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風琴堂覚書 瑠璃 四 菅野 樹

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 幻を見せてくれた片袖と数珠には、姫のものではない、古い後悔が残っている。そうして、大きな喪失。俺は卓の上に置いたその二つを一時見つめる。嶽は察しがついているらしく、この離れの客間に人が来ないように気配を伺っている。
「君が今から見るものは、誰にも言わないでほしい」
 俺はそう言うと、軽く曲がったままの左手から皮手袋を外す。萎びたような左手の、指は僅かに曲がっている。二つのものから上ってくる気配は、前よりも濃い。俺が左手を伸ばすと、微かに瞳子が首を傾げる。
「俺のこと、気味が悪かったらこの部屋から出ていいから」
 怪訝な様子の瞳子の視線。それを感じながら、ぎゅっと一回、左手を握りしめる。思わず、小さく頷いている自分がいる。
「骨董屋、果て師としちゃ禁じ手だが、七海の左手は物に籠った念を見る」
 茶化そうとして失敗した嶽の割れた声。
「一言多いんだよ」
 俺は小さく毒づくと、目を閉じる。強張った指をぎこちなく、ひんやりとした布地に押し付けていく。ゆっくりと弄るように布の上を這う俺の左手の上に、そうと、小さく温かな手が、被せられた。血の流れる音は、波の音のようにも聞こえる。ざんざんと遠くに聞こえるその音。瞼の内に、濃い黒が広がっていく。
 
 お達しが着た。直ちにこの庄内の人別改めを行えというものだ。博多にあった南蛮寺も次々に壊され、改めが日々厳しくなっていく。弥助は役人が帰る姿を見送ると、項垂れるようにして、道の脇に生えている踏みつけられた草を見つめる。小さな白い花が咲いている。
「親父様、我が家もこの庄の者も、真宗の門徒ではありますが、あれを見つけ出されると、面倒なことになります」
 役人を見送る弥助を追ってきたのは、一人息子で、亡くなった笹によく似た面立ちをしている。弥助は息子の言葉に、肩を聳やかす。
「愚かなことを言うな、あれは我が家がお預かりしたものだと儂は思っている」
「ですが親父様、もうとうに滅んでしまわれた御一門のこと。義理立てをして切支丹の疑いをかけられたら、如何なさるおつもりですか」
 言葉には容赦がない。弥助は先年、家を譲った。一族を守る長として、この木戸庄の庄屋として息子の言うことは、間違ってはいない。弥助は自分の歩みを遮ろうとした息子が、踏みつける花を見つめた。
 笹が死に、この地に古くからいた者の何人かは新しい藩主となった黒田の家に仕え、また、戦を求め続け大坂で死んだと聞く者もいる。あの方のことを、今は誰が覚えているだろう。あんなにも、忘れなどしないとそう誓っても、人は逝く。受け取る者がいなければ、その記憶も、逝く。
「せめて、改めの間だけでも。親父様が出来ないのであれば、私がやります」
 息子の言葉に、弥助は益々項垂れるしかなかった。乱世、この庄の国主であった城戸一族の、その最後の姫に仕え戦働きで名を上げた弥助も、苛烈な徳川の切支丹弾圧には、怯む気持ちしか湧いてこない。老いた。それをまざまざと感じ、悔しくもあった。
 夜更けて、弥助は三日月山を見上げる屋敷の、山から続く裏庭に立っていた。山頂にあった二層の城は、黒田家が自分達の居城を作る際に城石まで持って行ってしまった。歳月を経て、城址は緑に包まれたのだ。この裏山は城に通じる抜け道があった。息子はそこに、役人に見つかっては困るものを全て封じた。長い溜息を零し、弥助がその場から離れようとした時、彼の足が竦む。彼の眼前に、忘れることが出来ない人が、その姿を現していた。
