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風琴堂覚書 マヨヒガ 四 菅野 樹

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 目覚めると、景色が灰色に見えるようになったのは何時からだろう。私は身を起こした布団の上で、そんなことを考える。障子越しの朝の光も鈍色だ。高く天を支えるように立っている、お隣のお宮の黄色になり始めているはずの銀杏の葉も、鈍くくすんだ銅の色。もう一度布団に潜り込もうとすると、母が自分を呼ぶ声がする。
「晶さん、遅れますよ」
 上着だけはセーラー服で、スカートの代わりにモンペ。こんな変な恰好、ちょっと前ならば皆みっともなくてやらなかったろうに。離れを出て食堂に行けば、丁度父が新聞を折りたたんで食卓から離れるところだった。新聞の見出しは、『日本守備隊玉砕』とあった。眩暈がする。私がよろめいたのが判ったのだろう、父は新聞を自分の書類鞄に入れた。それから、ああ、と言うと鞄から小さなケースを取り出した。
「学校の許可は取ってあるから、今日から使いなさい」
 父の言葉を聞きながらケースを開けると、薄く黒い色硝子が嵌った眼鏡が出てきた。丸縁の眼鏡を私は掛けてみる。食器棚の硝子に写った姿に小さく笑った。細く尖った顎は険呑な感じで、自分の顔を私は好きではない。丸眼鏡の縁は、それを少し柔らかくしてくれているように見えた。
「愛新覚羅溥儀氏みたいじゃない」
 私が言えば父は軽やかな笑い声を立てた。良かった久しぶりに笑ってくれた。去年、兄が工科専門学校に通う為に東京へ移った。春先には今まで街中にあった家を売り払い、古い寺が何カ所もあるこの地域の家に越してきた。父は商船会社も辞めてしまい、今では近所の郵便局での代用員だ。家計の足しにと母が最初は琴を教えていたけれど、最近は習いにくる人もいない。
 晶は目が弱いので、と父が説得してくれたお蔭で私は今まで掛けていた分厚い眼鏡を外すことができた。別に目は悪くはない。家族、それも父母しか知らないのだけれど、私の左目は時折に先のことを見てしまう。もうずっと小さな頃、近所のまだ若い馬車引きのお兄さんが、馬に蹴られて死んでしまう光景を見たことがある。夢よりもはっきりと目の前で見えて、泣きながら母に話すと、その晩、父にそっと、そういうことはよそのお家の人に話してはいけないと言われた。次の日には、そのお兄さんは馬に頭を踏み潰されて死んでしまった。
 私の左目は、どうやら他の人は違うらしい。それに気づいてからは、見えにくくするために、牛乳瓶の底みたいに厚いレンズの眼鏡を掛けた。そうすると、視界がぼやけてしまうから。それでも、中国との戦争が長引き、大東亜戦争が始まると、私の観る景色は益々歪んでいき、色まで失ってしまった。そんな中、時折ぎょっとして動けなくなるほどに怖ろしいものを見る。それを見つめると、近いうちに不幸が起きるのだ。
「おはよう、晶さん。素敵な眼鏡ね。それになんだか今日は足も弾んでるのね」
 路面電車を降りて女学校への途中、明るい声で言い走り寄ってくるのは、奥津妃奈子さんだ。言われてみれば、今まで町中を通う時、なるべく人の顔を見ないように俯いていた。妃奈子さん、ひなちゃんはセーラー服のままだ。良く磨かれた黒靴、真っ白のソックス。お下げにしても腰まである長い髪は、レースのリボンで結わえてある。女学校に上がった時、友達をつくるのはやめようと思った。もし、友達をつくって、その子の背中に黒い影が張り付くと辛いから。そんな気持ちでいた私に、ひなちゃんは入学式の時から声を掛けてきたのだ。
「その分厚い眼鏡、ちっとも似合ってなくてよ」
 それ以来、私とひなちゃんは何時も二人でいるようになった。分厚い眼鏡を掛けて、時折身をすくませて動けなくなる私を、同級生たちは気味悪がって避けていたが、ひなちゃんは、「大丈夫、倒れるんだったら私の腕の中よ」、そう言ってくれる子だった。
「神国の血が半分だと規則も守れないのかしら」
 そんな言葉を吐き捨てて、上級生がひなちゃんの横をすり抜けていく。私の方がどぎまぎするが、ひなちゃんは知らぬ顔で教室へと向かい始める。ひなちゃんのお父上は陸軍の士官で、お母上は満州貴族のお姫様なのだ。とてもお綺麗なお母上で、この学校の卒業生でもいらっしゃる。日満親善の子、なんてもてはやされていたひなちゃんも、最近は大陸で日本軍が敗走を続けているから、それにかこつけて嫌なことを言う人がいる。
「今日は帰りにお家に寄ってもいい?」
