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くず 3 松下隆一

kuzu

 
 風が吹いて、稲のにおいがする。道はアスファルトで舗装されていた。この道を歩いて咲子のもとに通い、咲子を連れて逃げたはずだと勘次は思ったが、記憶にはなかった。
 ヒバリが鳴いている。陽射しを受けて、田畑の緑が鈍く光っている。農具小屋の壁に、国会議員や地方議員の笑顔のポスターが貼ってある。
 佐藤の家がだんだんと近づいて来る。外観を見ても何とも思わなかった。離れ家を見れば思うこともあるのかもしれないが、そこまで行くつもりはなかった。
 道から畦道を少し入ったところに、小さな地蔵を祀った祠があった。おぼえがある。逃げる途中、咲子が、手を合わせていた。勘次が腕を引っ張って歩かせるまで、咲子は一心に祈っていた。かえって不吉な感じがして、勘次の胸はさわいだ。

 
「一緒になれへんかったら、うち、死にます」始発列車の四人掛けの椅子に並んで座り、咲子が勘次の腕に縋って言った。
 それをどうしてもっと早くに言ってくれなかったのかと思ったが、球磨川の流れを見ながら、勘次は黙っていた。咲子に頼んで顔を隠すための帽子をかぶっていたが、着ている服がワイシャツに学生ズボンだったので、かえって目立つように感じられた。知った顔に合わないように願い、うつむいて、列車の音に耳を立てた。
 白石駅に停車した時、にわかに足音が聞こえて、見知らぬ数人の男に取り囲まれ、咲子と引き離された。男の一人が短刀をちらつかせ、「顔ばかせ」と言うので、勘次は抗うことなく客車から降ろされた。咲子が叫び声をあげようとしたが、口をふさがれ、客車に残された。それが咲子との、別れになった。
 勘次は人気のない山中に連れ込まれ、足腰が立たなくなるほど、殴られ、蹴られ、棒切れで袋だたきにされた。棒切れの先が、右眼へとまともに入った。眼球が破裂し、生臭い汁が飛び散り、鼻腔奥から喉へと流れ込んだ。「もうよか」としゃがれた声がして、男たちは去って行った。血のついた棒切れが眼の前に転がり、勘次は気を失った。
 
 今はもう、何も思うことはない。懐かしさもなく、あれから見事に転落してしまったと苦笑するばかりだった。遠く、ひょうひょうと、汽笛が鳴った。思い返せば、うすよごれたままで、終わってしまった。罐磨きと罐焚きと工場勤めが、勘次のすべてだった。煙にまみれ、油にまみれた。きたない黒色がつれあいであり、おれにはよく似合っている。所詮は、乞食の売女の子だ。世の中に、生まれてはならん、役には立たん男だと、思った。
 『死生有命 富貴在天』。それは、違うと思う。おれはおれ自身の手で、命も金も、そんな風にしてしまった。親父も、きっとそうだ。運命とか天命とかいうのは、言い訳であって、負け犬のなぐさめではないか。
 