 辻が花の小袖、その左の片袖はない。鉄金色の袴。黒髪は緋色の紐で頭上にきりりと結わえてある。白皙は、じっと弥助を見据えている。弥助はああと呻くと、その場にひれ伏す。
「損じてはおりません、姫からお預かりした、瑠璃の杯。宗門改めが終わりましたら、もっとよい場所にお移しします」
 だが、とうにこの世ではない人は、すうと月を背に迫る山の緑の中に紛れていく。
「どうか、月姫様お許しください」
 幻を追おうとし躓いた弥助は、胸に激しい痛みを覚える。許しを乞う声は、やがて喘鳴となりか細く消え途絶えた。
 
「あきひめ」
 瞳子の呟きが、俺を暗闇から引き戻す。ゆっくりと目を開けると、少しぼんやりした瞳子の横顔。俺は立ち上がると、裏庭に下りた。台形の山、三日月山。弥助が仰いでいた山に違いない。そうして、その山の稜線が降りていたのが、焼け落ちた倉があった場所なのだ。
「七海さん、行きましょう」
 瞳子がそう言ったとき、座敷の方から物々しい音と、香坂氏の怒鳴り声がする。物が割れるような物騒な音に、俺達は母屋を覗きに行く。廊下には高子さんが突っ立ている。香坂氏の喚き声が一段と高くなった。
「失礼にもほどがある! 私が倉に火を点けたとでもいうのかね!?」
 香坂氏は立ち上がり、やはり立ち上がっている信弥氏を睨みあげている。腰を抜かしたように、高子さんの姉と妹はへたり込み、二人は身を寄せ合っている。
「あの倉に掛けてあった火災保険の金額を聞いただけじゃないか!」
「あんたの銀行がむりやっこ俺に入らせたんだ! 自分で営業しておいて、金額ぐらい頭にいれてろ!」
 香坂氏が信弥氏の胸ぐらを掴みそうになったので、二人よりも頭一つでかい嶽が間に割って入る。獰猛な笑顔を見せて、
「大人の話し合いってのを、見せてもらえないかね。未成年がご見学だ」
 嶽は言うと、瞳子に目線を向ける。だが香坂氏の怒りは収まらないらしく、嶽の腕を振り解くと地団太を踏んだ。
「もう俺は知らん! 俺はな、本当は高子や瞳子の住む家を守ってればいいんだよ、その為に今日までやってきた。学がないとか、家の格が合わないとか、お義母さんに馬鹿にされたって、高子と一緒に居たかったから堪えてきたんだ。それをなんだお前たちは、田植えの一つも手伝わんと米は持って帰る、お袋さんが亡くなったら、貰うものは貰うとか平気で。誰の土地だ、お前たちの土地だろう、俺が、どんな」
 茶卓がひっくり返り、湯呑みや書類が散らばる畳の上に、香坂氏はやがて力なく座り込む。信弥氏は乱れた白髪頭を丁寧に整え直すと、
「どちらにしても、この家は固定資産税の滞納で差し押さえになってるんだ。取りあえず、急いで国道沿いの、アンタ名義の土地を売ればいいんだよ。買い手は私が見つけてある」
 留めをさすような言葉に、香坂氏は力なく俯き、肺の中を空っぽにするような溜息を一つ、大きくする。高子さんはそっと香坂氏の側に座ると、泣き笑いの顔で頭を下げる。
「貴方、ありがとう、もういいんですよ、もう、いいんです。此処を引き払ったっていいんです」
 高子さんは優しく言う。そんな二人の前に、すっと瞳子は立った。黒い瞳は怒りに燃えていて、光って見える。彼女は玄関を指差し、
「帰ってください」
 そう言い放った。信弥氏が目を剥くが、彼女は怯まない。瞳子ちゃんと、太った姉が言うが、彼女はその顔を冷えた視線で一閃する。
「気軽に瞳子ちゃんとか呼ばないでください、貴方方からお年玉を貰ったことないし。さぁ、敷地から出て行って。この家のことは、自分達で決めます」
 凛と言い放つ瞳子の姿に、信弥氏が口を開きかける。
「国道沿いの土地って、食品工場が建ってるとこだな。あんたが勤めていた銀行がメインバンクだが、売買の金額の幾らもらえるの?」
