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風琴堂覚書 マヨヒガ 五 菅野 樹

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 街路樹の桜が今を盛りと咲き乱れる頃、久しぶりに私はあの方にあった。路面電車の電停で、行きかう電車を見送る青年が、あの人だと気付くのに、私には少し時間が掛かった。その人は私の姿を見つけると、莞爾と微笑んだ。綺麗に刈り上げられた坊主頭で、少し恥ずかしそうにも見えた。
「お元気でしたか」
 小さく頭を下げる私に、その人は言う。どうしてよりによって今日はひなちゃんがいないんだろう。私はことことと動きを速める心臓の音を聞かれてしまうのではないかと思う程、狼狽えていた。そんな気持ちでいるはずなのに、顔には出ていないらしく、その人はちょっと微笑を浮かべかけていた頬を、すっと平らかにしてしまった。
「いつも一緒の方は?」
「奥津さんは、今日はお休みです」
 電停に、淡い影を二つ並ぶ。その影を見つめながら、私は答える。このところ、ひなちゃんは欠席が多い。お母上のお身体の調子が悪いと耳にもしていた。
「貴女は御室君の妹さんなんですね」
 少し首を傾げるようにして私の顔を覗き込み、その人は言う。思えば、電停でお会いするのに名乗っていなかったことに気付いた。その人は私と同じことに気付いたのか、学帽をちょっとおどけたように取り、この辺りではよく聞く名前を名乗った。
「先日、用事があって東京に行ったんです。御室君、宿に会いに来てくれて。そしたら、お前が会っている眼鏡の女学生は俺の妹だからなって。……御室君は時々見透かしているみたいなことを言うなぁ」
 ふわりと最後は独り言のようだった。思わず見上げた私の視線の先で、その人は眩しそうに目を細めて、雲間から降ってくる陽の光を見つめていた。沈黙は思いのほか心地よく、私は言葉を返すことはせず、その人の影にほんの少し近寄る。
「これ、あの子が読みたいと言っていた本です、渡してあげてください」
 思い出したように私に顔を向け、その人は私に小さな風呂敷包みを差し出した。受け取った私が風呂敷を解こうとすると、結び目にそっと指を置く。そういえば、この方のお姿を見かけなくなる少し前に、ひなちゃんが本を貸してくれとねだっていたのを思い出した。ワーズワースの詩集、とか言っていたけれど、ひなちゃん、本はあまり読まないのだ。私は頷くと、雑嚢の中に風呂敷包みを滑り込ませる。
 路面電車がやって来る。その人が乗るはずの下りだ。だが今日は電停に立ったままだ。
「何処かに、行ってしまわれるんですか」
 私はつい、尋ねてしまった。その人の背中にも真っ直ぐに伸ばした首筋にも、何か張りつめたものが満ちていたからかもしれない。私の問いへの答えはなく、その人は学生服の内ポケットから万年筆を取り出した。
「これ、使ってください」
 パーカーの万年筆。私は肩を縮こまらせ、思わず身を退く。当人は穏やかな微笑のままでいる。
「こんな高価な物、いただけません」
 言葉とは裏腹に伸びそうになる手、雑嚢の肩紐をぐっと握りしめ私が呟くと、その人はぐいと私の右手を掴んだ。私の掌にしっかりと万年筆を押し当てる。
「じゃあ、預かっておいてください。我が家には立派な軍国少年がいるので、任せられないんです」
 その人は、真っ直ぐに私の目を見据えてくる。私は思わず震えた。預かる、何時まで。呟きを呑み込み、掌に押し当てられたその人の大きな手ごと、万年筆を握りしめた。私は空いている手で、色硝子の嵌った眼鏡を外す。目をしばたき、その人の顔をしっかりと見上げた。世界と同じ灰色で、穏やかな顔も童子のような微笑みも、影に染まっていくのを確かに見た。けれども私は目を反らさず、小さく頷いた。瞬間、その人はぱっと明るく笑った。目尻を下げ、きゅうと持ち上がった唇の端が震えた姿を、私は見てしまった。
「ありがとう」
 その人は言うとさっと私から身を放し、上りの路面電車が入ってこようとする軌道を、飛ぶように横切った。警笛がけたたましく鳴り響く。電停についた電車は人で溢れていた。私は満員の電車のぼろきれの様に疲れて押し黙る人達をかき分け、窓に張り付くと石橋の向こうまで一気に駆けて行くその人の背を見つめる。思わず、初めてその人の名を口にした、自分でも思いもよらないほど、大きな声だった。疲れた顔の人達が、険呑な目つきで私を見上げる。その人は振り返ることなく、暮れていく街の、その雑踏の中に埋もれてしまった。
 
