F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

【旧制高校生必読の書】三太郎の日記 3 阿部次郎

santaro

三 心の影
 
 
 

 價値ある情調を伴つてこそ知識も、思想も、乃至情緒其物も始めて身に沁みる經驗となる。全心の共鳴を惹起すこともなく、數知れぬ倍音と融け合つて根強い響を發することもなく、離れて鳴り離れて消ゆる思想や知識は餘りに乾枯びて、餘りに貧しい。明るみに輝く焦點の後には、暗きに隱れ、薄明の中に見え隱れする背景がなければならぬ。一度鳴れば心の世界の隅々に反響を起して、消えての後も意識の底の國に餘韻永く響く樣な知識と思想と情緒とが欲しい。一言にして盡せば心の世界に靈活なるシンボリズムの流通を感ずる生活がしたい。
 併し情調の生活は往々にして思想と人格とを拒むの生活となる。現實の生活が餘りに複雜にして思想の單純に括り難いことを知るからである。自我の發動が餘りに移り氣に、變幻多樣を極めて人格の不易に綜合し難いことを知るからである。昨日は何處に彷徨つてゐたやら、明日は如何なる國に漂ひ着くやら、此等は凡て知るを要せぬ、且知ることを得ぬ問題である。唯瞳を燒くが如く明かなるは現在の生活と其情調とである。其時々の情調を噛みしめて、其時々の共鳴を樂んで行くより外に吾人の生きる道がない。吾人の生活は刹那から刹那へとぼ/\と漂ひ流れて行く。
 此の如く永久に刹那々々の情調を追つて行くのがロマンチシズムならば世にロマンチシズム程淋しいものはあるまい。情調の放蕩の外に此世に生きる道がないとしたら他人は知らず自分は耐らない。「昨日」に對する不信の意識も淋しく、「明日」に對する不安の意識も亦淋しい。依つて立ち依つて安んずるに足る可きもの、若しくは包んで温めて呉れるものがなかつたら自分の心は永久に不滿である。自分の心の空は永久に曇天である。我心は漂泊し放蕩する情調を括る不易の或物に向つて喘いでゐる。之に觸れゝば複雜にして移り氣な自我の全體が自然に響き出し躍り出す樣な一つのキイノートに向つて喘いでゐる。嗚呼我が知らざる「我」は何處の空に彷徨つてゐることであらう。
 聖オーガスチンは神の中に憩ふに非ざれば平安あることなしと云つた。自分は要求の點に於て未だ中世に彷徨つてゐる男であらう。思想が欲しい。人格が欲しい。「神」が欲しい。

 要求を現實に化する根強い力を持つてゐる人にとつては或時を劃して天地が引繰返るに違ひない。或時期を境界として其生涯が著しい二つの色に染分られるに違ひない。併しノラと共に奇蹟を信ずることが出來なくなつた吾人にとつては、精神の如何なる昂揚もやがては引き去る可き滿潮である。高潮に乘じて歡呼し熱狂する自我の背後には、冷かに檢温器の水銀を眺めてゐる第二の自我がある。「我身を共に襠の引纏ひ寄せとんと寢て抱付締寄せ」泣いてゐる美しい夕霧の後には、皺くちやな人形遣の手がまざ/\と見えてゐる。此の如き二重意識の呪を受けた者の世界は光も暗である。狂熱も嘲笑である。悲壯も滑稽である。要するに一切がフモールである。
 此フモールの世界に安住して、目新しいフモールの發見に得意になつてゐられる人は幸福である。自分には其背後に奇蹟の要求が覗いてゐる。其笑には「現象の悲哀」が籠らぬ譯には行かない。

 一つの感情が旋律メロデイをなして流れて行く文藝は固より美しいに違ひない。併し二重意識の洗禮を受けたる吾人は、樣々の感情が即いたり離れたり調和したり反照したりしながら複雜な和聲ハアモニーを拵へて行く文藝でなければ物足りない。抽象的な調和統一は如何でも構はぬ。多量のデイツソナンスを交へた處に微妙なる情調の統一を保つて行けばそれでよいのである。自分一個の嗜好から云へば眞面目と巫山戲との中が割れて兩者が綯ひ交られて行く處に妙に遣瀬ない情調を喚起する、フモリスチツシユの作品は隨分好きである。心の傷に手を觸れて身にこたへる苦しさを樂しまうとする類であらう。
 嘗て富士松加賀太夫の膝栗毛市子の段を聽いた。洒落と浮氣で世を渡る彌次郎兵衞が其洒落と浮氣で持切れなくなつて、悄氣て弱つて本氣になる所に、しんみりした、悲しい、遣瀬ないフモールがあつた。又嘗て菊五郎の同じ膝栗毛赤坂の段を見た。併し其彌次郎兵衞は冥土の衢に彷徨つて、弱り切つて、本氣になつた彌次郎兵衞ではなかつた。踊り自慢の惡戲小僧が白張の提灯を被つて巫山戲てゐるとしか思はれなかつた。此場合に於いてフモールの印象を與へると與へぬとは作の本質を捉へると捉へざるとの相違である。自分は菊五郎を有望だと思ふ丈に、其現在の傾向を追うて慢心することを恐れる。菊五郎は一轉化しなければ唯鼻ツぱしの強い親分と、一通りの單純な滑稽の役者に過ぎない。悲壯と崇高とフモールとの役者になる爲にはもつと/\心の苦勞を積まねばならぬ。悲壯と崇高とフモールとを表現するに堪へざる俳優は吾人にとつて用のない俳優である。

(四四、一二、三〇)