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【旧制高校生必読の書】三太郎の日記 7 阿部次郎

santaro

七 山上の思索 
 

 
 赤城は柔かに懷かしい山である。併し頭上を密閉する雷雲と、身邊を去來する雲霧と、絶えて行人なき五里の山道とは人工に腐蝕せる都會の子を嚇すに十分であつた。自分は全存在の根柢を脅かして殺到し來る自然の威力の前に戰慄し乍ら、自分の生活の如何に宇宙の眞相に徹すること淺く、漂蕩し、浮動し、兒戲し、修飾する生活であるかを思つた。此大宇宙の中に在つて、自分が自由に快活に呼吸し得る空氣、自分の生活が眞正に自己の領域として享受し得る元素エレメントは極めて少い。一度家庭と朋友との團欒を離れ、一歩を都門の外に踏み出せば、自分の情調は直ちに混亂と迷惑とに陷らざるを得ない。今大自然の威力と面々相接して自分は頻りに自我の縮小を感ずる。併し此感情を征服して大自然と合一すること能はざるが故に、換言すれば生死を度外に附して威壓せらるゝの自己を威壓するの自然と融合せしむること能はざるが故に、自分の意識を占領する者は常に恐怖不安矛盾の情調であつて崇高エルハーベンの感情は遂に成立しないのである。自分の嘗て經驗したる崇高は自然と面接して其威力と融合し得たる雄偉なる先人の魂を掩堡として、藝術品の影に身を潛めつゝ、親の手に縋り乍ら僅かに怖ろしき物の一瞥を竊む小兒の如く、辛うじて近づき得たる矮小なる影の國に過ぎなかつた。眞正に崇高を解する者は、換言すれば眞正なる崇高の創造者は、自己の全存在を大自然の前に投出して其威力と親和抱合し、其威力と共に動き共に樂しむ者でなければならぬ。生活の根柢を深く宇宙の威力の中に托する者でなければならぬ。嗚呼我が魂よ、汝融和抱合の歡喜を知らざる矮小なる者よ、汝根柢に到らずして、浮萍の如く動搖する迷妄の影よ、肆意にして貧弱なる選擇の上に其生を托する不安の子よ。汝の道は遠い。汝の道は遠い。 
 

 
 社會の前に、歴史の前に、他の人類の前に、自分は餘りに多くのジヤステイフイケーシヨンを持つてゐる。從つて眞正の謙遜を感ずることが出來ない。反語と皮肉とに飽和したる自分の道徳は自分の魂をゴムの如く碎け難く、鰻の如く捕捉し得ざる存在にして了つた。唯舊約の神エホバは自然の威力の名に於いて雷雲の中より自分の魂を壓迫する。自分の弱小なる精神と肉體とはエホバの前には何等のジヤステイフイケーシヨンもなく、赤裸々の姿を暴露して戰慄し慴伏する。文明と都會とに害毒せられたる自分の魂は、自然と野蠻との神によりて先づ其心を碎かれ、根柢から邪氣を洗はれなければならないのかも知れない。自分は今驕慢と恐怖と反抗と相錯綜する心を以つて人跡未到の深山大澤にエホバを禮拜する者の心を思ふ。先づ其魂を襲ひ來る可き無限の寂寞と恐怖と無力オーンマハトの自覺とは眉を壓する許り鮮かに自分の想像に迫つて來る。更に此感情をイーバーヰンデンして其上に出で、始めてエホバを我神、我父と呼び得可き日の曉の心――心を衝きて湧き來る無限の力と、青くひそやかに全心を涵す可き無限の靜寂と――も亦我が豫感する心の上に、幽かに遙かなる影を落して來る。 
 

 
 自然は如何に荒涼寂寞を極めてゐても二人三人と隊を組んで此荒涼の中を探る者は要するに社會を率ゐて自然に迫るのである。社會の掩護の下に自然を強要するのである。徹頭徹尾唯自己一身を挺して、端的に自然に面する者に非ざれば、眞正に孤獨を經驗し、眞正に自然の威力を經驗することが出來まい。單身を以つてフレムトなる力の中に浸入して行く時、フレムトなる力の中に自己を沒却して而も其中に無限の親愛フロイントシヤフトを開拓し行く時、始めて眞正に自己の中に動く力の頼もしさを感ずるを得よう。自分は人跡未到の地に入る探檢者と名山靈地を開ける名僧知識の心境に對して大なる崇敬の情を捧げる。エホバと和げる心も、未知の領域に邁往する勇氣も、荒涼たる自然の中に在つて新鮮に緊張せる情調も――悉く羨ましからぬものはない。物質の世界に於いても、精神の世界に於いても常に此「深み」と「張り」と「力」が欲しい。 
 