 テーブルの上のロケットの写真を御室は暫く見つめていた。冷めかけのコーヒーを口にして、ほんの一時目を閉じる。
「生涯たった一人の友人、そう思っていながら、今まで忘れようとしていました」
 御室は弱い声で呟く。
「色々、約束していたことを果たせなかったからかもしれません。子供の約束ですから、他愛のないものです、可愛いものです。レコードを一緒に聞きましょうとか、おぜんざいを食べに行きましょうとか。戦争が終わりに近づくころ、私はほとんど寝たきりでした。ひなちゃん、この写真の子です、私のお見舞いに来てくれました。臥せっている私よりも青白い顔をしていたことを、覚えています。後に知ったのですけれど、その頃、彼女のお父上は戦死なさって、お母上は戦死の報と空襲の心労で御具合が悪くなられて。悲しかったでしょうに、私にはそんなことを一言も言わず、早く元気になってねと。なんでも父方のお爺様のお屋敷に、暫く住むことになったとか。そうして、このロケットを私に見せてくれて、私の写真を頂戴と。私は写真が嫌いでろくなものがなくて、それでも、彼女がこの写真はいいと言ってくれたものでした。お爺様は厳格な、やはり元軍人でいらしてね。お厳しい方だとか。それに、向こうに行ったらお友達がいないから、体がよくなったら遊びに来てと。お父上から誕生日祝いに頂いた天使がついた時計がとても綺麗で、オルゴールの音楽がとても素敵なの。そんなことを言っていました」
 御室は言葉を切ると、椅子の上にあったクラッチバックからペンケースを取り出した。中から取り出したのは、年季の入ったパーカーの万年筆だった。
「貴方のお兄様との約束も忘れていました。とても長い時間お預かりしていました、お返しします」
 御室が言えば主はちょっと目を見張り、万年筆を手にする。カーキ色の、少し焼けてしまったエボナイトの軸。それでも、ペン先は開いておらず綺麗だった。
「どうにも見つからなかったはずです、貴女がお持ちでしたか」
 主の言葉に御室は答えず、ゆらりと立ち上がる。そうして、石畳みの広場、丁度、街灯のある辺りで立ち止まり、その柱に寄りかかるようにして暮れゆく世界を見つめる。俺は、卓の上、年若い時間を内包したままの青年の写真に目を落とす。
「南太平洋の、どこか小さな島の海辺で砂になっている」
 主は呟いた。万年筆のペン先を外すと、主はチェイサーのグラスの中にそっとそれを沈める。ペン先からうっすらと、琥珀色が滲みだしてくる。主はじっと、その揺らぐ琥珀色を見つめていた。
 あの子は、ひなちゃんは、どうなったのだろう。御室が再び話を始める気配もなく、主が知っていそうでもない。卓の下で、俺は左手を包んでいる皮手袋を外した。俺の左手は過去を触る。卓の影で、火傷に引き攣れた左手を、一度ゆっくりと動かしてみる。昔に、自分で焼いてしまったこの手は、前ほどにはっきりとは見せてくれないけれど。俺はその手を伸ばし、青いエナメルのロケットをそっと、掌に包んでみた。
 
 あの、家にいた。
 だが部屋は薄暗く、僅かに差し込む月の明かりが、調度の形を朧に浮かび上がらせる。
 そうして、俺が訪ねたときに、どうしても振り返ることが出来なかった、開けることが出来なかったあの板戸が、大きく開け放たれている。
 細い月明かりに浮かんでくるのは、鮮やかな紅のペルシャ絨毯に染み込んでいく、深紅色の液体。左の肩口をざっくりと切られ、まだ目を開けたままそこに倒れているのは、年の頃四十ばかりの、美しいご婦人だった。
 小さく白い顔にはとうに血の気はなく、切れ長の瞳はただ空を仰いでいる。もう、息絶えているようだった。その体にすがりつきながら、それでいて、強い目の光で、誰かを見上げるようにしているのは、写真の少女。そう、ひなちゃんだ。
 薄暗い空間を振り返れば、短く刈った白髪頭の、枯れ木のように痩せ細った老人が、サーベルを下げている。その切っ先からは、赤い糸が何重も滴り落ちている。老人の頬がこけた顔は、赤い飛沫で染まっている。彼の口が動く、俺には、おわった、とも、まけた、とも言っているように見えた。
 古めかしいサーベルを、老人はふりかざす。そのとき、ひなちゃんが叫んだ。それは、凛とした声だった。
――戦争は終わった、私、約束があるの。やりたいことが沢山あるの!
