F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

於G郡無言坂 1 匠高岳

G

「登紀子が腹を切った」
 早朝のことだ。見たことのない、が、おそらくは一族の一人であろう顔のあちこちに疣のある年老いた男がそう告げる。
「小太刀で腹をかっさばいたんや。血に血が重なった」
 疣ある男は一言一言をゆっくりと、噛んで含み、声を発するというよりも、声がふたつに割れた唇の間から漏れでる音のまま、あたかもそれは太古に起こった出来事をその出来事の当事者が疣ある男に乗り移り不器用にその器官を用いて伝える様相で言う。それから「死んだよ。登紀子は」と、付け加える。
 僕はその宣託を動揺することなく聞いていた。すでに知っている、その血潮の飛んだ現場すら詳細に観察し、誰も知ることのない、登紀子さんが割腹へと至る所作すらどこかで観察してきたような感覚であった。その観察は冬の放置されたプールの底で、あらゆる生物の死骸、繁殖した藻の入り乱れる濁ったプールの底で水中メガネ越しに覗き見た不鮮明な光景のようだった。
 こころが動揺しなかったのにはもうひとつの理由がある。僕の身体はその時すでに想像上の、しかし現実的な違和感、痛みすら伴う女体化及び受胎を起こしていたからである。想像において僕の乳房は左右に分かれて大きく張り、熱帯における強い腐臭を漂わせる果実のようになっている。また想像において、僕の体内には子宮が存在し、羊水と胎児とによって満たされたそれは他の臓器を圧迫し、こうして疣ある男と対峙している間にも軋みによる痛みと激しい膨張による発熱とを起こす。子宮を刺激せぬよう、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出さなければならない。早く横になりたい。正直に言えば、登紀子さんの死は、今現在起こっている身体の違和と、刻迫る出産への疼きに比べれば後退したものであらざるを得ない。
「割腹とは。ようもこんなことやりよった。地元の新聞社の者も現れた。じきに多くの者がこの村にやってくるだろう。重なったからな。もうおさえることはできん。ほら、聞いてみろ。耳は聞こえるんやろう。ヘリコプターがやってきおる」
 僕は想像上の張り出た腹をかばいながら、玄関口を出て、疣ある男の指さす方向を見る。しかし、はじめに感覚に現れたのはこの庭に充満する苔蒸したにおいだ。はじめにここを訪れた時にもそれが気になったのは予兆であったのか、今僕の連想は想像上の子宮内の胎児へと及ぶ。苔はいったん匂いとなって僕の鼻孔をくぐり、身体の内部において再び苔と化して子宮内の胎児の肌に繁殖するのではないかと思われる。緑色の胎児が、深い闇の中で瞳を発光させている。僕は猛烈な吐き気に襲われて、疣ある男の足下に、農作業用の衣類と泥の付いた黒い長靴に飛沫がかかるほど激しく、胃液を吐き出す。僕は絞め殺される間際の鳥のような声をあげて嘔吐する。それを疣ある男はめったにないものを見る目で眺める。
 「やはり音は出るんやな。赤子と一緒というわけや。まあええ。お前はこれまでと同じくこの家にすくんでおれ。取材の者が来ることもあろう。でも何も話さんでええ。声の出ないふりを続けておれ。飯はじきに届けてやる。今は集落全体がばたばたしておるからありあわせのものになるやろう。しかし必ずもってきてやるからそれまで眠っておれ」
 僕はうなずく。ヘリコプターはいつまでもこの一帯の上空を旋回している。いつまでも頭上を旋回し続けて止まないもの、それは僕がこの一帯に滞在しているのと同じじゃないか。
 
