肉体の描く曲線は美しい豊満さを表し、その重みによって単に下降するのみならずハの字に垂れ下がる乳房が、無論くびれなど作ることなくかといって寸胴というわけでもなくわずかに盛り上がった脂肪の作り上げる腰回りのラインが、その盛り上がりが逆転して果てもなくひとを飲み込み続ける渦巻きを連想させる臀部が、あたかも数体におよぶ天使どもに乳を与え続ける女神――僕が彼女の放つ香の中に乳の匂いを感じたのは錯覚だろうか――を造形し、その視線に人ならぬ威厳と慈愛とを含ませるのだった。
 「いわずもがな豊かさと錯覚し続けられているその言語の貧しさは、いやそれを豊かだと自覚的に錯覚し続けられることによって貧しさを脱却せんとする意欲を失われ、見捨てられた言語の哀しみは、例えば一人称の選択ひとつとっても明らかであって、自分を自分と言うべきだろうか、あたいとでも言うべきだろうか、それとも奇をてらってボクとでも言うべきなのだろうか、勿論選択のしようがなく私は私のことを私と呼ぶしかなく、せめてもの抵抗として私にできることはと言えば、語尾をその凡庸なる用法に任せるのではなく、つまり『ですわ』、『ですね』といった私の女性性を女性性として固定するためだけに用いられる惰性に委ねるのではなく、かといってあたかも男性的な言葉遣いとやらをするわけでもなく、決してそうすることは叶わないのだけれどもだからといって放棄することをしようとは思われない――ここであなたがたの頭にはひょっとすると『中性的』という言葉が浮かぶのかもしれないがそうではなく――自然とは言えない話法によって私はこれより話そうと思う。なぜならあなたが――ここで私には多少の選択肢があるはずなのだけれどもあなたのことをあなたと呼んでおきたいと思う――電子メールによって教えてくれたとおり発話不能の状態にある以上、この独立した空間である案能一族の別邸において発話できるのは私一人であり、この空間の豊かさと自律性は私に託されているのだから」
 一族の別邸は登紀子さんと待ち合わせをした場所から長い坂をあがったところにある。それは戦前――後に聞いたところによれば案能一族が材木商としてすでにこの地域一帯を支配していた頃――に建てられた平屋の日本家屋であり、ところどころ機能的な改装がなされているものの、その外観はさほど変わっていないとされる、いずれも絢爛を究める植木や置石、池などを配置した広大な庭の奥に鎮座しており、そこはちょうど崖の縁に当たっているために僕らがあがってきた長い坂とともにG群の一帯を見下ろすことができるのだった。
 登紀子さんと僕との――案能とは異なる――長い時間経過を伴う共同生活を一言でまとめるのならば、それは睡眠の享受と拡張訓練の日の連続だと言うことができる。登紀子さんはすでに睡眠剤と精神安定剤を用意しており――この地域一帯を支配している一族の者であるならば子飼いの医者のひとりやふたりくらいいるわけだ――それを与えられた僕は自身の深淵にある何かが希薄化していくのとはまた異なる状態、つまり自身の深淵にある何かが絶え間のない微動を強制され、その揺れによってそれ自身を麻痺させる作用を強いられた状態にあったわけであり、僕は一日の大半を広い畳敷きの日本間に敷かれた布団の中で覚醒と夢との境界においてあと一触れで覚醒の側を活性化させ得る眠りに落ちていたのであった。さらにその部屋から覗くことのできる例の広大な庭は雨戸によって閉ざされていたため、なおのこと僕の時間感覚は混乱させられ、登紀子さんによって提供される食事もいつしかそれが一体朝食であるのか、昼食であるのか、夕食であるのか、はたまた気まぐれに供されたものであるのか分からず、僕は覚醒の側にいながら身体は脱力した状態で、その食材の原形を完全に失した粥上の物質を木製のスプーンによって口内に不快なく放り込まれるのであった。
 登紀子さんは力の抜けた僕を支えながら立たせ歩かせ脱衣場まで連れてゆき、大変滑らかに着衣を身体から離脱させる。これもまた慣れた手つきで僕の体をシャワーにて洗いながら、登紀子さんは言う。
 「沈黙を強いられた者に対して語りかけるという行為はこちらの気持ち一つで弛緩にも、あるいは緊張にも傾くという不思議な拮抗の上にあるように思われる。私はあなたに対してあなたが直接的に私に対して異を唱えることができないが故に大変な自由の中で語ることが可能であるようにも時として思われるし、一方でその沈黙こそが大変な批判となって、より正確に言うならば私自身による私への批判を発生させる装置となって私の語りを不自由なものにするのだ。言い換えれば沈黙する者は攻撃される対象であると同時に攻撃を発生させるのであって、故に沈黙する者とのコミュニケーションには終局というものが――沈黙する者に対峙する者がよほどの鈍さを、つまり相手が沈黙する者であるかそうでない者であるのかの区別すらついていない愚か者でもない限り――ない。この永遠に続くコミュニケーション行為においてその語る内容が何であるのか、いつの時点で語っているのかは実のところそれが永遠の中での行為であるが故にどうでもいいのであって、今仮にこの場がシャワーを浴びせかけてあなたに洗体を施しているシーンであったとしても、それは海浜にある砂粒ひとつくらいどうでもよいことであって実はわたしは眠るあなたに話しかけているのかもしれないし、実は思い出の中の、あるいは空想上のあなたというものに語りかけているのかもしれない。