 瞳子の横にうっそりと立ったままの嶽が言えば、信弥氏は飛び上がらんばかりに背筋を伸ばし、彼を見た。姉妹はそんな兄の顔を信じられないと見上げる。
「ちょっとお兄さん、どういうことなの!」
それには答えず、信弥氏は部屋を出て行く。きいきいと喚きながら、姉妹は後を追っていった。高子さんが瞳子の元ににじり寄ってくると、泣きそうな顔で頭を下げる。
「瞳子、ごめんね、情けなくてごめんね」
謝る母親の肩に、瞳子はそっと手を置く。そうして項垂れたままの父を見て、小さく笑った。少し照れたような笑い方だ。嶽は唇を曲げて拉げたような笑いを零す。
「まだよ、まだ終わってないの。さぁ、七海さん、何をしたら良いのか言って」
 瞳子は俺に詰め寄ると、いっそ晴れやかに言った。
 
 穴に溜まっている水は、消火の際のもののようだった。俺と嶽の二人、バケツでかきだせば、程なく湿った地面が現れる。横の土とは色が違うので、後から埋められたものだろう。小石の多い他の場所と違い、さらさらした感じは川砂のようだ。
「肉体作業は、不向きなんです」
 呟きながら俺は川砂を掬い始める。その横で嶽は工事現場並みにがむしゃらにシャベルを振るっている。
「もっと丁寧にやれよ、下に何かあったらどうするんだ」
 と俺が言った途端、手にしていたシャベルが、がきっと音を立てる。首の辺りがぞわぞわする。しゃがみ込み、そっと周りの土を避けると、木製らしい蓋が出てきた。丸い蓋。直径は三尺程。その周りを猛然と手で土を払っていく。思いのほか大きい。やがて鉄錆色の焼き物の地肌が見えてくる。大きな瓶のようなもの。
「ほんとに出たよ」
 呆れたように嶽が呟いているが、俺は返事をするのも忘れて、その瓶の周りの土をどんどんどかす。古い、それに大きい。古備前か。見守っていた瞳子も加わり、三人で土をどかすとかなり大きな瓶が姿を現した。木の蓋を外すと、その下に紙が貼ってある。それをそっと剥がすと、布が押し込めてある。少し引っ張ればすぐに崩れてしまう程に傷んでいるが、何かを包むためのものらしい。やがて違う布が姿を見せる。これは唐織だろうか、色が褪せているが花鳥紋が金糸で織り込まれている。手を掛け、持ち上げる。そこそこの重みがある。そうしてその下に詰まっているものもあった。瓶が深すぎて手が届かない。嶽と二人で傾け、瞳子が中味に手を掛ける。
「変な形」
 瞳子が取り出したのは、草鞋のような形をしている。平たく、横に押し付けたような線が幾つもある。重い、と瞳子は呟くと、俺に渡した。まさかね、そんなことないよね。真っ黒になっているが、この形は何度も書籍で見た。しかし、こんな刻印が押してあるものは見たことがない。瓶を覗くと、まだ何枚も積み重ねられている。一つを上着のポケットに放り込む。
「ねぇ、何だか音がする」
 俺に手渡された布の塊を抱きかかえていた瞳子が、不安そうに呟く。俺が布の塊に視線を移せば、確かに、彼女の手の中で、かたかたと微かな音がする。布を捲れば、木箱が見えた。その箱に手を掛けようとした時、香坂氏と高子さんが母屋から出てきた。今まで二人で話し合っていたらしい。
「御室さん、色々失礼なこと言ったが、すまなかった。高子と話して、決めました」
「何を決めたの?」
 泥だらけの軍手で額の汗を拭い、瞳子が訊ねる。
「土地売って、屋敷の差し押さえだけは免れようと思います」
 香坂氏は言うと、ぺこりと頭を下げた。高子さんも深々と頭を下げる。
「だから駄目、絶対駄目だから!」
 瞳子が言うが、二人ともなんだか虚脱した顔でいる。
「瞳子、取りあえずは目先のお金が今は入用なんだ」
