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【旧制高校生必読の書】三太郎の日記 11 阿部次郎

santaro

十一 別れの時
 

 
 ニイチエは屡※二の字点「別れの時」と言ふ言葉を使つた。彼の超人は一面から云へば幾度か「別れの時」を經過し來れる孤獨寂寥の人である。私はツアラトウストラを讀む毎に、此「別れの時」と云ふ言葉の含蓄に撃たれる。ニイチエ自身も亦「別れの時」を重ねたる悲しき經驗を有し、「別れの時」の悲哀と憂愁と温柔と縹緲とに對する微細なる感覺を持つてゐたに違ひない。其極愛せる祖母の死は早くも彼に「別れの時」の切なさを教へた。後年ワグネル及び其徒と背き去つた事が如何に深刻なる「別れの時」の悲哀を彼の腦裡に刻み込んだかは今更繰返す迄もないことである。彼の思想は彼の生活の寂寞を犧牲として購はれたる高價なる「必然」であつた。此故に私は彼の思想の眞實を信じ、此故に私は彼の人格の純潔と多感とを懷しむのである。
 概括せる斷言は私の憚る處であるが、私の心臟の囁く處を何等の論理的反省なしに發言することを許されるならば、「別れの時」の感情はあらゆる眞正の進歩と革命とに缺く可らざる主觀的反映の一面である。あらゆる革命と進歩とに深沈の趣を與へて、其眞實を立證する唯一の標識である。「別れの時」の悲哀を伴はざる革命と進歩とは處僞か誇張か衒耀か、孰れにしても内的必然を缺く浮氣の沙汰とよりは思ひ難いのである。再び一己の感情に形而上學的背景を與へることを許されるならば、これは恐らくは世界及び人生の進化が一面に於いて必然に悲壯の要素を含蓄するからであらう。宇宙及び人生を此の如く觀、此の如く感ずる點に於いてはイプセンも亦吾人の味方である。
 進む者は別れなければならぬ。而も人が自ら進まむが爲に別離を告ぐるを要する處は――自らの後に棄て去るを要する處は――曾て自分にとつて生命の如く貴く、戀人の如く懷しかつたものでなければならぬ。凡そ進歩は唯別るゝを敢てし、棄て去るを敢てする點に於いてのみ可能である。曾て貴く、懷しかつたものに別離を告ぐるに非ざれば、新たに貴く、懷しき者を享受することが出來ない。新たに生命を攫む者は過去の生命を殺さなければならぬ。眞正に進化する者にどうして「別れの時」の悲哀なきを得よう。思へば此の如くにして進化する人間の運命は悲しい。「別れの時」の悲哀に堪へぬ爲に進化を拒み過去の生命に執着する卑怯未練の魂も、其情愛の濃かに心情の柔かなる點を察すれば、亦憎くないと云はなければならぬ。
 凡ての個人と等しく凡ての文明にも亦別れの時が來る。敢て之を乘り切ると逡巡して進化を拒むとの孰れを問はず、兎に角に別れの時は襲ひ來らなければならぬ。客觀的に見て日本の文明が「別れの時」に臨んでゐることは萬人の等しく認むる處である。然るに「別れの時」の感覺が痛切に人々の主觀を襲つて來ないのは何故であらう。
 今の世に「新しい人」を以つて自任する人は多い。一方に「過去」を理想として現實を呪ふ人も亦次第に其數を増して來る有樣である。併し所謂「新しい人」は果して過去の餘影を留めざる全然新しき人であらうか。所謂國民精神の擁護者も亦果して古代理想を一身に體現し盡した人であらうか。私の見る處では、此の如きは兩者共に殆んど絶無に近い。事實上彼等は共に半ば新しく半ば舊き、不可思議なる混血兒であつて、唯理想上或は新に赴き或は舊に傾向するに過ないのである。從つて新と舊との戰は敢て社會一般に投影する迄もなく、彼等自身の中に其慘憺たる姿を現じなければならぬ筈である。然るに何事ぞ事實は之に反して、所謂「新しき人」は全然自ら與り知らぬ者の如くに舊を嘲り、所謂「國民精神の擁護者」は暴君の如き權威と自信と――並びに無知とを以て新を難じてゐる。此の如きは未だ問題を其焦點に持來すことを知らざる無自覺の閑葛藤であつて、哲學的に云へば未だ眞正に「別れの時」の問題に觸れざる者である。「別れの時」の感覺が痛切に各人の主觀に迫り來らざるも固より當然と云はなければならぬ。「別れの時」の感覺を伴はざるが故に、保守と急進との理想は日本の文明に於いて未だ決然たる對立を形成してゐない。「別れの時」の感覺は保守と急進との間に一味心情の交感を與へる、同時に避く可からざる抗爭の悲壯なる自覺を與へる。
 所謂「新しき人」は先づ自己の中に在りて「舊」の如何に貴きかを見よ。見て而して之を否定せよ。「別れの時」の悲哀を力として却て更に強く「新」を肯定するの寂寥に堪へよ。所謂「保守」の士は先づ自己に感染して強健なる過去の本能を浸蝕せむとする「新」の前に恥ぢ且つ恐れよ。「別離」に堪へざるの濃情を以つて強く「舊」を保存し、烈しく「新」を反撥せよ。此の如くにして兩者の思想に始めて眞實と悲壯と深刻とがあるであらう。
 

