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於G郡無言坂 3 匠高岳

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 僕はこれまでにあなた、あるいはあなたがた、それともまったくの不在に対して語りかけ、あるいは単に回想を行ってきたのだが、――ここではたと気づくことは、僕は本当に語りかけ、あるいは回想を行ってきたかということであり、それは「僕」とは一体何者であるかという問題、勿論これは僕である高岡がいかなる来歴を持つ人物であるかとか、いかにも青年らしいアイデンティテイの問題とは無縁の、そもそもの存在を問う疑惑なのであるが、こうした疑惑が生じるのも、後に語りあるいは回想することになる社会=経済機構への参入の躓きから生じた脳内物質の分泌異常による憂鬱と自己否定感覚に起因するに過ぎないのだろうが、その憂鬱と自己否定感覚の浸食をそのまま受け入れ「僕」という自分自身がある虚構内の存在に過ぎないのではないかと妄想することはあまりにチープなメタ・フィクショナルな物語を投影しているようであり不愉快だ――その語り、あるいは回想には多くの穴が存在すること、いやむしろ無数の穴の占める割合の方が多いことは当然のことなのだが、ここで断っておかなければならないのはあの一連の挿入行為後に案能が僕に対して聞かせた、本来であるならば一連の挿入行為の前に聞かせるはずであった話を、僕は名のあるホテルの上質で眠気を誘うベッドの上で、アルコールと食事による適度な酩酊と満腹との状態において、さらに一連の挿入行為による腰部を中心とした全身の疲労感覚と共に、つまるところ朦朧とした状態で耳に入れるともなく入れていたわけだ。従って、案能の話という経験を語るあるいは回想するということはこれまで以上に、聞き漏らしといった欠損があり、さらに時折半ば夢うつつで聞いていたこともあって案能が実際に話したわけでもないことがつけ加わっていたり、話が歪曲されていたりする可能性が高いということだ。僕はそうした可能性を考慮してこれからなるべく自然な形で案能の話を聞いた経験を再構成することもできるのであるが、それはそれでさらなる僕の恣意的な選択によるエラーを混在させ、語り、あるいは回想する内容をさらなる混迷へと追いやるのだと思い当たった。そのため僕は案能の話を聞いたという経験を、すでに繰り返し述べたとおりエラーは避けられないとしても、主観的にはこのような経験をしたのだとういうことを語る、あるいは回想を行いたいと思う。それはあなた、あるいはあなたがたへの真摯さを示す以上に、今はもうこの世にはいない案能に対する僕なりの弔いである。
 
 都市部に育ったために景観としては自然を愛でることはあったとしても全身を用いてそれと触れる経験などなかったにも関わらず、僕は幾状にも張り巡らされた緑の蔦の広がりに全身を沈めている。僕は全身を沈めている主体でありながら同時に客体として僕自身を眺めており、それは頭部のみは成人であるにもかかわらずその他の部分は乳幼児と化した僕であって、再び主観的な感覚に戻れば肢体いずれにも末端までの神経が十分に発達しておらず従って自由にそれらを動かすことはままならず、それどころか勝手気ままに動き出して小さな拳が時折自分の顔面に振りかぶり急に力を失い落下してくる始末である。柔らかな蔦を四足で踏み歩きながら、母親の顔をしたホルスタイン牛がやってくる。しかし、その顔面はぼんやりとしていて、瞬間においては人間のそれであり、また次の瞬間においては牛のそれであることを繰り返し、その変化する口をくちゃくちゃといわせている。僕に食物と水分を与えるつもりなのである。満足に体を動かせぬ矮小な私を巨大な体の牛は覆って、すでに十分な咀嚼を終えて泥状となった食物とも水分ともつかぬ物質を口移ししようとするのだ。止めてください! 止めてください! 僕はもう十分に大人なのです! 空腹を感じればそれを満たすために自分自身でそれを調達する術をすでに身につけているのです! 僕はもう/まだ。
 これは推察でしかないがベッドの上の僕はしかし口を開け、あるいは乳幼児が乳を欲しがるように赤い舌を口中で前後に盛んに動かしていたのかもしれず、それが案能にとってはアルコールによって脱水状態に陥っている人間が水を求めている姿に映ったのであるかもしれない。かくして僕のぽかりと開いた唇にもうひとつの唇がぴたりと合わせられて、再び水が流し込まれ、未だ半ば以上夢の中にいる僕はそれを確かに拒むことなく飲み干したはずなのである。