 香坂氏は日に焼けた顔をくしゃくしゃにして、皺深い目元に少し光るものを浮かべ、宥めるように瞳子に言う。瞳子は何かを言いかけたが、手にしていた布包みを抱えるように、自分の肩を抱く。噛みしめた唇が僅かに震えている。嶽はシャツの胸ポケットからペルメルを取り出すと、煙草を一本咥えた。マッチが湿っていたのか。ジーンズからダンヒルのライターを取り出す。
「で、目先のお金、あとお幾ら足りないわけ?」
 オイルライターの白い光が煙草の先を焼く。淡々と嶽が訊ねれば、香坂氏はおずおずと答える。
「週明けに二百万。これでしのげたら、後は何とか」
「だぜ、七海」
 嶽の言葉に、瓶を具に見ていた俺は背筋を伸ばす。
 二百万、二百万、この瓶だけだと高すぎる。こんな奇妙な紋章を刻んだ金属板。まて、戦国時代の交易を思い出せ。何が使われた。
「い、石見の銀? ちょ、ちょっと待ってください」
 俺はそう言うと、離れの客間に駆け込む。汚れた靴下が畳を汚す。畳の上に一時座り込み、大きく息を吐く。万年金欠に近い風琴堂には大きな金額。それでも。俺は小さく息を吐きだすと、自分を励ますようにちょっと肩を聳やかす。引き寄せた鞄。その内ポケット。何時も御室は取引の時、金額の書いていない、けれども店の座判と朱印が押してある小切手を一枚入れていることを思い出したのだ。この際、後で叱られたっていい、暫らく無給、いやずっと無給と言われるかもしれない。
「御室、水瓶欲しいって言ってたじゃない」
 呟いて、内ポケットから封筒を取り出す。シャツで汚れた手を拭い、小切手を引き出した。それを見た途端、俺は目を丸くし、次には天井を仰いだ。ゆっくりと喉の奥から笑いがこみ上げてくる。小切手には流麗な御室の文字で、「弐百五拾萬円」と記してあった。
 
「七海さん!」
 笑いの発作が収まらない俺を、瞳子の引きつった声が現実に引き戻す。彼女は泣きそうな顔で、裏庭から続く山道の指差している。そこには、青白い固い色を片頬に浮かべた姫が立っている。俺と瞳子にゆっくりとその白い手を伸ばし、鬱蒼と茂る木立の先を指差すと、揺らめいて、忽ちに姿を薄くしてしまった。
「行こうか」
 俺が言うと、瞳子はこくりと頷いた。
 時折、視界の端を幻が横切る。少女の白い後ろ姿は、濃い山の色に溶け込んでしまう。だが瞳子には、それが何処に導きたいのか判っているようだった。彼女が子供の頃に、たった一度、まだ元気だった綾子さんに連れられていったことのある、小さな祠がある場所。そこまでの道は、今は人も通らない険しい道だ。
城があったという三日月は、小さな山だが、楠の古木が生い茂り、緑の落とす影は濃く、暗い。生い茂った草いきれは濃密で、獣道の中を、瞳子と俺はひたすらに登っていく。瞳子の足は速い。俺は、付いていくのがやっとだった。
「小さな時に、一度行ったことがあります。父が、別荘用に売り出そうとした場所です」
 息があがる俺に、振り返り瞳子は笑いかける。なんだ、その、水を得たような姿は。俺は生き物の熱を感じて寄ってくる虫が嫌でたまらず、思い切り不機嫌になっている。
「俺は一応、街育ちで、草とか、虫とか、苦手……」 
 と言った時に、瞳子が草むらを指差し、毒蛇と言う。俺は多分、一メートルは飛び上がったと思う。
「なんてね、草むらの中でぴかぴか光っているのは、蛍ではなくて、マムシだったりするから気を付けて」
 にこりと可愛らしく瞳子は言うと、またずんずんと先を急ぐ。そんな恐ろしいことを言われたら腰が引けるではないか。
「言っとくけど、あんたの家の借金は普通じゃないよ。いずれ色々手放すことになる、それは判ってるのかな」
 意地悪く俺が言うと、思いのほか明るい声が降ってくる。
「きっと、そうなると思います。でも」
