F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

【旧制高校生必読の書】三太郎の日記 2 阿部次郎

santaro

三太郎の日記

一 痴者の歌

 世の中に出來ない相談と云ふ事がある。到底如何にもすることが出來ぬと頭では承知し乍ら、情に於いて之を思ひ切るに忍びぬ未練がある場合に、人は自分の前に突立つ冷かな鐵の壁に向つて出來ない相談を持ち掛け勝なものである。出來ない相談を持掛ける心持は「痴」の一字で盡されてゐる程果敢ないものに違ひない。十年壁に面して涙を滾してゐた處で冷かな壁は一歩でも道を開いて呉れ相にもない。實功の方面から云へば出來ない相談は無用なる精力の徒費である。唯出來ない相談を持掛けずに濟む心と之を持掛けずにはゐられぬ心との間には拒む可からざる人格の相違がある。
 實現を斷念した悲しき人格の發表――此處に「痴」の趣がある。痴人でなければ知らぬ黄昏の天地がある。

 我等には未來に對する樂しき希望がある。併し我等には又取返さねば立つてもゐても堪らぬ程の口惜しい過去もないことはない。過去の因果が現在の心持にだにの樣に食ひ込んで離れぬ場合も亦多からう。併し夢を食ふ貘でも過去を一舐にして消して呉れる力があらう筈もない。過去に向けられたる希望は凡て痴である。出來ない相談である。二十になつて漸く戀の心を悟つた藝者が、何も知らずに一本にして貰つた昔の事を考へて、取返しのつかぬ口惜しさに頬にかゝる後れ毛を噛み切つても、返らぬ昔は返らぬ昔である。血の涙でも昔を洗ひ去る譯に行かない。唯出來ない相談と知り乍ら又しても之を持掛けずにはゐられぬ心が誠の戀を知る證しにはなるのである。併し假令誠の戀を知る證しは立つても一旦受けた身と心とのしみは自然の世界では永恆にとれる期があるまい。燒け跡の灰は家にならない。燒け跡の灰は痴者の歌である。

 自覺とは因果の連鎖の中にある一つの環が自ら第幾番目の環に當るかを悟ることである。自覺をしても因果の連鎖は切れない。因果を超越するものは唯「新生」である。嗚呼併し自然の世界の何處に新生があるか。新生とは限りなくなつかしく、限りなく恐ろしい言葉である。

 因果の連鎖を辿り行く儘に吾人の世界には新しい眼界も開けよう。新しい歌も生れよう。併し其世界と其歌とには常に死靈の影が附纒つてゐる。天眞とも離れ過去の渾然たる文明とも離れた吾人の世界は「新生の歌」が響くには餘りに黴臭い。自分はせめて痴者の歌をきいて涙を流したいと思ふ。

(明治四十四年八月十四日)

 

二 ヘルメノフの言葉

 余は獨立の人格である。故に余は獨自の思想を持つ。但し獨自の思想を持つとは其結合の状態、統一の方法が獨自の面目を呈露するの意味であつて、其要素が悉く獨得であると云ふ意味ではない。要素に於て悉く獨得なるは狂者の思想である。他人と全然交渉なき怪物である。要素に於て共通にして結合に於いて獨自なればこそ余は友を持ち戀人を持つ。同時に余は余として人生の大道を行く。
 余が獨自の思想を組織する要素は、一面には現代の徒と共通である。一面には現代の徒と背いて古代の詩人哲學者と交感する。一面には現代と古代と共に超脱して獨得の閲歴に其根柢を置く。余は獨自の思想を詐りて苟くも安きを求むるの惡漢ではない。羊の皮を着て群羊の甘心を買ふの奸物ではない。余は獨自の思想を有する事を標榜して憚らず人生の大道を行く。
 余は憚らず人生の大道を行く。併し余は余が思想人格の全部を白日の下に晒して大道を濶歩することを恐れる。余は現代と矛盾する思想を發表するには細心なる辯解を附して前後左右を護衞する。重大なる損失を齎すべき思想は暫く裹んで之を胸裡に藏する。汝怯者よ、汝覆面して人生の大道を行く者よ。
 余の知慧は二重の組織より成る。内面の生活を蒸餾して其精髓を蓄へるは一つの知慧である。此知慧を警護して蛇の如く怜しく外界との調和を計るは今一つの知慧である。自分には此第二の知慧が苦々しい。第二の知慧は第一の知慧を保護すると共に又之を蒼白にする。小兒の如く無邪氣に、白痴の如く無選擇に、第一の智慧を放ちて世界を闊歩せしむる能はざるは、我が性格の弱きが故か、我が呼吸する雰圍氣の鉛の如く重きが故か。嗚呼我が魂よ、コボルトの如く躍れ跳れ。

 赤兒を豺狼の群に投ずるは愚人の事である。汝の右と汝の左とには汝よりも遙かに巧みに自ら守る人多きを見よ、汝の蛇の知慧は寧ろ少きに過ぎると一つの聲は云ふ。汝は汝の所持する物を公表するに時の利害を考量するに過ぎぬ。持たざるを持てりとし、持てるを持たずとする虚僞に比すれば遙かに上品ぢやないかと今一つの聲が慰める。併し此二つの聲は世間に對する申譯の言葉とはなつても自分に對する申譯とはならない。苟も蛇の言葉を解することが余には堪へ難く苦々しいのである。
 強者は自己の思想を外界に徹底せむが爲に發表の順序を考慮する。弱者は外界の壓迫を避けて靜に獨り往かむが爲に世間の鼻息を窺ふ。