 
「七海」
 いつの間にか側に来ていた御室が、俺の左の掌からロケットを引きはがす。その顔は打ちひしがれて、ますます年を取って見える。そっと俺の背中に置かれた手は、微かに震えているようだった。額に、嫌な汗が浮かんでいる。唇が震えてしまい、声は出ない。せいぜい首を横に振ることしか出来ず、思わず両手で顔を覆った。
「二人を止めることが出来なかった」
 御室の呟きが、固い石畳に落ち、砕けて散った。
「私は、軍国少年でしたよ。兄が予科練に入ってくれたことが、誇らしかった。その意味など、よく考えもしなかった」
 主が厳かに答える。二人はそれから何も言わず、塩の像になったかのように椅子に腰かけたまま、海の果てに沈んでいく夕陽を見つめている。俺はテーブルに顔を伏せた。瞼の奥に、ひなちゃんの、あの神々しいまでに凛々しい顔が焼き付き、離れてはくれなかった。そうして、押し殺した鳴き声が耳殻のずっと奥に響く。肩を強張らせた少女が、青いロケットを胸に泣いているのだ。唇を噛みしめて、声を押し殺して。その横顔を、俺は良く知っている。
 
 樟並木は灰色の中に沈んでいる。夜の内に降った雪が、街を薄墨色に染めていた。こんな日、客はこない。俺は店奥の和室で調べ物の書類から顔を上げ、一時、曇り硝子の向こう、みっしりと重そうな雪を纏い枝を撓めた山茶花の生垣を見た。ぱさりと雪が落ちる。そのまま視線を戻し、また書類に戻る。畳の上には、図書館や新聞社から集めた、終戦直後の新聞記事。地方紙や大手誌の記事の中に、俺はあの女の子の名前を探そうとしていた。そうして幾つかの事件を拾い読みし、敗戦後、自殺や心中が、そう珍しくなかったことを知った。
 マイクロフィルムの画像を焼き付けた原稿は目につらい。瞼を揉んでいると、店の入り口につけている、ドアベル代わりの南部風鈴が派手になる。ああいうお行儀の悪い鳴らし方をするのは、一人だけだ。
「よう」
 まだ手を吊ったままの嶽が、奥間に顔を見せる。鋳鉄の泥落としでゴアブーツについた雪を落とすとそれを脱ぎ、そのまま上り込んできて、寒い寒いと呟きながら、遠慮なく掘り炬燵に入ってくる。
「真面目に仕事をするのはよせ、天変地異が起こる」
 嶽が真剣な顔で言う。俺は口の中で舌打ちを押し殺しながら、散らかしていた資料を隠すように、倉から引っ張り出した古い大福帳を彼の前に広げた。
「御室の父親が、奥津家の縁続きの人から幾つか買い取った品があるようなんだ」
 俺は言うと、帳面を鉛筆の尻で叩いてみせる。軸や食器、色んな品の記録があるが、その後が記されてはいない。もしかしたらそれらは、御室が入ることを嫌がった、古い倉の奥に眠っているかもしれないのだ。
「阿呆」
 いきなり嶽に言われて、俺は目を見開いたまま彼の顔を見つめてしまう。嶽は書付にある、弘海という名前を指差して、
「御室さんの親父さんということは、お前の曾爺さんだろう」
 心底呆れたように言った。俺は思いもよらなかった言葉に、彼の指先にある名前を凝視してしまう。曾祖父という存在に静かに取り乱していた。そんな俺の目の前に、嶽は懐から取り出した茶封筒を放り投げる。
「あの家、火事になった時は既に無人だったらしい。あまり面白くないことが中にある。知りたかったら、読め」
 淡々と嶽は言う。彼に俺が「見たこと」は話したくなかったので、そのまま立ち上がると、書棚から一冊の本を引き抜いて手渡した。