 ふいに、瞳子は言葉を切った。立ち止まった彼女の背中に俺はぶつかりそうになる。山の中の深く淀んだ空気が、ふっと揺らぐ。深い木々を縫い、涼やかな風が、通り抜けて行く。瞳子が前を指差す。その先には、二本の大楠が抱き合う様に立っているのが見えた。まるで、招かれているように、瞳子が走り出す。
「こら!  置いていくな!」
 俺は慌てて後を追った。
 膝丈程の草叢の中に、瞳子は立ち尽くしていた。草深い山の中に、こんな開けた場所があったのだ。小さな祠は今は崩れ落ち、石の土台だけが円く残っている。草原の先に、真昼の少し欠けた月が浮かび、そうして、瞳子の見つめる先に、一本の木。桜だ、独りの桜だ。歳月を身に纏った樹皮は堅く、花を終え葉桜となっていた。
 瞳子はゆっくりと歩み寄り、そっとその木に触れる。そうして無邪気に俺に言うのだ。
「七海さん、触ってみて」
 彼女の言葉に、俺は直ぐには動けない。葉を透かして降ってくる陽の光と、微かな風に揺れる葉影を無言のうちに見詰め、三十ほど数えた後に、俺は、そうと左手で木に触れてみた。
 ――純白。
 ただ、哀しい程に澄み切っている。切ないほどの白さに、俺は目を閉じた。姫が観たいと思っていたのは、この桜なのか。
「桜の根の上に立つとは馬鹿者」
 幼いが凛とした声が、俺と瞳子の上に降ってくる。見上げると、大きく張り出した太い枝の上に、七つばかりの童が腰かけこちらを見下ろしている。瞳子が口を開きそうだったので、それを制する。童は小袖袴姿だが女の子のようで、小さな顔は雛人形のように愛らしく結ぶには短い艶やかな黒髪が肩を覆っている。童は草履の足をぷらぷらとさせているが、桜の枝は少しも動かないのだ。
「やぁ、これは失礼いたしました」
 俺はそう言い、一歩下がる。そうして柔らかな草原に座り込むと、抱えていた背嚢を下ろし、その中からあの穴の中から見つけた箱を取り出した。瞳子は俺から少し離れた場所に座り、俺と箱、そうして童を見比べている。
「それは我の物だ。母上が伴天連から貰った異国の物だ」
 童の声が尖る。その声を気にも留めず、木箱をそっと開ける。乳色の柔らかな絹布に包まれ、出てきたものは、遠く澄みきった空のような色を湛えた硝子杯。ゴブレットなのか足台はしっかりとしている。冷たい地中にあったそれに、俺は左手をゆっくりと、温めるように押し付ける。胸のずっと奥に、ひそりと昇ってくるもの。
余りにも長い間忘れられていたせいか、その美しい物の内は、ただ黒く塗り潰されている。それでもずっと触り続けていると、細い光が刺すように、闇の一部が切り取られていく。湧き出でてくるものは、全て断片だ。
 白い帆布を幾つも張った大きな船、華やかな武者行列、厳めしいい、しかし瞳の奥に知の光が灯った異人、十字架。白い手で優しくこの瑠璃色の杯を捧げ持つ婦人。その婦人が呟く、「あき」と。
「手を離さぬか」
 童はいつの間にか俺の目前に現れ、夢見の邪魔をする。応えず、杯の作り、細かな点をうっとりと眺め、そうして手が止まる。台座に刻んである、IHSの刻み文字、文字を飾る太陽の紋。瓶の底にあった延べ板に刻んであるものと同じ。ああ、と俺が小さく呟くと、童は手を突き出してくる。
「返せ」
 小さな白い手。俺はその手にそっと、瑠璃の杯を渡す。嬉しそうに童はそれを抱き寄せる。そうする内に、その姿は童から少女へと変化していく。辻が花の小袖を纏い、凛々しい袴姿のその少女は、慈しむように杯を抱きしめていたが、ふと目を上げた。
「瑠璃は我が手にある。だが、何故だろう」
 少女は瞳子の顔をじっと見つめる。
「そうだ、これは笹と弥助に渡したはず」
 少女がそう言った途端、風がざわざわと吹き始める。