 庄屋門の前に、勘次は立った。表札は、掛かっていなかった。額から、汗が流れる。あの時、どうやって忍び込んだのかも、おぼえていなかった。来てはみたが、何をしようとしているのか自分でもわからなくなっていた。今さら咲子と会って、どうこうしようなどという気もさらさらない。ただ旅のついでに、来たというだけのことだったが、来てみれば鬱々とした重い思い出しかなく、一面の青空の下で、そんなものを抱えて突っ立っている自分がバカに思えてくる。
「何か、御用ですか」背中で声がした。勘次が振り返ると、女が立っていた。眩しいような真っ白いシャツにジーンズをはいていて、三十半ばで、ウエーブのかかった栗色の長い髪が風にゆれていた。目元が、咲子に似ている。勘次はうろたえた。
「いえ、あの、立派な門構えだと思いまして」言葉をにごした。すぐに帰ろうと思った。
「ああ、うちを見に来られたんですね。どうぞ中に入って下さい」
「いや、でも」
「どうぞ。研究されている方とか観光の方とかよく見えるんですよ」女は笑顔で言った。表情がやわらぐと、いちだんと、咲子に似ていた。晴れた日に映えて美しかった。女は黙り込む勘次を見つめていたが、「さ、遠慮せずにどうぞ」とまた笑顔で言った。
 女のあとに続いて、勘次は門をくぐった。女の身体から、石けんのような淡い、いいにおいがした。女の尻が眼に入った。肉づきを見て咲子を思い出した。どこまでもいやしい心だった。
 母屋に通されたが、離れが気になった。庭をのぞむ広い客間に通され、勘次はあぐらをかいて座った。女が冷たい煎茶を入れて、出してくれた。勘次はまともに女を見ることはできなかった。
「よければひと通り部屋を見て頂いてもいいんですよ」女は言う。
「はあ……」勘次はどうしていいのかわからなかった。
「遠慮なさらないでいいんですよ。ふだんは誰も住んでいませんから」
「そうですか。あなたは、住んでおられないんですね」
「ええ。前は父と私と、二人で住んでいたんですが、十年前に父が亡くなって、私が熊本市に嫁いでからは空き家になってるんです」
「失礼ですが、あなたの、お母さんは……」
 女は勘次を見つめた。「死にました。私を産んですぐに」何ということもないように、女は言う。
 死んだと聞いて、自殺を思い浮かべた。だが、勘次はそれ以上のことは、何も思わなかった。いや、思いたくなかった。おれはつめたいずるい男だと、思った。咲子の香りから、逃げたくなった。女が笑顔を見せるたび、ただ、逃げたい、と思った。
 おれはどうせろくでもない生き方しかできなかった男だ。女に惚けて、バクチに明け暮れて、機関士はおろかまともな男にもなれなかった。昔のことをほじくり、つべこべ言う資格もない。おのれの身の上に寄りかかり、利用し、おれ自身を哀れんで生きてきただけの、おろかな男だ。
 眼の前にいる、咲子の娘の佇まいに、勘次はおびえた。美しかった。家柄というものは、一生かかっても、おれが打ち負かせない相手だと、思った。おれは醜いろくでなしだ。
 風が部屋に吹き込んできた。勘次はもう帰ろうと思い、女を見た。
「お昼はもうおすみですか?」眼が合うなり、女が言った。
「え、いえ……」
「何かおつくりしましょうか」
「あ、いや、でも」
「遠慮なさらないで。来られた方には、たまにつくるんですよ。もちろん代金なんか取りませんから」女は笑った。こぼれた白い歯がきれいだった。
「……」
 女は笑顔を残して出て行った。この間に帰ろうと思ったが、腰がなかなか上がらなかった。稲のにおいがした。ヒバリが鳴いている。遠く、汽笛が鳴り響く。山々の呼吸を感じ、長い旅を想う。ここまで来てしまって、生きることにそれほどの力はいらないのだと思い、勘次は少し、気持ちが楽になった。
 不意に、出汁のにおいがした。あの時の、三郎さんの、店からこぼれてくるにおいと同じだった。甘く痛い、記憶が、勘次の胸が奥深く、ずぶずぶと突き刺す。
 女が盆にのせて運んで来たのは、いびつな形をした、黒い焼き物の器に入ったうどんだった。咲子が最後につくってくれたうどんと同じだった。勘次は胸がいっぱいになり、うどんを見つめていた。出汁の中に、きれいにそろった手打ちの麺が沈んでいる。
「さ、どうぞ。お口にあうかどうかわかりませんけど、召し上がって下さい」女は言った。
 勘次は、塗りの箸を取り、うどんをすくって啜った。コシと味は三郎さんと、咲子がつくったものとまったく同じだった。あの時の味だった。うまさと懐かしさに、箸を持つ手が止まった。
「母の味なんです」女が、庭の方に眼を移して言う。
「……でも、お母様は、あなたを産んですぐ、お亡くなりになったんでしょう」怪訝に、勘次は言った。
「ええ。つくり方を教わったのは母方の祖父です。お前に家族ができれば、このうどんをつくればいいと、祖父は言っていました……きっと、母にもそう言っていたと思います……いつもは忘れないようにと自分のためだけにつくって食べてたんですけど……今日初めてなんですよ。お客様にお出しするのは」女は勘次郎を見て、笑みを浮かべた。
「家族ができれば……」勘次は口の中で繰り返した。
「さ、召し上がって下さい」
 勘次はまた、食べ出す。すぐに湯気でサングラスがくもった。勘次は、サングラスを外して食べた。淡いきつね色の出汁に、勘次のつぶれた右眼が映る。自分の眼を見て、咲子の顔をはっきりと思い出し、すまないと思った。咲子を、恨みと肉欲で抱いた。咲子はおれを思いやって、犠牲になった。一番いけないことをしたのはこのおれだった。
 あきらめに負けて、おれは闘わなかった。立ち上がることも声をあげることもなかった。獣だと、思った。いや、獣でも、食えないとなれば闘って、食う。おれは何だ。何だったのだ。おれのために生き、娘のためにぎりぎりまで生きた咲子は、どれだけ屈辱にまみれても、自分というものをもっていたじゃないか。
 機関士になりたい、なろうと願いながら、己の強欲のために、果たせなかった。血筋というものが根っこにあったとしても、それを断ち切らねばならぬものを、おれは、逃げてしまった。あれは咲子のためではなかった。咲子のことなど何一つ、考えてはいなかった。己がかわいかっただけの、己をつぶす行為にすぎなかった。
 夢も現実もなく、ただ失敗の人生を演じただけの男だったんだな、きっと。
 もう何もかもが、遅かった。勘次は、茫然と、出汁に映る自分の顔を見ていたが、うどんを一本残らず啜り、両手で鉢を持ち上げ、過去を消し去るかのように、一気に出汁を飲み干した。
 うまかった。涙がこぼれそうになる。これが親父の言っていた『死生有命 富貴在天』なのだと、勘次は思う。生まれ変わりたい気持ちだったが、正直に生きるにはもう遅かった。この歳でできるのは、少しだけ、人に親切にすることだけだ。汽笛がまた、遠くで一つ、まぼろしのように、ぼおっと鳴った。(了)

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。