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【旧制高校生必読の書】三太郎の日記 5 阿部次郎

santaro

五 さま/″\のおもひ
 

 
 如何にして新聞雜誌を讀む可きか、此問題が僕にとつては一苦勞である。全然讀まないのは現代に對して餘りに失禮である、同時に自分にとつても少々心細い。多くを讀むのは餘りに煩さい。同時に更に/\有意義なる生活と修養とに費す可き時間が非常なる蠶食を受ける。
 人格上思想上尊敬に價する少數の人を擇んで其人の作丈を讀むことゝすれば、甚だ簡單に現代日本との接觸が出來る譯であるが、それでは未だ知られざる者、竊に近づきつゝある者の豫感に觸れることが出來ない。現今の思想界藝術界には勿論尊敬す可き人が居るけれども、此等の人の大多數は唯自分と共鳴若しくは同感すると云ふ意味で尊敬に價するのみである、或は自分の持たぬものを持つてゐると云ふ意味に於いて尊敬に價するのみである。自分の精神を包んで之を高き處に押し進め、自分の精神の暗處を照して戰慄と羞恥と努力と精進とに躍らしむる者は後より來るか若しくは全然來らざるかの孰れかでなければならぬ。現代に對して觸れ甲斐のある觸れ樣をせむと欲する者は、決して未だ知られざる者を蔑視することを許されない。從つて名前を拾つて讀むことは未だ十分なる新聞雜誌閲讀法と云ふことが出來ない。
 唯最も安全にして秋毫の申分なき省略法は名前によつて讀まないと云ふことである。特定の名前に遭逢する毎に何の躊躇もなくドシ/\頁を飛ばして行くことである。固より人には時にとつて出來不出來がある。併し其人の内生活以上に卓出する出來もあり得なければ、全然内生活の俤を傳へぬ程の不出來も亦ある譯がない。作品を通して作者の内的生命に觸れむと欲する者は凡下なる者の佳作よりも偉大なる者の拙作に接することを樂しむ。凡下なる者の佳作を蔑視するの勇氣は吾人を新聞雜誌の呵責から救ふ唯一の道である。此道に從ふことによつて吾人は千頁讀む處を百頁讀んで事足りる樣になる。此方面に於ける生活の單純化は茲に立派に解決を得る譯である。
 尤も此の如くにして「讀まれざる文學者」は讀者によつてそれ/″\に選擇を異にするであらう。從つて如何なる小作家と雖も凡ての人によつて讀まざる部類に編入されるやうなことはないであらう。世界は廣く、造化の配劑は妙を極めてゐる。群小に至るまで夫々の讀者を有して文壇の一角に存在の理由を有することは感謝す可き天帝の恩寵である。吾人が吾人の標準に從つて「讀まざる人」を決定することは決して天帝の仁慈を妨ぐる結果には立至らない。萬人に共通して許されたことは各自の「讀まざる人」を選擇することである。
 ――僕はかう考へてゐる、併し僕は考へた通りに實行してゐない。退屈な時には讀まない筈のものも遂手にとることがある。手元にないものは假令讀まうと思つたものでも、遂愚圖々々してゐる間に敬意を表することを怠つて了ふ。斯のやうにして僕は親が附けて呉れた名前の三太郎らしく懶惰なる現代生活をしてゐるのである。併し考へ直して見れば、僕をひきずり出して雜誌屋の店頭にも立たしめず、雜誌持の友人の處にも走らしめないやうな作を讀まないからと云つて、何も大業に悲觀したり、親の附けて呉れた名前を侮辱したりするにも當らないことであつた。
 

 
 ――は例によつて女性を痛罵してゐる。併し其言ふ處を聞くと彼の非難は申分なく男にも當嵌りさうである。少くとも男の一人なる僕にはヒシ/\と當る處が多い。僕は寧ろ女性を呪ふ前に男性を呪ひたい。寧ろ男女の區別なく人間を呪ひたい。男に對立したる意味の女に對して、僕は唯自ら持たざる者を持てる人に對する親愛と尊敬とを感ずる。男性の散漫と不純と放縱との羞恥を感ずる。
 男は女の名によつて人間を呪つてゐる、女は男の名によつて人間を呪つてゐる。共に其最も求めてゐる處に就いて最も不滿を愬へてゐるのだから面白い。女を罵る男の根本の要求は本當に愛して呉れる女を發見することにあるのであらう。男を罵る女の根本の要求は本當に愛して呉れる男を發見することにあるのであらう。僕と雖も固より本當に愛して呉れる女が欲しい。併し僕はそれよりも先に、自ら本當の男であり、人間でありたい。僕の根本要求が茲にあるが故に、僕は男を嫌ひ、人間を嫌ふのである。問題は他人に在らずして自己にある、女に在らずして男にある。本當に男となり人間となるに非ざれば、假令眞正に愛して呉れる人があつても、僕には其愛を甘受し、味解する資格がない。淺ましきは男の要求に協はぬ女よりも寧ろ眞正に愛することを得ざる男である。三太郎は第一に男となり人間とならなければならぬ。僕の自己嫌惡には未だ女性を罵つてゐる程の空虚がない。
 