「貴女様の御名は」
 俺がそう聞けば、少女はつられたように、
「あき。月の光のように道を照らせと、父上が」
「月姫様でございますか」
 再び問えば、少女は、月姫はしっかりと頷いた。
 ざっと風が通り抜ける。青々とした桜の葉が、ざんざんと揺れる。葉が一枚、ひいらりと落ちる度に、花が一輪。やがて、古木は輝くような花で埋め尽くされていく。それは、淡い紅色で、とても、儚い。
「嗚呼、そうだ、この花が見たかった」
 月姫が呟けば、桜は応えるように身を震わせ、その古い條々の一葉一葉に、ふうわりとした桜花を纏う。葉は落ちるたびに、花と変わる。嬉しげな色を口元に浮かべる月姫の横で、俺と瞳子は言葉を忘れ、ただ輝くばかりに咲き誇る桜を見上げる。
「美しい」
 白磁の冷たい頬に僅かな色を浮かべる月姫。姫は瑠璃の杯に降り積む桜の花弁を暫く見つめ、瞳子を見た。
「そなた、笹によう似ておる」
 それは心底、嬉しそうな声だった。月姫はそのままその秀麗な横顔を、悠に広がる空と山裾の景色に向ける。姫にはどう映っているのか。その横顔は穏やかだ。
「皆、飢えてはおらぬか? 戦は、ないか?」
 それは、寂しい声だ。俺は立ち尽くしたままの瞳子に目を向けると、小さく頷く。この問いには、彼女が、答えなくてはならない。きっと、この長い歳月、彼女はそう思い、案じ続けたに違いないのだ。
「はい。お腹一杯食べて、日々、穏やかに過ごしています」
 瞳子の声は、最後に罅割れた。涙が一筋、その頬を伝う。月姫は舞うように振り返ると、瞳子を見た。満足気な微笑みが、美しい顔にのぼってくる。
「よかった」
 月姫が莞爾と笑う。そうして、そっとその白い手を俺の左腕にのせる。左手が掠めるように触れたこの方の手、この世ならぬ人の内側は、澄んでいながら何も見えない程に深い淵のようだ。「すまなかった」と月姫が小さく呟く。腕を覆い始めていた赤黒い痣が忽ちに消え、ぷつりと小さな音がしたかと思えば、首から糸の切れた俺の護符が割れて落ちた。
「稀なる手を持つ御仁、礼を申す……」
 柔らかな声を吹き消すように、一陣の風が草原を駆け抜ける。俺と瞳子の視界を散り舞う桜一色に染める。息苦しい程に、舞う薄紅。その後、舞い散る桜が消え去った草原には、瑠璃の杯のみが、唯一つ残されていた。その冴えた硝子の身に、陽の色が映えていた。
 
 夏の盛りを迎えた頃、風琴堂に古備前の大水瓶が届けられた。あの暗闇から引き揚げられたものだ。嶽はきちんと仕事をして、品を引き取ってきたらしい。まぁ、オマケつきとはいえ、ちょっとお高い値段で引き取ったのだから、香坂家には不満はないだろう。
 四百年の眠りを超えて現れた古備前の水瓶に、御室は美しい青紫の睡蓮を植えた。早朝の張りつめた空気の中で、その美しい花が咲くとき、俺はあの美しい姫君と、そうして香坂家の祖先達が報われて天上に向かうことが出来たと、そう、信じた。きっと、御室はそうなると、判っていたに違いない。辻が花の小袖と数珠は、香坂家の菩提寺に預けられ、香華を絶やすことなく守られていくことになるだろう。辻が花を欲しがらなかった御室を意外に思ったのだが、彼女は俺に、「物には納まらなくてはならない場所があるんだよ」と、それだけ言った。
後、俺は香坂家が図書館に寄贈していた古い文書を調べた。その中にあった、『三日月山異聞』という文書に、僅かに、月姫の記述があった。
『三日月山に城戸氏あり。男児なく一女城督を治む。名を月』
 そんな書き出しにあった文書は僅かに数行で、月姫が十八で嫁いだ後、二十歳で没したことしか記されていなかった。その死の原因は、何も伝わってはいない。
「いい品だね」