 ひなちゃんは上級生の背中にあっかんべぇをした後、私を振り返る。学生鞄をそっと開く。モンペの間に、缶詰とお米の入った袋が見えた。軍から特別配給のあった時は、何時も分けてくれる。いただくばかりで申し訳ないし、何となく後ろめたくはあったけれど、白いご飯やお肉の缶詰は正直、嬉しい。ひなちゃんが我が家によるのは、レコードが聴けるからだ。我が家には、戦争前に父が世界中から集めてきた品があって、密かに隠して楽しんでいる。特に、米国から持ち帰ったクレデンザという蓄音機。「グレテンザに罪は無い」と、父は秘匿したままでいるので、レコードを聴くときは部屋中を閉め切って聴くのだ。素晴らしい音色で、同じくドイツから持ち帰られた、レコードを聴くことができた。ひなちゃんは音楽が大好きで、時々遊びに来ては、二人でこっそりレコードを聴いた。彼女のお気に入りは、シューベルトの歌曲で、「白鳥の歌」という歌曲集のドイツ語の歌詞をすぐに覚えて口ずさむほどだった。
「さぁ、今日も頑張って螺子を造りましょう」
 ひなちゃんは歌のような節回しで言う。忽ち、通学路を見守っていた先生に怖い顔で睨まれ、二人して走り出した。授業よりも、工場に駆り出されての作業が増えた。鉛筆しか持ったことのなかった手に工具を持って螺子を回したり、工業用のミシンで分厚い生地を縫ったり、何も楽しいことなんてない日常の繰り返し。それでも、彼女がいてくれることが、私には嬉しかった。
 勤労奉仕が終わる頃には、皆とても疲れた顔になって黙り込んでしまう。そんな中で、ひなちゃんはお手洗いで素早くセーラー服に着替える。リボンを結び直し、私が「大丈夫」というまで制服の皺を伸ばしている。理由はきっと、時々路面電車の電停でお会いする男子学生だ。その制服は、兄が通っていた学校のもので、私はついその横顔を見つめてしまった。兄は何時も人を突き放すような風情の人だが、その人は荷物を持った人を先に電車に乗せているうちに、積み残されてしまうような人なのだ。
「リボン、曲がってない?」
 ひなちゃんの問いに私がふふふと笑えば、彼女は顔を真っ赤にした。何時も熱心に文庫本を読んでいるその人が、彼女は気になってしようがないらしい。確かに、制服のカラーから延びた首筋がすらりとしていて、横顔はもの柔らかく端正だった。初めて声を掛けることができたのは、ほんの数週間前。電車が着たのに、その人は余りにも集中して文字を追っていたのか、電車に乗りそこなったのだ。
「電車、行ってしまいましたよ」
 つい、私は声を掛けてしまう。すると、その人は弾けたように丸めていた背中を伸ばした。私とひなちゃんは、真っ赤になったその人の顔を見上げて笑ってしまった。
「何を読んでいらっしゃるの」
 物怖じしないひなちゃんが訊ねる。その人は、困ったように端正な顔を苦笑に歪めた。そうして、彼女の質問にどう答えていいのか判らない顔で、学生鞄の中に文庫本を押し込もうとする。押し込もうとして失敗し、足元に転がった本は、『日本書紀』の表紙を纏っているのに、中味はびっしりと英文だった。私はそれを拾い上げ、空を掴み損ねて固まったままのその人の掌に押し付ける。
「すいません」
 恥ずかしそうな声が、とても感じがよかった。
 今日、その人は、電停で珍しくベンチに腰かけていた。俯いて、古いけれどよく手入れのされた革靴の先を見つめていた。夏の気配は遠くに去って行く色合いで、煉瓦敷きの道に淡い影を落としている。ひなちゃんが、彼の顔を覗き込むように頭を下げる。その人は唇をちょっと引き上げて笑うと、私たちを見た。
「勤労奉仕の帰りですか」
 私の格好を見て、その人は言う。
「今日は、落下傘の布を縫ったの。大きなミシンで、手を縫っちゃうかと思ったわ」
 ひなちゃんが話している間、私は雑嚢から手帳と万年筆を取り出す。電力節約の為に、電停が減らされることが、時刻表に張り付けてある。便数も減るらしい。小さな紙にびっしりの文字。私が思わず眼鏡を持ち上げた時、
「僕が読んであげますよ」
 若草のような匂いがふっと、鼻腔に入ってくる。私のすぐ隣で、その人は長身を屈めて、張り紙を覗き込んでくれていた。私のことを、目が悪いと思ったのかもしれない。断るよりも早く、ちゃんと書いてくださいよと、時刻表を読み上げていく。
「いい万年筆ですね」
 私が手帳に書付を終えると、その人は言った。父が使っていたモンブランの万年筆。お礼の言い方が判らずに私が口籠っている間に、電車がやって来た。その人はひなちゃんに小さく頭を下げると、電車に乗り込んだ。彼の後ろ姿を見送った後、ひなちゃんはくるりと私を振り返る。
「晶さんのそんな顔、見たことがない」
 ひなちゃんは言った。私はどんな顔でいるんだろう。つんと背中を向けてしまったひなちゃん。私は鞄を抱えたまま、頬をそっと指で触れた。火照った頬に戸惑って、返す言葉は見つからなかった。
 