 
 他人の爲に自らの身を殺し得る人の心情は尊い。他人の生活を直ちに自己の生活の内容として、其人の死によりて直ちに自己の生活の中心義を奪はれたと感ずる程、深く他人を愛し、深く他人の魂と相結ぶことを得る人の心情は羨しさの限りである。眞正に愛を解し、眞正に他人と自己との融合を經驗するを得る純潔高貴なる魂にして、始めて他人の死を悲しみて自刄するを得るのである。私は此高貴なる魂の前に、眞正に他人との融合を經驗し得ず、純粹に個我を離れたる愛情に一身を托するを得ざる自分の矮小なる姿を恥ぢざるを得ない。少くとも純一なる主義、純一なる力を以つて自己の生活を一貫するを得ざる自らの迷妄を恥ぢざるを得ない。戀愛の爲に殉ずる人も、君主の爲に殉ずる人も、自分の不純を鞭つに於いては二致あるを感じないのである。
 私は乃木大將の自殺が純粹の殉死であるか否かを知らない。又假令純粹に殉死であるとしても、其道義的意義が客觀的に情死者と同一であると信ずる者ではない。唯若し大將の自殺に少くとも殉死の一面があるならば、其殉死には情死者と共通なる「人として」の美はしさあることを感ずる丈である。其殉死には誠實と純潔との不滅の教訓あることを感ずる丈である。而して私が此意味に於いて深く大將の死に動かされたことを告白する丈である。
 更に人をして其別離の情に殉ぜしむる所以の對象が殉死者の私情我慾と相渉る事少ければ少ない程殉死者の愛情は少くとも一層珍貴となり、稀有となり、哲學的となる。この意味に於いて君主に殉ずる者の心情が戀愛に殉ずる者の心情に比して獨得の意義を有し、特異の印象を與へ、特異の感化を及ぼすことは云ふ迄もない。吾人は大將の殉死によりて純潔と無我との教訓に接するのみならず、又特異なる愛情の實例を示された。私は人間心理の研究者として此特殊にして恐らくは次第に滅び行く可き現象に對して格段の興味を感ぜざるを得ない。大將の自殺は他人の愛情に殉ずる者の一般的關係を離れて尚一層深き問題を吾人の前に提出する。其問題は一面にトルストイの「他人に仕ふる生活」と共通の問題である、一面に社會と國家と、民衆と君主と、高調の方面を異にする點に於いてトルストイの立脚地と對立する。大將が其死後に遺したる此問題は一般國民の問題たること云ふ迄もないが特に公的生活によりて榮達し、公的生活によりて私情私慾の滿足を圖る人にとりて最も痛切なる問題であらう。大將の自殺によりて彼等の胸中に幾分なりとも不安の影が宿つたならば、私は彼等に與へたる不安の故に、大將の死に向つて感謝せざるを得ない。
 私は大將自刄の動機と問題とに就いて如上の感想を抱く。大將自殺の客觀的意義と、大將の信奉せる武士道とに就いては、茲に輕率なる感想を語ることを好まない。唯火を睹るよりも明かなるは大將の死が此の如き客觀的方面にも種々の問題を殘してゐることである。而して此方面に於いて自由討究を試みるは國賊でも非國民でもないことである。日本將來の文明を如何にす可きかは至難にして至重なる問題である。乃木大將の悲壯なる死を以つてするも此問題に鐵案を下して、反對者を強ひるの權利なきは云ふ迄もない。私は此點に就いて倫理學者並に社會學者の愼重なる審議を希望する。私は唯人間の行動並に心理に對して其内的意義を考ふることを喜ぶ。
 

 
 理想主義の人にとつて「ある事」は無意義にして、意義あるは唯「ある可き事」である。彼にとつて事實とは「ある事」に非ずして「ある可き事」である。此の如き主義及び教養の結果、「ある可き事」に關係すること少き或種の「ある事」は無に等しくなる。「ある可き事」のみを念頭に置くが故に「ある可からずして而もある事」は次第に意識より消えて、自然に自己を擧げて「ある可き事」のみを以つて充された人となるのである。彼等の世界は凡て意識と條理とである。彼等は此意識と條理との世界に於いて純潔に健全に感激に滿ちたる充實の生活をすることが出來るのである。
 乃木大將は旅順に其二愛兒を失つた。又大將は明治末期の時勢に就いて頗る慷慨の情を抱いてゐたとの事である。此二事を根據として推測すれば大將晩年の心情には頗る寂寞の影なきを得なかつたであらう。武士の條理に明かなる大將が此寂寞の故に自殺したのでないことは云ふ迄もない。併し此寂寞の情が無意識に大將を動かして自殺の氣分を助成したことは必ずしもないとは云はれまい。假に此の如き心理作用が意識の奧に働いてゐたとしても、大將は之を意識の明るみに牽出して自ら解剖する樣な必要は寸毫も感じなかつたであらう。徹頭徹尾殉死、若しくは責任を果すの死と信じて、透明なる意識と幸福なる道義的自覺とを以つて自刃し得たであらう。而も此間に寸毫も虚僞と粉飾との痕を留めざるは大將が完全なる理想主義の人であつたからである。理想主義が其人格となつてゐたからである。
 吾人は屡※二の字点 吾人の周圍に墮落せる理想主義の老人を見る。「ある可き事」と「ある事」との中間に迷ひて「ある可からずしてある事」を意識し乍ら、之を粉飾し塗抹する老人を見る。吾人は此の如き老人に毒せられて、理想主義其物を輕蔑するに馴れた。然るに今乃木大將は吾人の爲に理想主義の崇高なるものを示された。人間心理の研究者として、吾人は此稀有にして恐らくは將來益※二の字点 減少し行く可き實例に對して茲にも亦深き興味を感ぜざるを得ない。私は凡ての事件と行動とに就て其内的意義を觀察するを喜ぶ者である。

(十月六日)