 そう言う御室の前には、香坂氏から別送されてきたラリックのグラス。こんな物が金になるのかと、香坂氏は喜んでいた。
「お買い得の品」
 俺の言葉に、彼女は満足げに頷き、グラスを手にする。美しい品だ、また大事にしてくれる人に手渡すことが出来ればいい。
そうして風琴堂の倉の中に、預かる品が一つ、増えた。瞳子から預かったものだ。いつか、彼女が色んなものと折り合いをつけることが出来るまで、その品は預かることになっている。また、あの桜に、月姫に会いたい。あの場所が、俗塵に穢れないよう、ただ、願うしかないのだけれど。
「本当に、綺麗な桜だった」
 一抹の寂しさで俺が呟けば、いっそ、からっと御室は微笑むのだ。
「よかったじゃないか。果ての、その隅っこぐらいには、行けたようだね。で、預かり賃は幾らにするおつもりだい」
 御室の言葉に俺は顔を顰める。そうして、溜息をついた。
「勘弁してよ、そも、御室が最初から出張ってればよかった話でしょう」
 俺が言えば、彼女は薄く笑うだけだ。
 水瓶と一緒に出てきたものは、確かに石見の銀だったが、そこに刻んであったのは、IHS、イエズス会の刻印。それ故に、鋳溶かすことも出来ずに死蔵されていたんだろう。御室がそれを、どんな経路で売りさばくつもりでいるのか、俺にはさっぱりわからない。けれども、世界には沢山の好事家がいるので旨い事いくんだろう。
「美しい物を見せてもらったよ」
 御室は俺に、静かな顔で言った。そして、書棚から革張りの古びた台帳を取出す。
『風琴堂覚書』
 背には、そうあった。
「この仕事を続けると、きっとお前は見なくてもいいものを見てしまう。それでも、平気かい? やっていけるかい?」
 そっと訊ねてきた御室の声は思いのほか、優しい。俺は新たに貰った護符を弄りながら、暫く黙っていた。御室こそ、未来と時に色んな不思議を見通す左目で、この店を続けている。それにはきっと、何か意味がある。そうして、救われる誰かと、彼女もいるはずなのだ。嫌われ疎まれた俺の左手が、誰かの僅かな一助になるのならば、きっと何時か、何時の日か俺も報われることがあると思う。
 だが、それは言葉にはせず、彼女の問いにも頷きもせず、俺は覚書を御室の手から受け取る。小さく、御室が笑った気がした。
「さて、私は散歩に行って来よう」
 御室はそう言い、黒眼鏡を掛けると立ち上がる。黒檀の机を指差し、俺に、
「お掛け」
 そう言って、光り輝く外の光を少し仰いだ後、ゆっくりと店から出て行きかけ、ふと歩みを止めると、机に腰かけようとする俺に、小さく笑ってみせた。
「そうそう、瞳子さんから電話があったよ。お前に伝えてくれって」
「なに?」
「桜だけは私のものになりました、だそうだ。伝えたよ」
 御室は言うと、取り付けてある南部風鈴が鈴凛となる扉を開け、外に出て行く。泣きたくなるほどに、美しい緑と香り。樟の並木は、今日も命の力に満ちている。俺は微笑し、そんな光弾ける外を少しの間見つめると、椅子に腰掛けた。太軸の万年筆を手に取る。何と記せばいいのか、少し考える。窓からの陽光が、机の上に砕けて、暗い床に空を散らした。思いつく名前は、一つしかない。
「香坂家伝来。硝子製高台付杯 瑠璃」
 俺は覚書にしっかりとそう記し、万年筆を置いた。窓の硝子に掛かる陽に浮かぶプリズム。澄み切った青い色が弾ける。瑠璃の光は、風に揺らめき、ただ美しく煌めいていた。

        

sunkaku

菅野樹(Kanno Tatsuki)

福岡市の古い町の片隅に住んでいます。
地元を題材にした、色んな物語を書いていきたいと思っています。
好きな場所は、Barカウンターの片隅。
クラシックギターと猫が好きです。
Twitter @kannnokannno