 母の顔でもあり、牛の顔でもある顔面以外はまさに牛の身体である生物は再度僕に泥状の味のない物質を食べさせるために咀嚼を開始するのであるが、下顎を上下させることによって歯と歯とがぶつかり合い立てる単調な音がいつしか案能が語る言葉と接続される。
 「しっこする」→「シコロス」→「私殺す」
 長期記憶による自己同一性としてあらざるを得ない虚構を生み出す神経システムが確立される以前からすでに僕には「シ・コ・ロ・ス」という一連のある母音と子音とによって組み、形成される音の羅列の組み合わせがあったのであり、それはそうであることを自己において永久に確信することのない幼い僕がしばしば口走っていたという親族の証言からも確かなことであると思われるのであるが、それが果たして親族の言うように尿を排泄することを意味する「しっこする」が偶発的に変形し、定着したものであるかどうかは定かではないのだけれども、「シコロス」という子音の連なりがとうに「しっこ」などという言葉を使う必要もなくなって以後も僕の頭の中で不意に何度も、時によって数日に渡って唱えられ続けるという事態があったことは、その一連の子音の連なりが僕にとって何か特別な意味を持つのではないかという選民思想に似た自己肯定/否定と同時に、意味のない強迫観念に晒されているという被害妄想とのふたつに、同時に犯されたことは確かなこととして言うことができる。
 しころすしころすしころすと咀嚼を続けるふたつに変化する顔面を持つ牛の口の端から非常な粘着性を有した唾液がこぼれ落ち、それは夢の中でよくあるように、いくら粘着性の強い唾液であっても常識的には考えられない遅速さで僕の顔へと向かい、それは僕に対して迫っているにも関わらず、僕が相当な高さを持つ絶壁の端から地の底を覗き込んだ時に恐怖と同時にその地の底へと到達するよう宙へ飛び出していきたいというイメージに似た、落下に対する心臓の高鳴りを呼び起こす。唾液が落下する速度と心臓の高鳴りとは極度に引き延ばされるが、いつの間にかその遅延はぷつりと裁断され、気がつくと唾液は僕の口の周りに付着している。それは咥内に侵入していないにも関わらず、甘ったるいものであることが分かるのだ。
 環境が偶不遇を決めるのでもなければ、自己への認識が幸不幸を決めるわけでもない、いわんや繊細さがそれを決定するのでもない。自己に拘泥せざるを得ないこと、それがすべての不幸の始まりなのです。分析するならば僕は環境面においては社会=経済機構で優位な立場にあり、自己への認識において優越観を抱くと同時に救いがたい屑だという観念を抱き、感覚よりも論理的思考を信頼しており、にも関わらず自己に拘泥せざるを得ないために不幸であるという結論に達しているのだけれども、ここではもはや自己拘泥こそがイコール不幸なのだと定義づけてかまわない、勿論これは私的な語法であるけれども僕にはどうしても自己拘泥を肯定的に捉えることができず、否定的にしか捉えることができないために、否定的な自己への所作が意図せずに反復されることがやはり幸せなこととは思えない。
 漢字を覚える以前か以後かはっきりはしないが僕の中で繰り返される一連の子音、「シコロス」はしばらくの間「死殺す」であり、「シ」と言えば「死」であり、「コロス」と言えば「殺す」である幼い僕にはその言葉の意味は分かることもなく、今思い返してみても「死を殺す」などということは一見奇をてらいながら実に内容の空疎な衒学的な論文を書く二流どころの評論家にしかその意味付けをすることなどできないだろう。「死殺す」は意味のない言葉として、けれどもいつまでも鳴り響く言葉として、意味がないにも関わらず単に機能として少年期の僕の視線を内へ内へと向かわせた。
 社会=経済機構へと参入していない真には成人していない人間、つまるところを言えば生活を持たない人間は生活を持たないが故に、有限な時間を仕事に費やし、家庭の秩序の安寧に費やし、家計のやりくりに費やし、自らの子の安らかなる成長に費やすという「健康」的な生活を持たないがために「不健康」へと陥ってしまう。彼らに処方箋を書くことは実に簡単だ。生活人になってしまえ、自己を拘束しがちな同年代の恋人を作るなり、バイトを3つくらい掛け持ちしたり、仕送りなしの一人暮らしをはじめたりさえすればたちどころに彼らの言う自己拘泥の不幸、すなわち「不健康」などたやすく「健康」になってしまうことだろう。話は簡単だ。しかし僕はそんなお手軽な「健康」への転換を意識的にか無意識的にか実践しようとせず、実のところを言えば「自己」ではなく「不健康」に拘泥している彼らをこそ、さしあたって愛しておきたいと思う。なぜなら今は現実においても虚構においてもあまりに「健康」的な言説ばかりに満ちており、その数が莫大に多いので僕が単に気持ち悪くなってしまっているからである。あなたがたはどう思われるだろうか?