「えんのものがたり?」
「とおのものがたり、だよ。そこ、付箋つけている頁」
 俺が言うと、嶽は縁が茶色になり始めた本を捲る。彼が目を落とす頁には、「迷い家」とあるはずだった。
「散々に迷ったあげくに辿り着く、立派な無人のお屋敷、お宝。なんとも俺たちが見たものに、そっくりじゃないか。おい、ちょっとまて、訪問者は栄えるってあるが、俺はこの態だそ」
 吊った腕を振り上げ、嶽がぶんむくれる。俺は首を傾げながら、ほうじ茶を入れると奴の前に置いた。柳田國男の遠野物語にある「マヨヒガ」は、主に関東や東北の話だ。迷い込んだ無人のお屋敷から、立派な食器や枡を持ち帰ると穀物が増えるとか、家が栄えるなんて逸話がある。
「最近はオカルト話みたいになって、品を持ち帰った者に、不幸が降りかかるらしい」
 意地悪く俺が言えば、嶽はふんと鼻を鳴らし茶を啜った。
「いいさ、俺なら。御室さんに何もなきゃ。おい、御室さんは」
「さて、今朝にはもういなかったんだ。でも多分」
 俺が言葉を切れば、嶽は心得顔で再び湯呑みを傾ける。今朝、黒檀の机の上にあったボヘミアガラスの花瓶に淡い紅色の薔薇が活けこんであった。庭にあった冬薔薇がほとんど姿を消していたので、御室が摘んで出掛けたに違いない。
「なんでついていかないんだよ」
 おいていかれた少年のような顔を嶽はした。そうか、こんな顔もするんだ。俺は目線を落とすと、ただ唇を笑いの形にする。火鉢に掛けた鉄瓶から、しゅわしゅわと音が立つ。嶽はまだ、窓の外を眺めている。その姿を眺めながら、嶽にとって御室がどんな存在なのか考えてみた。今までは、そんなことを気にしたこともなかったのだ。彼が持ち帰ったロケットは、金鎖に繋がれ、今は御室の懐にある。
「あの、さぁ」
「ん?」
 そわついた視線を本の上に落とし、嶽は頁を捲り続けている。俺はほんの少し、奴の方に身を寄せてみた。
「オールド・シティでどんな子供だったの?」
 自分のことを、クギニと言ったあの日の嶽の横顔は、何時も見せることのない、何処か憂いて縋るものがないような風情だった。嶽は僅かに眉の辺りを動かしたが、直ぐには答えない。暫く活字を目で追っている。
「そうだなぁ」
本に目を落としたまま、嶽が言う。俺が身を乗り出すようにすると、顔を上げ、にっと何時ものように、鮫みたく笑った。
「ショットグラスでウィスキーを一気のみ出来たら、教えてやる」
 そうしてまた、本を読み始めた。そりゃ無理だ。仰け反ってごろりと横になった時、硝子障子の向こうに、白いソックスの小さな爪先を見た。えっと瞬きをした後には、何も見えない。だが、とんとんと軽やかな気配が廊下を行く。炬燵を跳ね飛ばす勢いで起き上がると、硝子障子を開け放って廊下に出る。店を覗くが人の気配はない。「開けたら閉めろ」と嶽が俺に声を掛けるが、軽やかな気配は廊下のずっと先にある。
 きしきしとなる床板を踏みしめて、廊下を進む。右に曲がると、母屋の奥にある階段へと続いている。その角で、真っ白なレースのリボンが揺れたような気がした。足先が冷たい。冷えた爪先で上る階段の先には、今はほとんど使われていない書斎がある。御室の父親、俺の曽祖父が使っていた部屋だ。