 自分にとつて興味ある對話の題目は唯自己と自己に屬するものとである。併し此題目は他人にとつて死ぬ程退屈なものであらう。又他人にとつて興味ある對話の題目は唯其人と其人に屬するものゝみである。併し他人にとつて興味ある對話は自分にとつて死ぬ程退屈なことである。故に吾人が他人と對話して非常に面白かつた場合には、自分の對手に與へた印象は甚だ惡かつたものと覺悟せねばならぬ。又對手に與へる印象をよくする爲には吾人は非常な退屈を忍ばねばならぬ。兩者半々ならば其人の經驗は甚だ幸福なる經驗である…………
 レオパルヂは覺え帳にかう云ふ意味の言葉を書いた。此言葉を書いた時レオパルヂの唇には苦い、淋しい微笑が浮んだであらう。この苦い、淋しい微笑が此の如き蛇の言葉の生命である。處世の哲學を説く商業道徳の講師の樣に、ニコリともせずに此の如き言葉を發する者は一面に於て卑俗である、一面に於て痴愚である。

 薄命(D※「ダイエレシス付きA小文字」mmerung)が事物を美化することは屡※「二の字点」云はれた。此事は其自身に美しい事物に關しては適用することが出來ない。印象派の畫家は強烈なる光の戲れを愛するが故に白日を擇ぶ。自然の風光は白日も美しく薄明も亦美しい。薄明は唯其自身に醜いものを美化する。薄明の美化は自然よりも寧ろ人生のことである。
 自分の世界は呪はれたる世界である。我が意識の外に切り捨て、忘れ去り、葬り終るに非ざれば心の平安を保持し難き事柄が少からず眼前にウヨ/\してゐる。從つて我が心には抽象(Abstotraktion)の願切ならざるを得ぬ。抽象の願切なる限り、醜き物、厭はしき物、煩しき物に弱き光を與へて、之を意識の微かなる邊に移して呉れる朦ろは嬉しい光である。
 更に薄明は我が想像に活動の餘地、添補の餘地を與へる。余は朦ろなる事物を余自身に價値あるものとして創造する。此創造によりて事物の本質(Wesen)が浮んで來るか否かは明白でない。唯余自身の本質が薄明に乘じて對象に乘り移るの事實丈は疑はれぬ。從つて如何なる事物にも一定の光の下には美しく見ゆべき條件が潛んでゐることも亦爭はれぬ。抽象の意義は唯本質の榮えむが爲に雜草を刈り去る處にある。本質を逸したる抽象は無意義である。
 闇中に見る女の眼は凡て大きく潤を帶びて見える。此大きく潤のある眼を通じて想像の手を女の肌に觸れる時、女の肉體は凡て美しい。後姿の美しい女は其後姿が自分にとつては女の本質である。
 嗚呼併し明るみの中に見むと欲するやみ難き要求よ。明るみの光に消え行く幻の悲哀よ。此悲哀に促されて更に辿り行く人生の薄明よ。

 自分は未だインスピレーシヨンと云ふものを知らない。併し今まで散ばつてゐた思想が次第に纏つて、水面に散點してゐた塵埃の渦卷に近づくに從つて漸く密集し、歩調を整へて旋轉するが如き刹那の經驗は決してないことはない。思惟の脈搏が歩一歩に高まり、心のテンポが漸次に快速となるにつれて、肉體の上にも顏面の充血が感ぜられる。未だ鏡に向つて檢査する機會を持たないが恐らくは眼も潤ひ且つ輝いてゐよう。此時自分の心はムヅ痒いやうな苦しいやうな快感を覺える。
 此状態は何時襲來するときまつてゐない。併し多くは讀書の後、安眠の後の散歩中に來る。自分は思想の湧く間散歩をつゞける。さうして前に湧いた思想が後に湧く思想に壓されて記憶の外に逸せむとする頃、急いで家に歸つて紙に向ふ。併し紙に向ふ迄には散佚して引汐の樣にひいて了ふ場合が多い。結論は形骸を頭の中にとゞめても新生の熱は冷灰となつて了ふ。偶※「二の字点」寫しとゞめても讀み返して見れば下らぬことが多い。
 自分が經驗する思想の※「扮のつくり/土」湧は一尺ほれば湧いて來る雜水の樣なものであらう。深く鑿つて清冽なる純水に達する時の心持は自分にはわからない。併し湧き出るものは雜水で使用するに堪へずとも、兎に角※(「扮のつくり/土」湧の快感と苦痛とだけは知つてゐる。

 夕燒の空が河を染めてゐる。河沿の途を大人と子供とが行く。「もう歸らうぢやありませんか」と手をひいてゐる女が云ふ。「いやア、もつと行かうよ」と手をひかれてゐる子供が云ふ。疲れた親は活力に溢れた子供のアスピレーシヨンに水をさす。活力に任する子供は疲れた親に同行を強ひる。親と子とが自然の愛によつて結合されたるはお互の因果である。親の手に縋る事なしに河沿の途を遠く/\行く術を知らぬ子供のアスピレーシヨンは運命の反語である。
 夕燒の光は次第に消える。河筋は遠く白く闇の中に浮んで見える。河の面に霧が深くなる。

(四四、一一、二〇)