  *     *      *
 
 ひどく遠いところにいる。それは空間を独占的に占める物質的な場所であるのかははっきりとしないのだが、ひどく遠いところに来てしまったことだけは直感的に知っている。僕は自身が生まれ落ちて間もない乳幼児である頃の記憶が意図せずして蘇ってくることに抗うことができない。眼球に映る像が未だ分節化されずあたかも水面に落とされた濃淡様々な色のついた墨が揺らめきつつ入り交じるような光景の中でどこまでが自分でありどこまでが視界に映る光景であるのかも分からないままに、時に優しく時に暴力的に響く様々な音どもに囲まれながら、それでも自分がようやくのことまばゆい光というものに出会えているということは、当然ながら言語化されていなくても本能的に感じており、その光を浴びていることがすなわち生を受けていることだということを脅かすこれもまたもうひとつ別の本能、すなわち睡眠への欲求が生じることに脅えを感じる。眠りとは再び暗黒の子宮へと引き戻されることであり、それは生を受けたはずのことがなかったことにされるのではないかという恐怖だった。死ではなく、存在したという事実が消去される恐れ。僕は当然ながら十全に使いこなすことのあたわない肺、喉、口腔器官を駆使し、泣き叫ぶものの、乳幼児のわずかな体力はすぐに消耗し、突起した乳頭によって小さな口は塞がれ、味のない、ただ喉を通過する快楽とともに乳という名の睡眠作用のある液体が与えられる。乳幼児である僕は次に目の覚めることを信用することができないし、それが自分自身であることも確信することはできない。腹に溜まった乳によってもたらされた満足と同時に絶望を抱きながら、身体の機構によって瞼は落とされる。僕はひどく遠いところへと浮遊する。
 ここが空間的な位置を占めているのか不明であると同時に、時間的な位置も不明であり、さらに言えば今こうして誰に対するわけでもなく回想をしている――ひょっとすると口にしているのかもしれないのだが――僕の身体というものが本当にあるのかどうかさえはっきりとしない。光に包まれているというわけでもなく、かといって暗黒にあるわけでもない。仮に今ここで回想している僕に身体があり、視覚器官があるとして、はたしてそれがひらいているのかひらいていないのか、いずれにしても光でも暗黒でもなく、仕方なしに貧弱な比喩的表現を用いるなら巨大な豆腐の中に突っ込んだような状態にある僕は既に何度も繰り返しているように回想をしているのだ。
 なぜ回想をしているのか。それに対する回答を僕は持たない。ならばしなくてもいいのではないかと言われるかもしれないが、それは義務となって僕に執拗に迫ってくるのだ。語るは易く、語らざるは難し、よく言ったものだ。そういえば僕はさきほどから回想をしていると言いつつ回想をしていない。回想している僕を回想しているのだ。なぜこうした時代遅れの「新しい小説」じみたことをしているのだろう。一つ思い当たるのは、きっと僕が「僕は朝目覚めるとさっそくキッチンに向かい冷蔵庫の中身を素早くチェックし献立を組み立てる」と、いったように書かれる幾多の小説と呼ばれる書物にいちいち立ち止まらざるを得ない性格だからであるかもしれない。現実の人間は勿論そんなことを考えながら行為するわけではない。行為を終えた後に事後的にそうした意図を持っていたことのだと回想し、確認するだけだ。そうした確認行為だって大半はなされることはなく、かくして行為はすべて意識されざるままに自動的に行われる。その大半の行為を行為と同時に回想する一人称にいちいち立ち止まらざるを得ず、それは誰だと訝しむのだ。勿論これだって陳腐な問題であり、単なる性格的な拘りにすぎない。しかし、その行為とともに回想しているのは誰であるのかを明らかにしたいという僕の性格こそが、この空間的にも時間的にも位置の不明なままの状態において僕に回想させる、あるいは僕を存在させているのかもしれない。ならばせいぜい回想を、思いのつくままにしていこうと思う。いずれ光のもとか、あるいは暗黒のもとへと呼ばれるまでに。
 