 そう言われれば僕だって「自己」に拘泥しているのではなしに、「不健康」に拘泥しているのかもしれない。それを愛してくれるにも関わらず、けれども僕は自身が「不健康」に拘泥せざるを得ない理由を説明、ではなしに、まさに僕の目の前に現前している光景を語る、あるいは回想することによって表したいという気持ちを抑えることができない。奇妙な時間感覚を伴いながら結果大量の甘い唾液を僕の口元に垂らし続けた二つの容貌に変化する牛は四足を操り重たげな体を移動させ、僕に覆い被さらんばかりとなっており、顔面の上には長くしだれた乳房が、牛のそれに過ぎないにも関わらず不思議なことに透き通った白い肌に桜色の乳頭を持った乳房が垂れ下がり――現実の牛がそうしたことが可能なのか僕は知ることがないのであるが――その美しく健康的な乳首からは真っ白なミルクが一滴一滴と正確に僕の口内に入る――いくつかの乳房がばらばらの位置関係にあるにも関わらず、すべての乳房からこぼれる一滴は正確に僕の口へと垂らされるのだ。そのミルクは自身の渇き、食欲を満たすのであるのと同時に、自身の自身に対する身体の制御のできないことへの苛立ちを鎮め、睡眠という非存在への退行へと追いやる。そうしたミルクの供給は様々な形を変えて今日まで続いている。そんな僕は、にもかかわらず現実的な側面では反抗することなく安寧な生活を享受している僕は、あなたが言われるように「不健康」に拘泥している、というよりは「不健康」に最も卑怯な位置において、すなわち単に理念の上で憧れを抱いているのかもしれない。
 しかし僕は敢えて自己拘泥であると言って話を続けておきたい。そうでなければ「シコロス」という言葉を語るという行為を続けることができないのだから、だからどうか僕の言葉を聞いていて欲しい、たとえあなたが半ば眠りつつある状態であったとしても、僕の頭の中で反響し続けていた私的な言葉を一体どのように解釈したのであるのか、それによってついにこの強迫観念から脱出できたわけではないのだけれども、ひとは生涯において与えられた課題をクリアーできるとは限らず、多くは中途のままにその生を終えてしまうにも関わらず、だからこそたとえ実質においてはなんの益ももたらすことのなかった死産した解釈をあなたに聞いておいて欲しいのです。
 「私」という漢字も「シ」と読むのだと意識したのは一体いつのことだったのか分からず、それは「私生活」、「私小説」といったあたりの言葉を知った頃だろうけど、とにかくその新たな認識が当然のことながら「シコロス」に別の解釈を与えたことは言うまでもないでしょう。「シコロス」→「死殺す」→「私殺す」。僕に憑りついていたのは「私を殺す」ことだったのだという解釈がなされた結果僕の中に確信が走ったのだ、というとあなたは端的にこう思われるかもしれない、社会=経済的機構における優位性の中で自身の生涯の路線図を予め書き示された少年あるいは青年がその指示=命令の抗じ難さに「私を殺している」と感じているのだと、しかしそれは違うのです、選択の余地のない窮屈さが「私を殺す」のではなく社会=経済機構における優位性がもたらす自由こそが「私を殺す」のだということを説明させて欲しい。僕は社会=経済機構における優位性を持つ一族において、特に実の生みの親らによって生涯の路線図を予記されることは――それは僕が親らの所有する子らの中で後順の生年月日を持ったことも影響しているだろうが――なかった。つまり僕は数多ある青年らと同じく自由に――無論絶対的な自由ではないにしろ――生涯の路線図を描くことが可能だった、いや、可能どころか数多ある青年らよりもむしろ相対的に自由に生涯の路線図を描くことができ、それが「私を殺す」という解釈を自己における合点のいくものとしたのだ。