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ちっこい骨 2 深津十一

ちっこい骨

 八年ぶりの二色浜は何も変わっていなかった。海の表面は粘度の高い油のように凪いでいて、少し黒ずんだ渚には申しわけ程度のささやかな波が打ち寄せている。不規則な起伏が続く砂浜に人影はほとんど無い。お盆を過ぎると急に海水浴客は減るものだが、今は平日の午後六時過ぎということもあって、目に入るのは散歩の年寄りと黒い野良犬だけだった。
 健二はコンクリートの砂止めに腰を下ろし、背後の芝生に両手をついた。尖った葉先がチクチクと掌を刺すのが不快だった。
 耕平は、すっかり不機嫌になってしまった健二のそばを離れ、波打ち際近くで一人しゃがんで砂をいじっている。ぬらりと夕日を反射する海を背景に、そのシルエットはひどく小さく見えた。
 
「浜田君、ちょっと早いけど先に休憩取らせてもらうわ」
「どうぞ」
 健二はホワイトソースのこびりついたグラタン皿と格闘しながら上の空で言葉を返した。
「ジンジャーエールやったっけ?」
「はい?」
「コーラはあかんのやね」
 清涼飲料水の好みのことだとわかって「そうです」と答え、それがどうかしたのかと振り向くと、厨房のドアが閉じられるところだった。
 なんやっちゅうねん。
 健二は鼻から太い息を吐き、シンクに張った洗剤水の中から次の皿を引き上げた。
「お疲れさん」
 首筋にヒヤリとしたものが押しあてられ、健二は「ひゃあ」と悲鳴を上げた。あははという笑い声にカッと頭に血が上る。もう少しで洗剤まみれの大皿を床に落とすところだったのだ。
「はい、浜田君の分」
 突き出されたジンジャーエールのガラス瓶の向こうで、美佐子が白い歯を見せ笑っていた。
「あ、すんません。いくらでした?」
「なに言うてんの。こんなこまいことで新人君からお金なんかもらわれへんよ。ほら、ちょっと手ぇ休めて、冷たいもんで気分転換しようや」
 あわてて手のひらの泡を洗い流し、濡れたままの指でジンジャーエールの瓶を受け取ると、美佐子は「私はコーラ」と言いながら、赤いアルミ缶を目の高さにかざしてみせた。
 
「ずばり聞いてもええかな?」
「はあ、なんでしょう」
「浜田君はなんで高校中退したん?」
 二人のバイトが早上がりの木曜日、三回に一度ぐらいの割合で、駅前のカフェに立ち寄り雑談をするようになっていた。
 テーブルに両肘をつき、組んだ手の甲にあごを乗せた美佐子が興味深々という表情でこちらの様子を覗きこんでいる。
 ほんまにストレートな聞き方するな。
 健二は一瞬戸惑ったが、逆にこうして正面から質問をぶつけられたことがなんとなくうれしかった。
「担任やった英語の教師が、どうにも我慢でけへんかったんですわ」
「もしかしてこれ?」
 美佐子はげんこつを自分の頬にあて、顔を斜めにかたむけた。
「まあ、そんな感じで」
「ふうん、英語の。あ、もしかしてその先生、福井っていうんとちゃう? たしか福井英夫」
「え、福井を知ってるんですか」
「あごの先が二つに割れてて、髭の剃りあとが青くて――」
「薄いピンクのシャツにボーダーのネクタイで――」
「ほんなら浜田君はN高やったん?」
「矢島さんも?」
「へえ、高校の後輩やったんか。ゆーても浜田君は半分しか通っとらへんのやね」
「うわ、そんなん言いますか?」
「やめた理由は福井かあ、うん、わかるわあ」
「グッモニン、エぇベレバぁディ」
「似てる似てる」
 なんだかとても愉快な気分になり、健二は久しぶりに心から笑うことができた。
 