 大学生としての過程の後半の始まりは早々と進学することを決めた一部の者を除いて集合を命じられる憂鬱なカリキュラムから始まる。校内でも屈指の大教室には学部も学科もバラバラな学生らが入り口で手渡されるやたら分厚い資料を手に手に敷き詰められ、壇上隅には、僕たちとはその実年齢のさして変わらないであろうはずだが、その瞬間においては僕たちとの距離は極端に狭まるような微笑みに似た表情を浮かべ、その瞬間においては数百年も時を隔てた者であるかのような嫌悪に似た冷笑を浮かべ、その極端から極端への間がグラデーションを描き、結局のところ彼ら自身も自らの立ち位置を決め損ねているスーツ姿の男女二人が、それを用いることこそがこの戦線に擬せられる集団的参入手続きの勝者の証であると言わんばかりにエンブレムがほのかに輝く薄いパーソナル・コンピュータを操作し、巨大スクリーンには各種テーブルやタームがアニメーションを伴いながら映し出される。そして差し挟まれるさして年齢の違わないはずの男女の自分語り――「自信のない人だっているかもしれないし、僕だってそうだったんですけど、自己分析をすることで自分の長所・短所が分かってくるし、その短所だって見ようによっては長所に変わるんですね」、「私ははじめ社会貢献を志望動機の第一に掲げていました。こうした動機を持っている方はこの中にも多いだろうと思います。ですけど、社会貢献ってじゃあ何?、と、就職活動をしていく中では問われるんですね。あなたの言う社会貢献というのが、我が社にとってどんな貢献になるのか、どんなビジネス・チャンスを生み出すのか、そこまで考えなければならないんですね」。やがて壇上の催しは終わり、手元にあるシートを埋めるよう指示がなされる。統計学、経済学、心理学、社会学、そして何よりもこの人的資源に頼る他ないこの国の社会=経済機構を統べる幾多の者たちの冷ややかな眼差しの挿入されたテストに答えることによって、この参入すべく宿命づけられた社会=経済機構の、穏当な表現を用いればどの分野、実際に感じた感覚を表現するならどの部位に当てはまるのか――分析と名づけられながら分析されるべき実体などなく――「自己」なる観念が生み出されるという仕組みだ。すでに着色した髪を再び元に戻した者も多い群衆は、このテストに黙々と挑むことこそが、単に儀礼的な意味しか持たなかった法的成人とは異なる、未成年からの真の脱却だといわんばかりに幾らか誇らしく、そしてすでに自身の中に参入すべき社会=経済機構の冷ややかな視線を導入して、プレ社会=経済機構への参入としてあった入試に挑むのに似た感覚を、すなわち他者の期待を読みとり応えることによって自己の実現を図らんとする感覚を呼び起こし、真の青年たらんべく自己を生み出そうとする。もちろん、こんな情景を頭の中で意識的にではないにせよ、無意識でとは言えないまでに、つまりぼんやりと描写していた僕はすでにこの参入すべき社会=経済機構の入り口にも達しない時点で不適合を起こしていた、というか飽き飽きしていたのであり、身体の拒絶は胃液の逆流となって何度か喉を焼くのだった。
 不安障害を持つ者にとって電車内でパニック発作を起こした場合の次の停車駅までが永遠の苦しみに感じられるように、この参加することの求められたカリキュラムの2時間は僕にとって終始窒息の危機を感じさせるものだった。スクリーンがあがり、さして年齢の変わらない男女はやや安堵の表情を浮かべ、互いに互いの視線を交差させながら軽口めいた言葉を敢えて浴びせかけあうことによって、自分らがやはりこの戦線の勝者だったのであり、今や数年前と異なり、この戦線の指導的役割、間引きする存在の、末端ではあるにしても確実にその一翼を担っているという満足に浸っているのだった。その男女に、勇敢さがあたかも参入すべき社会=経済機構への近道だと思いこんでいる学生ら数名が回答を知っているはずの質問を携えて赴き、さして年齢の変わらない男女二人の自尊心をさらにくすぐることに成功する。そしてスーツ姿の男女2名を囲んでサークルができあがると、それに参入することの叶わなかった者はそれを羨望の眼差しで見つめ、自らの初動の遅れを悔い、ある者は早々と大教室を出て、ある者は親交ある者らと疑似サークルと言うべきものを作り出して、さっそく傾向と対策を語り合うのであった。僕は孤独だった。ならばさっさとこの大教室を出ればよいのだが、僕はこの孤独に身を任せることに信頼を抱ききることができないのでもあった。もしもこの時どこかの疑似サークルから僕の名を呼ぶ声がするならば、僕の胃液の逆流はすぐにでも止まり、十分に腹をすかせかつ待つことを命ぜられた犬がようやくその命の解除を告げられ粗末な餌へと向かうかのように、恍惚の表情でそれに応えただろう。そして、必死になってその疑似サークルでの期待に応えるべく、自らの持つ参入すべき社会=経済機構の考え得るあるべき姿についての断片的情報を洗いざらいぶちまけていたに違いない。だからこの時の僕の孤独など強靱な意志によるものでは決してなく、環境によって作られたものに過ぎないのだ。
