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【旧制高校生必読の書】三太郎の日記 8 阿部次郎

santaro

八 生と死と
 

 

死を怖れざることの論理――一厭世者の手記より。

 余の生に何の執着に價する内容があるか。凡ての經驗は之と矛盾する何等かの記憶、何等かの豫想、何等かの論理に脅かされて、酒は水と交り、形は影と混じ、現在は過去と未來とに汚されてゐる。全心を擧げて追求す可き目標も、全身を抛つて愛着す可き對象も、全存在を震撼す可き歡喜と悲痛とも最早余にとつては存在してゐない。絶滅の恐怖は唯絶滅せしむるに忍びざる何物かを確實に占有する者にのみ許さるゝ情緒である。眞正に生きる者にのみ許さるゝ經驗である。然るに今死が余より奪はむと脅す處は眞正の生に非ずして唯生の影である。余の前に置かれたる選擇は生か死かに非ずして、生の影か死か、死に劣る生か死かに過ぎない。固より余は淺薄なる愛情によつて親朋に繋がれてゐる。余は彼等の世界から消失することを悲しみ、余の死を慟哭す可き彼等の悲哀を憐む。併し余に眞正の生を教へるの力なき一切の關係は要するに余にとつて眞正に存在の價値があるものではない。彼等は畢竟未練に過ぎない。幻想に過ぎない。此未練を擺脱すれば、余は常に死に對して準備されてゐる。死よ。汝の欲する時に來りて余を奪ひ去れ。
 加ふるに死は生の自然の繼續である。最もよき生の後に最も惡き死が來る理由がない。死と死後とは人智の測り知る可からざる處であるが、唯死に對する最良の準備が最もよく生きることに在るは疑がない。名匠の手に成れる戲曲は最後の幕も亦美しいに違ひがない。余の問題は此苦痛と戰ひ、此悲哀と鈍麻との波をわけて、如何に斯生の價値を創造す可きかに在る。創造の成果は甚だ疑はしい。併し余が生存する間は此事を外にして第一義の問題がない、第一義の事業がない。死の恐怖は痴人の閑問題である。
 

 

死を恐怖することの論理――一懷疑者の手記より。

 我が生には未だ深き執着に價する内容がない。併し此判斷は現在の余の事實に適用するのみである。此判斷は一切の生を擧げて其價値を否定し、余が生の蓋然性プロバビリテイ可能性ポツシビリテイとを悉く破壞し去る丈の力を持つてゐない。一切の生と、其プロバビリテイとポツシビリテイとを擧げて無價値と斷じ去る者こそ眞正に死を怖れない者であらうが、此の如く斷じ去るは厭世者の誇張である。飛跳シプルングである。質實にして謙遜なる反省の上に立脚する者は、未だ知らざる生の豫感に動かされて、却て深く生を執着することを知る。眞正に生きたる者は即下に絶滅するも猶余は眞に生きたりと信ずる自覺が慰藉となる。眞生の豫想に生きる者は此豫想を絶滅せむとする死に對して特別の戰慄なきを得ない。死は其人の生を根柢から虚無に歸せしめるからである。余は生きず、余は生きむと欲す、故に余は死を恐る。余の死を恐るゝは嫩芽の霜を恐るゝ心である。
 余は到底生きる力を持つてゐない者かも知れない。生に對する憧憬を抱いて永久に生きることの出來ない者かも知れない。併し余が肉體の生命を保つ限り、現在の事實として余には「生きむと欲する意志」がある。「生きむと欲する意志」は盲目に本能的に死を怖れてゐる。然るに死は常に一躍して余を捕へることをしない。鼠を弄ぶ猫の如く屡※「二の字点」余の「生きむと欲する意志」を脅かして余が生に不安の影を落す。余を死に導く力に對して何等の覺悟なき限り、吾人の生には常に死の影が交つてゐる。一度自己を保護する薄弱なる人工の搖籃を離れて、人間と社會と文明とを包圍して其運命を掌中に握る偉大なるエホバの前に立つ時、死の不安は刻々吾人を脅かして、生きるだに堪へざらしめる。吾人は吾人の生を確立せんが爲に吾人を死なしむる力を凝視しなければならない。死の恐怖は吾人の生を生の根柢に驅る。
 而して死が最後に其鐵腕を伸して急遽に余を襲ふ時、死に對して何等の準備なき余は、此フレムトなる力と對抗して不安に滿ち、絶望に滿ち、戰慄と動亂とに滿ちて其手に落ちるであらう。余は死の刹那に於ける此の如き精神的苦悶を豫想するに堪へない。單に此刹那に對する準備の爲にも、死の恐怖は何等かの解決を強請する問題と云はなければならぬ。
 嗚呼「余を死に導く力」よ。余は汝を諦視し汝を理解せむと欲す。汝の中に潛む「必然」を認めて之と握手せむと欲す。これと握手して余の一身を汝に托せむと欲す。死を恐怖せざるの論理は胡魔化しに過ぎぬ。感覺鈍麻に過ぎぬ。
 

 
 余には死に對する何等の準備もない。余は暴漢の手に捕へられたる妙齡の處女の如く、全力を擧げたる抗爭と、肺腑を絞り盡したる絶叫の後、力盡きて漸く死の手に歸するであらう。
 

 
 余が急遽に死の手に奪ひ去られたとする。余の死後に此日記が殘つたとする。此日記を讀んで、余が唯死に對する不安恐怖の念にのみ滿されて、何等安立の地を得なかつたことを發見する時、余を愛する者の悲哀は實に絶大にして、全く慰藉の途なきを覺えるであらう。併し後人に殘す悲哀が如何に絶大であつても此事は事實である。余は死に對する不安と動亂とに滿ちて死んだのである。死に對する諦めもなく、死後の生活に對する光明もなく、みじめに力なく死んだのである――若し死の瞬間に奇蹟的の經驗が起つて余の精神を靈化するに非ざれば。
 

 
 余を包圍する不思議なる力よ。余は汝を神と呼ぶ可きか惡魔と呼ぶ可きか、攝理と呼ぶ可きか運命と呼ぶ可きか、自然と呼ぶ可きか歴史と呼ぶ可きかを知らない。唯余は汝が余の一切の生活――歡喜と悲哀と戀愛と罪惡と――を漂し行く絶大なる力なることを知る。やむを得ずんば余は汝に對して弱小なる余を憐めと云はう。併し許さる可くは余は一切のセンチメンタルなる哀泣と嘆願とを避けて、唯汝と一つにならむことを祈りたい。汝と共に働き、汝と共に戲れ、汝と共に殘虐し、汝と共に慈愛する者とならむことを祈りたい。

(七月六日夜)