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【旧制高校生必読の書】三太郎の日記 10 阿部次郎

santaro

十 蚊帳
 

 
 蚊帳は艶なもの、悲しいもの、親味の深い懷しいものである。木綿の蚊帳はあの手觸りのへな/\な處から、あの安つぽい褪め易い青色まで、如何にも貧乏らしくて情ないが、麻の蚊帳の古い錦繪に見る樣な青色や、打たての生蕎麥の樣なシヤリ/\した手觸りや、絽の蚊帳の輕い、滑かな、凉しい視覺觸覺など、蚊帳其者の感じが既に夏らしく爽かな氣分を誘つて來る。更に之を人事と聯關させて來ると蚊帳の齎す情調は隨分複雜に豐富になる。中形の浴衣に淡紅色の扱帶しどけなく、か細く白い腕もあらはに、鬢のほつれ毛を掻上げてゐる姿が、青い蚊帳の中に幽かに透いて見える場合もあらう。病人の蒼白い顏にフツ/\と浮ぶ汗の玉を蚊帳越しに覗いて見る痛ましい夜もあらう。幽靈は蚊帳の中には這入れないから、恨めしい人の寢姿を睨み乍ら夜通し蚊帳のぐるりを※「廴+囘」ると云ふ。雷よけの晝蚊帳は加賀鳶梅吉の女房にあらぬ濡衣をも着せた。蚊帳と云ふ青い物は悽い上にも色つぽく夏の生活を彩つてゐる。
 

 
 一つ蚊帳に寢ることは一つ部屋に寢ると云ふよりも遙かに對手との親しみを深くする。久しぶりで逢つた友達でも、廣い部屋に離れ/″\に寢るよりは小さい蚊帳の中に枕を並べて、互の汗の香を嗅ぎ乍ら寢苦しい一夜を明した方が、どの位思出の色が濃いことであらう。野と衢とは人と人との住む處として餘りに惶しく、餘りに空漠である。人と人との魂の距離を縮める爲に人の家はある。更に其距離を近くせんが爲に人の住む部屋はある。人の住む部屋の中に一區を劃して、人と人との魂の呼吸を最も親密に相通はしむる者は夏の夜の蚊帳である。


 
 夜遲く外から歸つて自分の居間に通る。細目に點けてあるランプの光が蚊帳にうつつてゐるのを見る時の心持。蚊帳の中に幽かな寢息をきく時の心持。


 
 母親は添乳の手枕を離れて、乳房を懷の中にかくし乍ら、スヤ/\と眠つてゐる子の上にソツと幌※「巾+厨」をかける。女性獨特の世界と女性獨特の幸福が涙を誘ふ柔かさを以て男の想像の世界に迫つて來る。
 

 
 自分は田舍で育つた。田舍では大抵の家に土藏があつて、蚊帳などは秋の初から翌る年の夏が來る迄土藏の隅に押し込められてゐる。下水の孑孑がそろ/\蚊になり出す頃に、祖母は屹度土藏に蚊帳を取出しに行く。根附の樣に祖母のあとを追※「廴+囘」してゐた自分はよく土藏の中に隨いて行つたものであつた。藏の二階の薄暗い隅から幽かに呻り乍ら飛び出す二三の晝蚊の羽音と、一年目に日の目を見る蚊帳の古臭い臭とは、自分の幼い頭にどんなに入梅の豫感を刻み込んだ事であらう。今でも入梅を思ふと、あの音とあの臭とが幽かに浮んで來る。
 

 
 秋になつて蚊帳を釣らなくなつた晩の廣さ、淋しさ、うそ寒さも亦忘れることが出來ない。北の國では蚊帳の釣手の獨り殘る頃にはもう機織蟲が壁に來て鳴く。細めたランプの光を暗く浴び乍ら、蒲團の中に秋らしく小さくくるまつて、機織蟲の歌をきいて寢た頃の心持は未だにあり/\と意識の奧に浮んで來る。初めて蚊帳を釣らなくなつた晩に沁々と物懷しく秋になつたなと感じたあの心持――あの鮮かな、青く澄んだ、ふつくらした感覺をもう一度取返して、自然のあはれをつく/″\味ふことが出來たら、それ以來積んで來た一切の經驗と知識とを代償とするに何の未練もない。