「ああ、今のはほんまに死ぬかと思た」
「なによ、そんなにビビることないやん」
「そやかてセンターライン完全に跨いでたで。トラックの方でよけてくれへんかったら絶対アウトやった」
「たいそうに言わんといて。あんまりイライラさせたらまた手元が狂うで」
「すんませんすんません」
「なに本気で謝ってんの。ほんま腹立つ男やで」
「な、ほんま頼むからちゃんと前見て運転してくれ」
「免許もってへんくせに偉そうに。ごちゃごちゃ言うんやったらここで降ろすで。生駒山のてっぺんから歩いて帰るか?」
「え、ここで? うーん、それは」
「なんで悩むねん!」
 バイトの休日には、美佐子の運転する赤い軽自動車であちこちをドライブした。その帰りには必ず二色浜に立ち寄って、コンクリートの砂止めに並んで腰をおろし、ゆっくりと海に落ちてゆく夕日を眺めた。水平線のすぐ上で熱く膨らんだ大気が揺れ、空の色が複雑に変化していく。そんな時間の中に二人でいることが幸せだった。
 八年前のあのときも砂浜は閑散としてしていたが、二人にはむしろそれが心地よかった。時おり関空に降り立つ旅客機のエンジン音が空の奥に響くだけで、他には波の音すら聞こえなかった。そういえば、小学校低学年ぐらいの男の子が波と戯れていたような記憶がある。それを見て美佐子が何かを言ったような気もするが内容は思い出せない。ただ、間違いないのは、そのときすでに耕平が美佐子のお腹に存在していたということだ。それを二人が知ったのは一ヶ月後で、成人となる前に、何の覚悟もないままに――健二は父親になったのだった。
 健二の目の前に白い何かが突き出された。我に返り、顔を上げると、すっかり摩耗し角の丸くなった貝殻を掌にのせた耕平が上目遣いに健二の顔を覗き込んでいた。
「なんじゃい、その目は。言いたいことがあったら、その口使わんかい」
「これ――」
「これがどうした。ほんま辛気くさいガキやの。アサリや。そこらのスーパーでも売っとるわい。そんなもん拾てどうすんね」
 健二の言葉に、耕平は頬の上あたりに微かな笑みを浮かべると、白く色褪せた貝殻をぎゅっと握りしめ、ふたたび波打ち際へ駆けて行った。
 しけた面しやがって。
 健二は真正面から照りつける太陽に目を細め、粘つく唾を足元に吐いた。
 
   ◇ ◇ ◇
 
「なあ、ええんやろか」
「なにが」
 美佐子の問いかけに、健二は目の前のノートに目を落としたまま生返事をした。
 九月に入って間もない木曜日、健二と美佐子は平日の昼間にも関わらず、卓袱台を挟んで向かい合わせに座っていた。
 美佐子は普段なら寝る前にやる家計簿をつけていた。勤め先のスーパーで売った惣菜から食中毒が出て、三日間の営業停止となり、パートタイマーは今日から明後日まで自宅待機を命じられたのだ。
 健二は簿記の勉強中だった。
 五日前の夕刻、中学三年生のときの担任がふらりとアパートにやってきて、十一月の簿記検定3級試験に合格しろと、参考書と問題集を無理矢理置いていったのだ。
「先生、いきなり来て、これ、なんですのん」
「やいやい言うな。岸和田一のヒマ人は、黙って勉強したらええんじゃ」
「そやから、なんで今になって急にこんなことせなあかんのですかって」
「アフターサービスや、遠慮はいらん」
「わけわからん」
「わけわからんのはこっちの方じゃ。ええか、お前は九年間の義務教育をちゃんと受けてんねんど。勘違いしてるかもしれんけどな、義務教育の義務っちゅうのは、小・中学生の子どもは嫌でも勉強せなあかん、ちゅう意味とちゃうんやからな。大人っちゅうか、社会の方にやな、子どもに九年間の教育を受けさせる義務があるんや。それを義務教育ちゅうねん。知らんかった言うなよ。オレは社会の授業でちゃんと教えたからな。何のために? あほか。社会人として生きていくのに必要な知識やら技術やらを身につけるために決まっとるやないか。そのためのカリキュラムが九年間かけて組まれとるんや。ええか、なんべんも言うけどな、お前はその義務教育をちゃんと受けとるんやど。そやのになんで社会人として生活できてへんねん。大きい病気してるわけでも怪我してるわけでもないのに、なんでいつまでもぶらぶらしとんのや。は? 高校中退? 見苦しい言い訳すんなや。だいたいお前、今、なにを聞いとったんじゃい。義務教育で社会人としての知識と技術は身についとんのじゃ。こういうこと言うて調子に乗られたら腹立つんやけどな、お前はそこそこちゅうか、かなりええ成績で中学卒業しとんのやど。つまりや、社会人として生きていくための基礎はしっかり身につけとるちゅうことや。ほんならあと足りてないのはなんじゃい。やる気と自覚やろ。こんなきれいな嫁はんもろて、子どもまでおって、なにやっとんね。ちゃんと働いて勤労と納税の義務果たさんかい。ま、今すぐとは言わん。そやけどいつまでもこのままちゅうのは認めんからな。ふん、どうしようっちゅう顔しとるな。問題意識を持つのはええこっちゃ。まあそう心配すんな。偉大な恩師は説教だけしにきたんやないど。義務教育の補習したろやないか、ちゅうことで来たんや。さっきアフターサービス言うたやろ。やっと意味わかったか。あほたれが。ほんならさっそく宿題だすど。やかましわい。人の話聞け。この参考書と問題集をな、毎日やるんや。ええか、オレはこれから毎週土曜の夜にチェックしに来るからな。もし、宿題さぼったりしたらケツバットやど。そうや、あのケツバットじゃ。最近、学校でやると問題になるからここ何年もやってないんや。親よりも学校がよ、体罰体罰言うてうるさいんじゃ。おかげでストレス溜まっとんねん。そやからたまにさぼってくれると嬉しいんやけどな。ま、さっそく今夜から取りかかれや」
 こうして健二の元担任は一気に言いたいだけを言うと、大きく腕を組み胸をそらせ、にやりと黄色い歯を見せた。
 あかん、こうなったらもう逃げられへん。あのタケシが逆らえへんかったんや。無理や。
 健二は覚悟を決めざるを得なかった。
「どや、なんか言うことあるか」
「ありません」
「あほ、わざわざおいでいただきありがとうございましたとか、よろしくお願いしますぐらい言わんかい」
「――ありがとうございました」
「ということですわ、美佐子さん。美佐子さんにもいろいろご迷惑かけると思いますけど、よろしゅう協力したってくださいな」
 みしりと畳を鳴らして、元担任は立ちあがった。
 美佐子はあたふたと玄関の靴をそろえ直し、何度も頭を下げながら元担任を送り出した。その際、二人の間で意味ありげな目配せが交わされたことに、健二はもちろん気づいていない。前触れなくやってきた天災のような事態に放心状態だったのだ。
 
