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【旧制高校生必読の書】三太郎の日記 9 阿部次郎

santaro

九 三樣の對立
 
 

 
 人は我持てりと云ふ。余は我持たずと云ふ。人は確信し宣言し主張する。余は困惑し逡巡し、自らの迷妄を凝視する。人はニイチエの如く自覺の高みに在つて迷へる者を下瞰する。余は麓に迷ひて遙かに雲深き峰頭を仰ぐ。人は一筋に前へ前へと雄叫びする。余は前へ進まむとして足を縛られたるが如き焦躁に捕へられ乍ら、自らの腑甲斐なきに涙ぐむ。人は日の光の鮮かにり渡る中に在つて占有と勞働との喜びに充ち溢れてゐる。余は霧の如きものの常に身邊を圍繞して晴れざることを嘆ずる。彼等は樂觀し余は悲觀する。彼等は肯定し余は否定に傾く。余をして悲觀と否定とに傾かしむる者は余の生活と運命とを支配する不思議なる力である。不思議なる力の命ずる限り、余は此苦しき生活に甘じて、身邊方寸の霧を照す可き微光を點じて生き存へなければならぬ。嗚乎併し暗き否定の底にも洞穴に忍び寄る潮の如く微かににじみ來る肯定の心よ。思ひがけもなく、ひそやかに、ほのかに、夕月の光の如く疑惑の森に匂ひ來る肯定の歡喜よ。此悲しき中にも温かなる思は、強暴なる肯定者に奪はれて、獨り脆弱なる否定者にのみ惠まるゝ人生の味であらう。
 

 
 余は自覺せりと自信することは其自身に於いて既に力であるに違ひない。併し唯自覺せりと自信する輪廓のみあつて、自覺の内容が渾沌と薄弱とを極めてゐるならば――極めて薄弱なる内容にも極めて強烈なる自信が附隨し得ることを忘れてはならぬ――何の彼等を珍重する迄もなく、巣鴨に行きさへすれば其尤なる者が室と室とを相接して虎視してゐるのである。自覺の價値と眞實とを立證するものは自信に非ずして内容である。力に滿ちたる内容である。
 自覺することと自覺を發表することとは本來別物である、内容を有することと内容を發表することとも亦本來別物である。併し單に自覺の自信のみを發表して自覺の内容を發表せぬ者が、世間の眼から見て僞豫言者とせらるゝはやむを得ない。發表に價するものは自信に非ずして内容であるからである。
 今の世にも亦自覺せりと稱する者が尠くない。併し少數の謙遜なる自覺者を除けば、彼等の自覺の内容は、余の如き懷疑者の眼から見てさへ氣の毒な程新鮮さを缺き緻密を缺き眞實を缺いてゐる。余は無内容なる自覺者の外剛内柔なる態度を見る時、先づ微笑し苦笑する。彼等が猶自ら恥づることを知らずして、野蠻に他人を壓迫する時、余は聲を揚げて嘲笑をさへしてやらうと思ふ。自分にも身邊方寸の霧を照す微光がある。
 内容を示せ。内容を示せ。
 

 
 ダンテは自分の罪は傲慢プライド羨望エンヰイとに在ると云つたと聞く。余の罪も亦傲慢プライド羨望エンヰイとにあるらしい。力に於てダンテに似ずして罪に於いてダンテに似るは余の悲哀である。
 

 
 獨創を誇るは多くの場合に於いて最も惡き意味に於ける無學者の一人よがりである。古人及び今人の思想と生活とに對して廣き知識と深き理解と公平なる同情とを有する者は、到る處に自己に類似して而も自己を凌駕する思想と生活とに逢着するが故に、廉價なる獨創の誇を振翳さない。古人及び今人に美しき先蹤あるを知らずして、古き思想を新しき獨創として誇説する無學者の姿程醜くも慘ましくも滑稽なるものは尠い。
 自分の生活と思想とを獨得にせむが爲に古人及び今人と共通なる内容を驅逐するは、吾人の生活を極端に貧くすることである。プラトー、ポーロ、オーガスチン、聖フランシス、スピノーザ、カント、ゲーテ、シヨーペンハワー、ニイチエ、ロダン等の思想と生活とを拒んで吾人は如何なる新生活を獨創す可きであるか。
 机上の萬葉集をとる。「朝に行く雁の鳴く音は吾が如く物思へかも聲の悲しき」と云ふ歌の思ひは明治の今日に於いて更に歌ひ返す可き社會的必要のない歌であらう。萬葉歌人の歌の内容を其儘に歌ひ返すことは明治の歌人の恥辱であらう。併し歌ふ必要のないことも經驗する必要はある。此歌の思ひを沁々と身に覺える事が出來ないことは如何なる世に於いても其人の生活の缺陷である。一度書き表はされたことは其物が失はれぬ限り再び書き返す必要がない。一度發見せられたる眞實は凡ての時に渡りて凡ての人の胸に噛み締められることを要する。獨創を急ぐは發表にのみ生きる者の卑しさである。
 自己の生活を自然に發展せしめ行く間に、先人及び今人の經驗に逢着して「此處だな」と膝を打つ場合がある。彼等と同感して其の眞意義に悟入する場合がある。此等は凡て自己にとりて新たなる獲得であつて決して模倣ではない。
 自己の中に他人と異る性格があり、現代に他の時代と異る要求がある限り、吾人は先人及び他人と異る者とならずにはゐない。強ひて自己を他人と異れる者にしようとする努力は人生の外道に過ぎない。商賣人の成功策に過ぎない。此努力が如何に其人を高處に押し進めても、其人の生活には必ず人生の至醇なる味に接觸し得ざる一味の空虚があるに違ひない。
 自己を壓迫し強制するものとして先人の經驗は惡しき「型」である。自己の望んで得ざる處を實現せるものとして、自己の進撃せむとする方向を標示するものとして、先人の經驗はいとよき型である。吾人は惡しき型を蹂躪すると共によき型を崇敬することを知らなければならぬ。先人が經驗して吾人が未だ經驗せざる處、古人が殘し置きたる經驗にして吾人の悟入を要する處――吾人の前には如何にいとよき型の多いことであらう。吾等は此等のいとよき型の前に眞正の謙遜と敬虔とを學ばなければならぬ。悟入と模倣と一致と追隨を區別するは極めてデリケートな問題である。
 余は他人と區別する爲めの獨創を求めずして、唯生活の中核に徹する眞實を求める。余は先人及び今人と一致することを恥ぢずして寧ろ内的必然を離れたる珍説を恥とする。
 

 
 心の内に皮肉なる者の聲が聞える――汝の思想と生活とが先人及び今人と共通することの恥辱に非ざるは既に之を領す。汝の發表する思想と生活とが古人及び今人の思想と生活とに比して何の特色もなくば、何處に存在の理由があるか。
 余は此詰問に對して答ふる所以を知らない。無學にして懶惰なる余は、余の思想と生活とが如何に古人及び今人と一致し、如何に古人及び今人と異なるかを判定するの力をすら持つてゐない。唯余の云ふ處が古人の云ふ處と何の異る處がない場合に於いても、余自身の生命を裏付けて再び之を繰返す處に微かなる滿足を感ずる丈である。

(七月八日午前)