もうお分かりでしょう、生涯の路線図の予記が生みの親らによって描かれない場合、社会=経済機構における優位性をもつ一族がどのように機能するか。一青年のつまらない選択の誤りによる自己への損失を即座に補填する安全網として機能するのです。そしてこのことは常に救済が確約されているという意味で僕を形式的・実質的には自由としながら、その、醍醐味と言うべきだろうか、味わいと言うべきだろうか、享受すべき本質においては不自由であるという意味で「私を殺す」状態にあったのだ、と、僕は解釈したのです。僕は無限に延長される紐のつけられた犬だ。どこまでも自由に方向性を定め、距離を伸ばすことができるとしても首輪つきには変わらない。ここで僕は幼子が「シコロス」と口にした時の親族の解釈、すなわち「しっこする」の幼児における言語変形であろうという解釈がこのイメージと偶然にも合致していることに驚かざるを得ない。首輪をした犬っころを思い描いて欲しい。そいつは後方片足を宙にあげ、排尿をしているという滑稽な姿をしてはいないだろうか?僕はそのように自己を戯画としてイメージし、そのように自己を解釈せざるを得ない自分を、その言葉によって解釈が始動されたにも関わらず、「私を殺している」と納得したのである。
 にも関わらず僕の見ている案能が裸体のままでベッドの上に跪き、犬が骨をしゃぶるがごとく音をたてながら、自らの血液と便とがついた先ほどまで疑似ペニスと化していた案能の言うところの一族の社会=経済機構における優位性のシンボルを愛しげに舐め回しているのはなぜだろう。君が言いたいことはすでに僕にとって予期されている、あるいはもう君はそれを知って話すことを止めてしまったのかもしれない。話の締めくくりであり、本来であるならば、一連の挿入行為が始められる前に語られるべきだったこととは、自らの自由でありかつ不自由のシンボルであるペニスの形をした骨を汚すという象徴的な行為によって、君の強迫観念を、「私殺す」という言葉を破壊したかったのだろう。でも君は、今でもその自らの尻の穴によって汚した骨を、君自身の舌でもってそのとうの汚れをぬぐい取ろうとしているじゃないか。やはりそれは「死殺す」――君が異常なほど強い言葉によって、仮想なる二流の批評家まで持ち出して否定してかかった解釈こそ正しいのではないだろうか。いくら強引な解釈を重ねようと、君はその最も単純な解釈において「私=君を殺す」ことはできない、それどころか君は今骨をしゃぶるという行為をしてしまわざるを得ないことによって、君が複雑に解釈した『「私=君を殺す」=死』を殺しているんじゃないだろうか。僕の目には、君はやはり嬉々とした犬っころに見えるよ。
 そして僕はというと、寝そべる二重映しの顔を持つ牛の長い乳房の垂れた腹に身を寄せて、流れる新鮮な乳を顔に浴びながら、絶対的な安全を確信した満足に浸りつつ、失う可能性のあるものすら忘却した状態において真の眠りへと落ちていく。

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匠高岳(Takumi Kogaku)1982年生まれ。愛知県出身。

批評性を強く意識して小説を書いています。
その点がうまくいっているか、お読みいただければ幸いです。
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Twitterアカウント:@takumikogaku