 窓に下げたガラスの風鈴がチャリチャリと鳴った。だが外からの風は、わずかにカーテンを揺らしただけで部屋の中まで入ってこない。
「ちょっと、手ぇ止めて聞きぃや」
「そやからなんやねん」
 健二は広げた問題集の上に鉛筆を転がし、頭を左右に傾けて首の骨を鳴らすと、いかにも面倒だという素振りで正面に座る美佐子に目を向けた。
 明るい日の光の下で間近に見る妻の素顔は妙に新鮮だった。
 左右の目尻と目の下に、細く浅い数本の皺が刻まれている。まだ頬やあごにたるみはないようだが、その肌は透き通るような白さとは言い難い。三十一という妻の年齢をあらためて実感させられて、健二は心の中で小さくうなった。だからといって幻滅したわけではない。むしろきれいだと思うのだ。なかでも健二の視線を一番惹きつけたのは、額の髪の生え際にびっしりと浮いている細かな汗の粒だった。
「なにがって、耕平のことやんか。あの子、だんじり祭りに全然興味示さへんのやで。クラスの友達はみんなだんじりだんじり言うて興奮してるのに。ん? ちょっと、なに人の顔じろじろ見てんの。話、聞いてんのか?」
「聞いてるわい。あんなもんお前、やかましいばっかりでなんもええことあらへんわ。参加せんでも死なへんて。俺なんかもう何年も参加してへんけど、なんの不自由もないど」
 九月の岸和田はだんじり祭り一色になる。観光客の集まる本宮や宵宮はもちろんだが、九月に入った瞬間に町の空気は浮き立ちざわつき始める。その空気を吸ったとたん、普段はちゃらけた若者たちの顔つきが引き締まり、小さな子どもまでもが法被を着てその辺を走り回り始めるのだ。
「あんたはそれでかまへんやろけど、耕平はこの先、友達との付き合いとかもあるんやで」
「興味ないもんはどうしようもないやんけ」
「それはまあそうなんやけど」
「あいつは好きで一人遊びをしとるんや。友だち付き合いとかだんじりとか、親に言われてどうこうするもんやないやろが」
「ふうん」
 健二を見る美佐子の目に艶っぽい光りが宿った。
「なんじゃいその顔は」
「あんたもいっちょ前に父親みたいなこと言えるんや」
「どつくぞ」
「まあええわ。とりあえずあんたの言う通り、耕平の好きにさせとくわ。勉強の邪魔してかんにんやで」
「それより、お前、ちょっとこっちこいや」
「なによ」
「なにて、お前、ええからほら」
「ちょっと、やめてえや。今何時やと思てんのよ」
「知るかい。ごちゃごちゃ言わんと、ほら、早よせいや。耕平帰ってきよるど」
「ちょ、ほんまに、あかんて。窓も開きっぱなし――」
 卓袱台から参考書と問題集がすべり落ちた。風鈴がまたチャリチャリと騒ぎだし、バタンと大きな音がしてトイレのドアが閉まる。潮の匂いのする風が、日に焼け色褪せたレースのカーテンをはためかせた。

6月号に続く

fukatu11

深津十一札幌在住の小説家

第11回「このミステリーがすごい! 大賞」優秀賞でデビュー
添付の写真は「ニポポ」(アイヌの民芸品)です。