 川風の吹く冷たい店の一角で、御室は俺の存在など忘れたように、体を動かしもせず雲の流れる様子を見つめている。ダッフルコートのポケットに両手を突っ込み、俺は所在無い気分になる。御室は記憶の回廊のどの辺りにいるんだろう。嶽は背中を丸めたまま、火のついていない煙草を右手で弄んでいた。
「お待たせした」
 淀んだ沈黙を吹き飛ばす太い声。主がトレーを片手に店から再び出てくる。御室と嶽の前にはショットグラスが置かれ、俺の前には大きめのマグカップ。カップにはたっぷりと珈琲が注がれていた。主はシングルモルトのウィスキーを、二人のグラスに注ぐ。そうして、自分の手にしたグラスにも同じことをした。御室は長い指でグラスを摘むと、筋張った喉をのけぞらせ、一気に琥珀色の液体を飲み干してしまう。彼女は一時、空になったグラスを掌に包み込んでいた。主がボトルを差し出してくると、小さく頷く。俺が遠慮がちにマグカップを差し出せば、主は申し訳程度にウィスキーを落としてくれた。ふいに、御室が嶽に向かって手を伸ばした。
「およこし」
 彼女はそれしか言わなかったけれど、やがて嶽はもぞもぞとダウンのポケットに手を入れると何かを取り出し、そっと彼女の掌の上に置いた。
「悪い子だね、お前」
 御室の手の上にあったのは、そう、あの不思議な屋敷でみた、青いエナメルと金で作られたロケットだった。俺は思わず、呆れた顔で嶽を見た。だが嶽は知らん顔をしたままグラスの酒を舐めている。御室も別に責める気配はなく、骨っぽい指でそのロケットを開いた。ロケットの中から、恥じらうように微笑む少女と固い横顔を向ける少女二人がこちらを見ている。
「ひなちゃん」
 彼女はその可憐な少女の写真を、そっと指で撫でた。
「ご店主、お差し支えなければ、お兄様のお写真をお借りできますか」
 あくまでも穏やかに言い、その言葉に主は頷き、暫く席を外すと、写真立てに入れられた、とても古い写真を持ってきた。俺は思わず肩を聳やかし、椅子に座り直してしまう。写真立ての中に納まる人の肩の辺りに、あの日屋敷でみた若者の気配があったからだ。モノクロームの世界のその若者は、長めの前髪の間から黒い瞳で真っ直ぐにこちらを見つめている。ワイシャツ姿で頬杖を付いていた。主はその写真と俺とを見比べ、くしゃりと笑った。
「そうだな、二十歳前後の写真か。この写真を撮った日のことをよく覚えているよ。兄は学校を辞めて、予科練に入った、その出発の前日だった。写真館で制服を突然脱いでしまってね」
 主は写真立てを卓の上に置き、自分の使っていたショットグラスにウィスキーを注ぐと、その前に置いた。御室は古い写真を一時見つめ、小さく息を吐くと強張っていたような背中を椅子に預けた。
「嶽は使い物にならんから、七海くんとやら、クレデンザを運ぶのを手伝ってくれないかね」
 主の言葉に、俺は素直に頷いた。
 
