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じぶん「うつつな日本の私」 井野裕

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 まず、断っておかなければならないのは、この文章を読んで、私から去っていくひともいるだろう、ということ。書かれた文章を相手が読んで救われた経験がある一方で、それによって傷ついてしまうことだってあるというのは、なにかを書こうとするものにとっては抗えない事実だと、私は思う。だから、この文章で私のことを嫌い、あるいは私をじぶんのみえる範囲から消し去ろうと思うものがあったとしても、それはいたしかたない。
 私が「私」と名乗るようになったのは最近のことで、それまで私は私のことを「ぼく」といっていた。
 もう少しさかのぼり、「ぼく」と名乗りはじめるまえまで私は「私」と名乗っていたのだが、じぶんが小説を書いてどこかに応募する決心をつけたときの、最初の一人称小説の主人公が「ぼく」であったために、それ以降、私は普段から「ぼく」と名乗るように定着していった。「ぼく」のころに完成したといえる小説はわずか二作品のみで、それからはなかなか完成にこぎつけるまでに至っていない。いわばこれまでは「ぼく」が私の小説を完成にまで導いたのだと考えるようになった。しかし、やはり先がつづかない。だから、この「片隅」の寄稿も、当初の予定では読み切り小説として、毎月、編集者の加地さんに送付しようと考えていたのだが、いまは一切書けないでいるため、私が書く小説は今後掲載されることはないだろう。しかし、このままでいいわけがない。
 そこで私は「ぼく」と名乗るのをやめた。今度は「ぼく」が小説を引っ張っていたころのように、手綱を「私」に引き渡す格好にしたのだった。それだけのことで小説が書けるようになるのか、と嘲笑されてもしかたない。私はその小さな変化にすがらなければならないくらい追い込まれているのが事実だった。
 そこでぶちあたる私の懸念のひとつには、周囲のひとの目があるということだった。
 これまで「ぼく」と名乗っていた私が、ある日から突然「私」を名乗るようになったのを、おさまりの悪いものだとみる向きがあるのではないか。幼さの趣のある「ぼく」から、周囲との隔たりを感じさせる冷たい「私」になった、その心変わりの真意を詮索されるほどのことではないにしても、やはりどこか滑稽に思われるのではないか。
 しかし、この考え方が徒労だということをじつは私自身が心得ていて、そうやって「わかっている」のもじつは「私」ではなく、また「ぼく」でもなくまぎれもない「じぶん」であるということが、「私」と「ぼく」も「じぶん」の思考からの経由で知っている。私はこの働きについて非常に驚いたとともに興味をもった。
 たとえば、コンビニででた釣りの一円玉数枚を、レジ横の募金箱に入れるのはまぎれもない私であるにせよ、そのシークエンスでもっとも重要なカメラワークは「私」の後方やや斜め上からはじまり、私の後頭部と背中から流線を描いて指先をとらえ、その背景にはレジ業務をしながら私のようすを見守る若い女性店員がいるということ、私にとって募金をすることは彼女という登場人物あってのことで、私はゆっくりと指先から一円玉を離し、募金箱の穴のなかに入れるのだが、それはきわめてスロウに時を刻む、私にとってもっとも快楽のともなう瞬間でもある。私は若い女性店員を わざわざたしかめることもなく、彼女の表情を必ず知っている。
 知っているのはだれなのか。
 それは「私」ではなく「じぶん」であり、その空間はじぶんのなかで作りあげたシーンである。
ここで、女性店員が「ありがとうございます」と声をかけてくる――当初の予定ではそのはずだったのだが、じつは彼女は私のもっとも重要だと考えるシーンを見逃していて、肝心の台詞はうまれてこなかった。私は彼女の失態に憤りを感じた。彼女のまえで美しくあるべきだと信じてやまなかった。しかし、じぶんの表象を見事に彼女のふるまいが粉々に砕いてしまった瞬間、突然、これまで意識していた「じぶん」ではなく「私」が私の世界の舵をとりはじめたのだった。
 世界は「美しい」であふれている。
 ひとは「美しい」を物語る。
 しかし、世の中を「美し」く彩ろうとする、その口先や指先からこぼれる言葉の数々に、うみだした当の本人が押しつぶされることはないのだろうか。私が美しい言葉を発したさいにはきっと、目の前を美しいもので満たしていく一方で、私自身が作りあげたその「満たされた世界」に比べると、段々、じぶんが穢れていく向きをみることができるだろう。小説の主人公「ぼく」が、世間でみるところの正義感にあふれる人間であり、それを私が描くことによって、小説のなかの人物と向きあっているじぶんが距離をとりはじめる。こんな人間ではない、と私は「ぼく」を忌み嫌いながらも美しいままで小説の完成にまで導こうとする。「ぼく」が充足感をともなうにしたがって、私は次第にいらだちはじめ、いまになればじぶんでも滑稽に思える行動にでた。私はついには刃物を握り、街に出ることになった。
「だれでもよかった」とはこのとき、私は思わなかった。もっとも幸せそうに微笑んでいる人間と、もっとも肩を落としながら歩いている人間に狙いを定めて、私は順番こそ覚えていないが、もっている刃物を彼らの背後から突き刺した。冷静さを欠いていたとはいえ、いつかのだれかにきいた、「刺したあとに手首をひねって刃先を回転させることでより致命傷となる」、ということだけは頭の片隅にあり、私はそれに従って手首を左右に二、三度ひねった。
 ひとを殺したことをいまさらこれを読む読者や、私と懇意にしてくれているひとたちに偽るつもりはない。そういう人間であることを知ってもらったうえで、「私」がこれから創作するものを読んでほしい。そして、私の行いによって、その目の前の私がうみだした事象に比べ、私自身が美しく生まれ変わるためには、いたしかたなかったということだけはわかってもらいたい。かつてひとを殺したことのある、いまの私は美しいのだから。

【写真情報】 Nikon D7000

  • モデルNikon D7000
  • レンズ40mm F/2.8G
  • 焦点距離40mm
  • フォーカスモード AF-S
  • AFエリアモードシングル
  • 手ブレ補正――
  • AF微調節する(0)
  • 絞り値F/3.2
  • シャッタースピード1/2000秒
  • 露出モード絞り優先オート
  • 露出補正0段
  • 露出調節
  • 測光モードマルチパターン測光
  • ISO感度設定ISO 100
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井野裕(Ino Hiro)福岡育ち大分在住。

ファッションと小説が好きです。第45回九州芸術祭文学賞地区優秀作。シティ情報おおいたで「イノノツンドク」連載中