任意の内容のひとつとしてこれから話そうとしていることはさきほど言った『沈黙する者』という言葉からの連想によって引き起こされたのだろうか、そうであるともそうでないとも言える、これから話そうとする彼らは実に多くのことを口にしながら世間的には『沈黙する者』とみなされているのだから、あるいは私はあなたを今洗体という介護行為をしていることから連想を引き起こしたのだろうか、これもまた留保が必要である、彼らは確かに介護を必要とする者であるがそれはせいぜいのところ見守りや助言程度に過ぎないのであって、今のあなたのように完全なる洗体のような介護を必要とすることは非常に希であるのだから。彼らとは軽度の、具体的言うのであればIQ=5570程度の知的な障害を負った者らのことだ。私は高等教育機関を卒業すると、豊かさを保証された者にしばしば起こりがちな心的欲望すなわち慈愛を与えたいという欲望――言うまでもなくこれは慈愛を与えたいと言いながら実のところは慈愛を与えることによって承認されたいという欲望なのだけれども――によって、女を社会におけるハードな産業で働かせるには躊躇する父の賛成と、豊かさをただ享受するならいざしらずサービスの提供者になることには否定的な母の反対との無干渉と干渉とに挟まれる時間的経過を受容しながら、結果的には一族の支配する一帯を離れた地域にて自律型ケアホームの交代制管理者の一員として雇いいれられたのだ。私はその福祉的サービス提供者のひとりとして一見優秀に働いた。ここで優秀というのは、もちろん怠惰ではないという意味であるのは勿論のことだが、心的共感性が強く愛情を与えられるという積極的な意味を帯びているかと言えばそうではなく、むしろいちいちの出来事にこころ動かされずに淡々とすべきことができることをいうのだ。すでに『一見』と言ったように、私は本当のところ優秀ではなく、それは過不足なく提供すべきサービスを過剰に与えてしまうが故に実際は優秀ではなかったのであり、世間的な常識で言えば反道徳的であった――そのため私は後にそれが発覚することによって職を追われることになる――と言われても仕方のないことしていたのだ。私は彼らの住まうアパートの一室一室を密かに訪問し、男性女性に関わらず性的快楽を与えた、いや、私が彼らによって性的快楽を与えたと思いこむことによる満足を得ていたのだ。ここであなたがたは思うのかもしれない、つまり私が議論によっては先進的とされる福祉的サービスを、すなわち性的交渉を受ける機会のない彼らに対してセックス・ボランティアと呼ばれるサービスを自覚的に与えたのでないかと、しかしそれはここできっぱりと否定しておきたい、私はまったくそのような気持ちがなかったのであるし、そもそもの前提として自律的なケアホームに住まう彼らが性的交渉を享受できる状況にないというのが誤っているのであり、私の勤務したケアホームにおいても彼らは一般のネットワーク及び彼ら独自のネットワークを用いて――性的関心のある者であるならば――容易に性的交渉を行うことなど可能だったのであり、事実私が彼らのうちのひとりに対してフェラチオをしていたところ、彼は一言『登紀子さん下手くそだね』と言い放ち自慰を始める始末だったのだ。だからといって私は『障害者』と呼ばれ、端的に言えば一般的人間のカテゴリーから、法的には内包され認識的には疎外される彼らを相手に性交渉を行うことによって、特異なる性的欲求を満たそうとしたわけでもない。私は他の行うべき福祉的サービスと同様に、性的サービスを淡々と、一方的に与えたのであり、その動機はと言えばすでに何度も語ったように単に形式的に与えるという行為がしたかったのであって、私が仮に発展途上とされる国に派遣される仕事に就いていたのだとしたら現地の者らに性的サービスを与えていたことだろうし、あるいはごくごく一般的な会社の事務員にでもなっていたら配属された課の全員に性的サービスを与えていたことだろうと思われる。ただ私にとって不思議なのは、その与えるという行為になぜ性的という形容詞がつねにつきまとうのかということであって、その原因の一部にはやはり一族の血というものがあるのではないかと思われる。と、いうのも、ミッちゃんが――永遠のコミュニケーション行為においてそれを語ったのか語っていないのかということももはやたいした問題でないのだけれども、はたしてあなたにこのことを話しただろうか、あなたが一連の挿入行為をした相手=私の弟の名は三津也というのであって、私は弟に対して『ミッちゃん』と呼びならわしていたことを――やはり案能一族の、ミッちゃん流の言い方をするなら社会=経済機構における優位性のシンボルたる骨を汚すという行為をする際に、まさにその行為の形容詞として性的なるものを選んだことと繋がっているように思われるからだ。私もまた、一族の社会=経済機構における優位性のシンボルたる骨を汚すのだとすれば、同様に性的なるものを媒介としたに違いない」
 
(つづく)

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匠高岳(Takumi Kogaku)1982年生まれ。愛知県出身。

批評性を強く意識して小説を書いています。
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