 時間に色があるとするならば、この店には柔らかな琥珀色が満ちている。黒光りするほどに磨かれた卓や椅子は年代を感じさせるものばかりだ。オーク材で出来ているらしいカウンターも、飴色に光っている。グリルやオーブンも、本当に使っているのだろうかというほどに、磨きあげられていた。
「孫息子は、意外と潔癖で」
 背中を向けたまま、主が言う。丁度俺は、壁にかけてあるデューラーの手によるものらしき聖母子像の小さな銅版画を、本物なのかどうか値踏みしているところだった。
「まぁ、綺麗に使ってくれている」
 主は言うと、狭い店の中で一番幅をきかせている、スタンウェイのグランドピアノの横にある、細長い箪笥のようなものに手を掛ける。
「随分と立派なピアノですね」
 銅版画の値踏みを見透かされたようでばつの悪い俺がそう言えば、店主は、ピアノをそっと撫でた。
「妻のグレースの嫁入り道具の一つだ。彼女のご両親は随分と心配して、色んなものを彼女に持たせようとした」
「本の置き場にするには勿体ないなぁ」
 言った後に後悔した。先刻から俺、何だか卑しい物言いになってしまっている。自分でも嫌になる感じだった。主はちょっと驚いたような顔をして、それから小さく首を横に振る。少し、呆れたような顔に見えた。恥ずかしくて、すいと目を反らす。
「君は、マダムの店を継ぐのだろう?」
 主の言葉に、俺は御室の背中を見る。すぐには答えられない。そういうことを、あまり真面目に考えたことがないのだ。
「君が扱うものは、古物ではなく、思い出であるときもある」
 俺はその言葉に、頬を赤くしてしまったかもしれない。店主はそれを見て見ぬふりでいてくれて、大きな肉厚の手で、もう一度ピアノを愛おしげに触れた。
「それに、これは孫息子が時折弾くのでね。さぁ、これだ。ビクトローザ・クレデンザ。1920年代製造の異国の蓄音機。美しいだろう。妻の嫁入り道具に同じ型のものがあったらしいんだが、こちらには残念ながら届かなかった」
 誇らしげに言う。俺は頷いた。物には納まる場所がある、というのはよく御室が使う言葉だけれども、この品は此処にあることが自然なようだ。主と二人で慎重に蓄音機を運び出した。
 よく手入れされていたそれは、夕陽に映えて、なんだか気高い感じさえした。太い曲線の美しいアーム。御室が破れてしまいそうなジャケットからレコードを取り出すと、嶽はゆっくりと椅子から立ち上がった。マネークリップから札を取り出そうとするのを、主人が首を横に振る。嶽は唇を少し歪め、笑ってみせた。
「聞いていかないの」
「音楽に興味はないんでね」
 背中で答えて去って行こうとする嶽を、御室がそっと呼び止める。
「ありがとう、これを持ってきてくれて」
 彼女は掌で、青いエナメルの写真入りロケットを包む。嶽は振り返ったが、その表情は夕日で逆光になり、読み取ることはできなかった。彼は暫く家があったと教えてくれたコインパーキングの方向を見ていたが、やがて、またなと、無事な手を挙げ、そちらとは反対の方向にぶらぶらと歩き去っていった。
「彼はここで育ったの?」
 俺の問いかけに、御室と主は答えない。
「自分でお聞き。彼の過去は彼のもので、私のものではないのだから」
 御室の声は、ひそやかで、ひやりとした川風にのって流れていく。俺はもう一度、嶽が去って行った方向を見つめる。新街区のビルが、まるで屹立する墓標のように影を並べていた。
 御室は、青いロケットを開き、写真立ての隣に並べる。しばらくそれを眺めていた。
「やっと、一緒に聞けますね」
 それは誰に呟かれたのか、あまりに小さな声だった。主人がそっと、盤の上に針を落とす。そうすると、その古い蓄音機は、ゆっくりと歌を歌い始めた。
 
(つづく)

sunkaku

菅野樹(Kanno Tatsuki)

福岡市の古い町の片隅に住んでいます。
地元を題材にした、色んな物語を書いていきたいと思っています。
好きな場所は、Barカウンターの片隅。
クラシックギターと猫が好きです。
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