 
 決定した態度を以つて人生の途を進んで行く人の姿程勇しくも亦羨しいものはない。此等の人の日に輝く凛々しさに比べれば、僕などは唯指を啣へて陰に潛むより仕方がない。併し汝等は何故に愚圖々々するぞと叱る人の姿を見る時其人の長き影には強制と作爲と威嚇と附景氣と、更に矯飾僞善の色さへ加はつてゐるのは如何したものであらう。彼等に比べれば僕等は丸で品等を異にする上品の人である。彼等は僞人である、僕等は眞人である。彼等は飴細工の加藤清正である。僕等は血の通つてゐる田吾作椋十である。吾人をして僅に自信を保たしむる者は實に此飴細工の加藤清正である。
 僕は自分のつまらない者であることを忘れたくない。併し自分のつまらないことさへ知らぬ者に比べれば僕等は何と云ふ幸な日の下に生れたことであらう。此差はソクラテスと愚人との差である。此事を誇としないで、又何を誇としようぞ。
 

 
 自分のつまらないことを知る者はつまらない者でなくなるか。――つまらぬ者でなくなる者は上品の人である。併し下品の者はつまらぬ者なることを知つて依然としてつまらぬ儘に止つてゐる。嚴密に云へば眞正に自覺せぬ者、眞正に碎かれざる者であらう。僕は上品中の下品に屬する。僕の心は未だ眞正に碎かれてゐない。眞正に碎かるゝ日の來る迄僕は此苦しい日夜を續けるのだ。
 二三年前の夏、朝じめりする草を踏んで高野の山を下つた。宿坊を出る時に、一ヶ月の馴染を重ねた納所先生は、柔かい白い餅に、細かに篩つた、稍※「二の字点」青味を帶びた黄粉をつけて、途中の用意にと持たして呉れた。山を下れば食料の必要なき僕も、人の好意を無にせぬ爲に難有く之を受取つて、稍※「二の字点」持餘し氣味に風呂敷に包んで寺を出た。神谷の宿を出外れた坂路で僕は自分の前を行く一人の癩病やみに追付いた。僕は突差の間にあの餅を此人に呉れて荷物を輕くしようと思ひついた。癩病やみは其きたない顏に美しい笑を見せて、丁度飢じくつて弱つてゐる處でしたと、幾度も/\禮を云つた。さうして僕が輕く挨拶して通り過ぎる後から繰返し/\嬉しさうに感謝の念をのべた。僕は人にものをやつてあんなに嬉しがられた事がない。人から禮を云はれてあんなに嬉しかつたことがない。僕は自分の餅を呉れた動機を考へて恥かしくなつた。
 僕は此眞正に飢ゑた人を見て羨しかつた。心の底から與へられた幸福を經驗する人を見て羨しかつた。癩病やみは柔に白い餅の返禮として、眞正に求むる者の幸福を僕の眼の前に突付けて呉れた。此中有ちゆううに迷ふ生活から逃れて寧ろ彼の癩病やみになりたいと思ひながら僕は重い心を抱いて山を下つた。三年後の今日もまだ僕は眞正に求むる者の幸福を知らずにゐる。
 僕は與へらるゝ日よりも寧ろ求め得る日を待兼ねてゐる。併し道草を食ふことの趣味に溺れたる者の上には、恐らく死ぬ迄も待兼ねる日は※「廴+囘」つて來ないであらう。
 

 
 黒味を帶びた緑は日の影を濃くして、日の光を鮮かにする。初夏の森を彷徨つて、葉を洩るゝ光の戲れをじツと視凝めてゐると、自分は時として盲が眼を開いた時に感ずるだらうと思はれる程の驚きを感ずる。一瞬の間自然は「始めて見たる」ものゝの如く新鮮に自分の心に迫つて來る。何の誇張も虚僞もなく「驚いた」と名づけ得べき瞬間の經驗をすることが出來る自分は何と云ふ仕合者であらう。一切の哀歌に關らず僕の心は未だ死なゝかつた。嗚呼僕は黒ずんだ緑と、日の光と、初夏の空氣とに感謝する。

(五月十五日正午)