 書斎の扉は、薄く開いていた。古い書籍や家具があり、それが焼けないようにと分厚いカーテンが引いてあるはずなのだが、廊下に細く光が漏れていた。真鍮のドアノブを掴み、扉を大きく開く。人の姿はないが、僅かにカーテンが開いていた。床に敷かれたキリムの絨毯は色あせている。歳月の匂い。カーテンを閉めようと窓辺に寄った時、大きな書棚の嵌め硝子に、白いセーラー服の少女の後ろ姿があった。
 首の辺りが総毛立つ。後ろ姿のその子は、部屋の天袋を指差している。俺が振り返っても姿はない。俺は座りの悪いカウチを引きずると、そこに上り天袋を開けてみた。幾つかの箱が押し込まれていて、箱の表書きは大福帳と同じ端正な字で記されている。その字を読んでいるうちに、俺は小さく溜息をついた。「奥津家預かり品」、そう記してある。軸らしい細長い箱に手を掛けようとした時、きん、と奥から澄んだ音がした。真四角の箱が壁際に押し付けてある。何処かで聞き覚えのある音だった。持ち手のある重さの箱を書斎の机に下ろす。組み紐を解き、蓋を開けた時、
「そうか……」
 中の物を見つめて、俺は思わず呟いた。再び蓋をして、それを右手で抱え、部屋を出ようとする。その時、冷たい手の感触が、しっかりと俺の左手首を捕えた。書棚の硝子には、俯いたセーラー服の少女が、俺の左手を掴んでいる。皮手袋越しなのに、なんとも物寂しいものが少しずつ忍び入ってくるのだ。
「ちゃんと渡す、約束するよ。忘れていたわけじゃないんだ、だから、御室には何もしないでくれるかな」
 先を見つめる目を持ちながら、大事な人を救えなかった気持ちは、俺には解らないけれど。ずっと、出来れば墓場までその思いを抱えていくつもりだったに違いない。
「七海! 御室さんお帰りだ!」
 母屋から嶽の声が響いた瞬間、少女の姿は消えていた。俺は書斎をもう一度眺めると、その部屋を後にした。左腕は痺れるほどに重くなっていた。
店には御室がコートの雪を落としながら立っていた。久方ぶりの穏やかな微笑みが頬にある。
「こんな大雪は久しぶりだね。タクシーがつかまらなくてね。黙って出かけて悪かったね」
 明るく弾んだ声で語る御室の前で、俺は箱を黒檀の机の上に置いた。紐を解き、蓋を開ければ、微かに彼女が息を飲む気配がする。御室の目の前には、過ぎた日、俺が不思議な館で見た金色の時計が載っていた。小さな星を守るように二人の天使が手を繋ぎ、天を仰いだ姿でいる。時計は、止まったままだ。
「書斎にあったよ。……ひなちゃんが教えてくれた」
 ずんずんと痛む左手首。御室はゆるゆると俺を見た。左目に濃い硝子が嵌った眼鏡をかけた何時も静かな横顔に、僅かな揺らぐ色を俺は見つける。時計を前に立ち尽くしていた俺と御室の側に、嶽が並ぶ。彼は何も言わず、持ちにくそうに金色の時計を右手で持ち上げた。ブロンズの台座辺りにある、竜頭を探っているようだった。
「どうでしたか、すぐに、場所はわかりましたか」
静かな声音で、嶽は御室に尋ねる。暫くの沈黙の後、彼女は小さく頷いた。
「雪に埋もれてね、奥まで近づけなかったけれど。薔薇をまいてきたよ」
「この時計、大丈夫ですよ、一度オーバーホールに出したら十分使えます」
 どちらが骨董屋なんだか、嶽の物言いはあくまで穏やかだ。何処か身を引くようにしていた御室が、ゆっくりと机に歩みよる。嶽は竜頭を回し終えると、天使の顔を御室に向けるように時計を据え直す。時計の針はⅫの少し前に揃えられていた。微かな音が、やがて俺の耳にも届く。小さな鼓動、それは時計から響いてくるものだ。御室は黒檀の机の前の椅子に腰かけると、暫くぼんやりとそれを見つめていた。細い溜息を零し、僅かに震える指先で眼鏡を外した。