 
 人影も人里も見えぬ松の大木の並木路を辿る時には、どんなにか人と云ふものゝ臭が戀しかつたであらう。牛馬の踏み荒した無數の細路の間に迷つて、山巓から襲ひ來る霧の中に立盡した時、不圖眼に入つた牧牛者の影はどんなにか自分の心を温めたであらう。牧牛者は半里の山道を迂囘して自分を宿屋の前迄案内して呉れた。自分は禮心に袂の中にあつた吸ひ殘りの「八雲」をあげた。牧牛者は氣の毒さうに禮を云つて霧の中に隱れて行つた。 
 社會を離れて自然と自己との中に沒入せむとする時、自分は愈※「二の字点」社會的要求の徹骨徹髓なるを悟る。自らを社會より遠ざける時、自分は益※「二の字点」社會と自己とを繋ぐ縷の如く細きものの如何に自分の生活にとつて切要であるかを知る。余は山に入るに先だつて、山巓に自分を待つ可き靜かなる旅舍と、綿の入つた蒲團と、温かなる飯と、夜を照す燈火と、身を浸す可き湯と、親切なる主人とを豫想して來た。山に落付いた後、日毎に待たれるものは親しき人の音信である。余が自然と自己との中に沈湎すればする程、自分の周圍に在つて此沈湎を支へて呉れる人と云ふもの――社會と云ふもの――の温かなる好意が必要になつて來る。山中に迷ふ者を正路に導くことは八錢の「八雲」を以つて報いらる可き好意ではない。自分を快適に心の世界に逍遙せしむる爲に萬般の煩瑣なる世話を燒いて呉れることは、決して五十錢や一圓の旅籠料を以つて償ひ盡すことが出來ない。余は山に入つて始めて切實に社會に對する感謝の念を覺える。全然社會を蔑視し去るは忘恩である。 
 高きに翔る心が矮小なる者を蔑視し、卑俗なる者を嘲笑するはやむを得ない。併し純朴なる同胞の感情、小兒の如き社會的愛情を失ふことは決して些少なる損害ではない。 
 

 
 社會を嫌惡するは余が生活の一面に過ぎない。社會と隔離するは余が要求の一面に過ぎない。人類を嘲笑するは余が感情の一面に過ぎない。眞正の希望は社會と融和し人類と親愛したいのである。自然と社會と自己と、三面協和するに非ざれば吾人の生活は遂に全きを得ない。一切を包容する底知れぬ心を思ふ時、余が心は羞恥と憧憬とに躍る。 
 

 
 妥協を忌む、孤立を忌む、狷介を忌む。而も眞正なる融和包攝の心境の容易に到達し得ざることを思へば、慘として我が心痛む。 
 

 
 都會の猥雜なる刺戟を脱れて、靜かに本を讀み仕事をする爲に自分は山の中に來た。併し山の中に來て見れば自然は餘りに問題に富み、自然は餘りに自らの命に溢れてゐる。紙に刷つた文字の奧に浮ぶ朧な人生や、概念と概念とを校量し區別し排列する思索などを押し退けて、自然は今自分の生活の内容を滿してゐる。讀書と思索とに倦んだ際のリフレツシユメントに利用せむとしたのは餘りに自然を輕蔑した仕打であつた。躑躅の花の咲き殘る細徑は楢の森を出つ入りつして、緩かに峠の方に上つてゐる。自分は朝露の置く若草を踏み乍ら、色々のことを思ひつゝ行く。 
 

 
 人を對手にする生活は隨分苦しいことが多い。對手にする人も亦自己と同じ樣に弱い、氣の變り易い、自己と自然と社會との凡てに就いて樣々の苦惱を裹んでゐる人間であることを思ふ時、少くとも對手の心持を察してこれを勞らなければならぬ丈の苦勞がある。自分の察しが至らぬ爲に不知不識其神經を無視することはあらう。巫山戲る興味の圖に乘つて或程度迄人の神經を玩具にする樣な粗野な振舞も亦ないとは云へない。併し大體から云へば、憤怒と憎惡と輕蔑とに燃えて敢てデリカシイを無視する僅少の場合を除けば、人と人との間には相互に交讓する可憐なる苦勞の絶間もない。交讓は固より愛の發表である。併し假令愛の發表であつても、常に自分を加減し鹽梅する不自然と、我儘に自分の全體を露出し得ざるもどかしさと、對手に對する愛の名に於いて其前に自分の幾分を詐つてゐると意識する心元なさと、此等の入り亂れた感情が人と人との間に霧の如く立迷つて眞正に心の底の底迄さらけ出した朗かな融合を經驗することは人の一生に幾度もないであらう。親愛する魂と魂との間に於いても既にさうである。況して複雜なる利害の關係が混入し易い他人同士の應接は甚だ厭はしい場合が多い。人間は同類の間に於いて多く孤獨である。途中の遭逢に當つても素朴なる同類の親愛を感ずる程の優しさを持つてゐ乍ら、人の魂と魂とは何故か容易に根柢から一致することが出來ない。 
 同類の間に在つて孤獨なる人の魂は自然に向つて響を一つアインシテインメンにするの對手を求める。自然にも固より個性がある。或自然は自分を威壓し或自然は自分を拒斥する。併し自然には自分の弱い神經を痛ましめて迄も勞つてやらなければならぬ程の脆さがない。思ひがけない方面フエースに觸れて顏を反けなければならぬ程の卑さがない。自然の前に自分は我儘に露骨に自分の心をさらけ出すことが出來る。自分の心をさらけ出せば、苟も自分の親しみを感ずる程の自然ならば必ず自分と同じ心に動いて呉れる。自然の前に自分は孤獨ではない。暗室の中に一人淋しい思を培ふ時と、調を等しくする自然の中に獨歩する時と、吾人の經驗の色調の如何に性質を異にするかを思へ。同類の中に在つて孤獨なる人の魂に、自然は始めて奧底なき親しみと無限の融和アインシテインミヒカイトとの歡喜を教へるのである。 
 併し自分の親愛を感ずるは唯特定の自然である。嗚呼エホバと親愛し得る魂となり得むには、雲霧と雷霆との中にあつて之を親愛し得る魂となり得むには――

(七月六日夕)