「君と言うべきか、あなたと言うべきか、いずれも相応とは思われないし、かといって未だ互いに名前の知らない状態においては仮にあなたと呼んでおこうと思うのだけれども、あなたは気分を悪くしているのではないのですか」
 僕は観察の死角から不意に声をかけられた。それは聞き覚えのない声であるにも関わらず、だからといってまったくの無関係であると断定し態度を決めてしまうこともできず、直感的に自己との親近性を認めざるを得ないとともに不愉快が、そうであるべき枠におさまるはずのものがほんの数ミリずれているような違和感が伴うのだった。僕は左後方に振り向く。まず注目し、今になって思い返してみてもそれ以外に特に思い起こすことのないもの、それはその男の瞳だ。男の瞼は一重であるものの非常に大きく、通常世間的に言われている欠点を補い余る魅力となっている。むしろ二重の瞳によるぼかされた視線とは異なる、まっすぐで強靭な視線が注がれ、僕は突然の日光を浴びたかのような錯覚をもたらされたのであり、同時にその視線ははじめ直線的に注がれていたにも関わらず、一度ひとを金縛り状態におくと次は蛇のような艶めかしき曲線へと変貌をとげて僕の身体に巻きつくのであった。
「一人称で自らを紹介する時、常にためらいが生じる。私というべきか、僕というべきか、はたまた俺というべきか。それによって可逆的にこれから一人称で自らを呼ぶことになる自分というもののまさに自分が生成されるのだからこの瞬間は緊張が伴う。ここでもさきほどのように保留付きで僕と呼んでおこうと思う。そして僕の名前を名乗るべきであると思う。僕の名前は案能。ひとがよく名前も知らぬひとを呼び止める時に『あのう』と前置きをするのだけれども、僕にとってはその瞬間名前が発動しているのであって、精神が未成年の状態の時にしばしば起こる自意識の過剰の際には世のすべての人間が僕の名を知っており、おもしろがって呼んでいるのはないかという妄想に、苦しめられるのではなく、おもしろがっていたことを今思い出す。しかしそれは余談であって、目下のところ僕の興味関心はあなたの体調の好不調であり、もうひとつの関心はあなたの名前を知りたいということなのです」
 案能は微笑みを浮かべる。その時瞳は膨れ上がった涙袋に押され、曲線を描く。その瞬間僕を緩やかに、しかし確実に縛っていた視線の拘束は外れ、その拘束時間は非常に短くほんの一時の間だったにも関わらず骨折によって数週間をコルセットで固定せしらめられていた身体の部位が解放された時の幸福感が、まさに全身の拘束の解放へと増幅させられてそれは一種性的な放出に似た快楽をもたらすのであった。言わずもがな、僕はすでに初対面の人間に対して持つべき本能的な警戒心を解除されていた。それどころか視線一つで幼子にまで退行させられて、もし仮に案能と名乗る男が気まぐれを起こして、あるいは気まぐれを解いてその場を立ち去ったとしたら、親に見捨てられた子のようにどうすることもできない無力感と哀しみとに突き落とされただろう。すでに私は案能の虜となっていたのだ。
 僕は身体の不調については大したことないと返事し、自らの名を、すなわち高岡という名を名乗った。すると案能は「あなた」と呼ぶべきか「高岡君」と呼ぶべきかどちらがよいかと問いかけるので、僕は「あなた」と呼んでくれと即答した。それから僕たち二人は、すでにそうすることを前々から取り決めていたかのような自然な足取りで並んで大教室を後にし、夕刻の街へと出たのだった。
 一点、付け加えておかなければならない。案能は大教室を出る際、次のようにつぶやいたのだった。
「『シコロス』と言うべきか、『シコロサレル』と言うべきか、用法の未だ確定していない言葉で脳内に文章を組み立てるときには混乱が起こり、その混乱が僕にはとても愉快でたまらない」

t

匠高岳(Takumi Kogaku)1982年生まれ。愛知県出身。

批評性を強く意識して小説を書いています。
その点がうまくいっているか、お読みいただければ幸いです。
感想、励ましのコメントをいただければ100m程飛びあがります。
Twitterアカウント:@takumikogaku