 俺は書棚に歩み寄ると、一角から革張りの分厚い帳簿を引き出した。背に、『風琴堂覚書』とある。店で働き始めた時、御室に言われたことがある。この帳簿には預かった品や買い取った品を全部記すのだと。思い出も、きっとそうやってそこに込められていくに違いない。俺は彼女の前に、そっとそれを置いた。御室の骨ばった肩が僅かに蠢く。
「七海、買い出しに行くぞ」
 がんと風鈴を鳴り響かせ、嶽が言う。
「寒いからやだ」
「馬鹿野郎、冷蔵庫を空にするな。俺はこんなだからな、お前は荷物持ち」
 二人して言い合っているときに、きんと弾ける様な音がした。机の上を見据えれば、時計の針がそろい、二人の天使がくるくると回り始めるところだった。金色の小さな星もゆっくりと回り、きらりと光る。そうして澄んだ音が流れ始めた。
「いい曲だな、ポンセのエストレリータだ」
甘い旋律に嶽は目を細め言う。俺が首を傾げると、
「夜空の小さな星、彼の思いを私に伝えて、ってな。知らんのか、名曲だぞ」
 音楽に興味ないって言ったくせに。御室が俯いていた顔をあげた。痩せた青白い頬に朱が差してくる。微笑みに似たものが唇の端に浮かんだが、それはすぐに消え、胸奥から駆け上がってくるものがあったのか、僅かに顔を歪める。彼女はゆっくりと目を閉じた。その老いた横顔に、一筋の涙が伝い落ちるのを、俺と嶽は見てしまった。
 金色の時計から柔らかで美しい旋律が溢れ、忽ち部屋いっぱいに満ちていく。二人の天使は手を取り合い、小さな星の周りを回っている。御室の姿を見つめたまま立ち尽くしていた俺の肩を、嶽がそっと叩く。思いのほか、優しい力だった。そうと扉を閉め、雪の降り積もった樟並木に踏み出すと、丁度、路肩に慎重に小型自動車が止まるところだった。
車から降りてきたのは、身長は嶽ほどだが身幅は半分と言う細身の青年だった。嶽とは知り合いらしく、お互い小さく手をあげている。
「ご店主はいらっしゃいますか」
 カーディガンだけの青年は寒そうだったが、物言いは穏やかだ。俺が頷けば、生成りの手提げ袋から細長い箱を取り出した。
「祖父の使いで来ました。リペアに出したのでなんだか妙にきれいになり過ぎたんですが、万年筆です。祖父が御室さんに使って欲しいと」
 長めの前髪から覗く、長い睫毛に彩られた奥二重の瞳を伏し目がちにして、青年は言う。その姿に俺は何だか唇を噛みしめながら、微笑む。あの琥珀色の写真の中の青年と、今俺の目の前にいる人は、とても良く似ていた。嶽はダウンのポケットに両手を突っ込むと、さっさと先に行ってしまう。彼の顔を凝視する俺に、青年は僅かに首を傾げた。俺は微笑を消すと、店の入り口を指差した。
「御室は中にいます。どうぞ、直接渡してやってください」
 俺が言った時、ふっと体の重みが消えていく。青年は俺に微笑を返すと、お邪魔しますと店への道を辿り始める。後ろ姿を見送ると、俺は灰色の空を仰いだ。ずっとその果てにある、沢山の星を思い浮かべていた。

sunkaku

菅野樹(Kanno Tatsuki)

福岡市の古い町の片隅に住んでいます。
地元を題材にした、色んな物語を書いていきたいと思っています。
好きな場所は、Barカウンターの片隅。
クラシックギターと猫が好きです。
Twitter @kannnokannno