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風琴堂覚書 瑠璃 弍 菅野 樹

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 ポットは空で、朝から水も飲めない。山鳩の鳴く声が離れのすぐ側から聞こえる。見えるはずもないのだが、視線は裏庭を横切り、卓の上の自分の鞄の上に落ちる。
「参ったなぁ」
 独り言にしては大きな声になってしまい、俺は思わず居住まいを正して周囲を見回してしまった。人の気配はない。胡乱な古物商など相手にすることが出来ない大事が、母屋で起こってしまったのだ。しかし、この事態は俺にも影響を及ぼす。昨日の内に帰るべきだったと思いながら、溜息をつきつつ卓に顎をのせる。まさかこんな事態になるとは思ってもいなかった。
 今朝、香坂家のあの老婦人が、寝台の上で亡くなっているのが見つかった。そのせいで、母屋は大騒ぎになっているのだ。先刻、警察がやって来た。自宅で亡くなったら警察が必要だということを、今日初めて知った。せめて、小切手を無理やりにでも押し付けて領収書をもらっていればよかった。俺の後悔そればかり。
 母屋から視線を転じれば、小さな裏庭が見えた。松や石で作りこまれた表庭とは違い、植物が好きなように、戯れているような、庭だった。緑の中に咲き乱れる野薔薇。小さな、深紅の薔薇。ふと思いつき、庭に下りるとその花を摘み取る。野薔薇を手にしたまま客間に戻れば、瞳子が部屋にやって来るところだった。布巾が被せてあるお盆を手にしている。俺が野薔薇を差し出すと、お盆を卓に置き受け取る。泣いたのか、目が少し腫れぼったい。
「綾子さんに」
 俺が言うと、微かに口元に笑みを浮かべた。床の間にある青磁の首の長い花卉に合うだろうと思って。
「ありがとうございます。気が回らなくて。」
 硬い瞳子の声。それはしようがないと思う。お盆にはお握りと沢庵が載っていた。
「母からです。こんなものしかご用意できなくて申し訳ないんですが」
「ありがたく頂戴します」
 拝みついでに、お茶貰える? と言えば彼女は小さく笑って冷茶の詰まったポットを持って来てくれる。動作には切れがあるし、なんだか彼女の表情は落ち着いている。お握りを齧りながらも、彼女の様子を伺っている俺の気配に瞳子はそれに気づいたのか、
「祖母は死期を何となく悟っていたみたいで」
 少し掠れた声で言う。
「悟っていた?」
「あっさり死ぬから、介護とか心配しなくていいよ、なんて言ってました」
 そこまで言って、彼女は目元を細い指先で、すうと拭う。小さな水玉が、転がり消えた。俺が口を開きかけた時、突然、宜しいですか、と警官が部屋に入ってきた。座り込んでいる俺を、でかい図体で横柄に見下ろし、昨晩はどちらに、など尋ねてくる。俺は思い切り、嫌な顔をした。面倒に巻込まれるのは全くもって、不本意だ。
「お荷物も改めさせていただいていいですか」
 口調は穏やかだけれど、断れない雰囲気に枕元に置いていた鞄を開ける。手帳、筆箱、財布と名刺入れを取り出しながら、つっと手が止まる。封筒だよ。
「どうなさいましたか?」
 淡々とした警官の声に、俺はのろのろと封筒を引き出した。
「この封筒はなんでしょうか」
 香坂氏から聞いているだろうが、と言いそうになるが、その言葉を呑み込む。重い溜息をついて、本当にどうしようかというくらい情けない顔を作る。
「昨日から商売でお邪魔してるんです。古物商でして」
 俺はそこまで言うと、名刺入れから一枚名刺を引き抜き、警官に渡す。
「かぜ、こと、どう、おんしつさん?」
 漢字が読めんのか! と叫びそうになるのを笑顔で押し殺し、
「ふうきんどうの、みむろ、です。どうしましょうか、こうやって小切手をご用意してたんですが、こんなことになるとは」
 俺がそこまで言った時、香坂氏が客間に入ってくる。卓の上の封筒を見つけると、その恰幅のよい体が仰け反ったように見えた。
「み、御室さん、あんた小切手は義母さんに渡したんじゃなかったの!」
「お渡したかったですよ、領収書もいただきたい」
「こりや、こりゃ大変だ! 高子! 弁護士の先生!」
 香坂氏は騒ぎながら戻っていく。警官はどうしたものかとその背中を見送っていたが、荷物は鞄に仕舞っていいと指示してくれた。
「父さん、何が心配なの?」
 部屋の隅で息を殺した猫のように座っていた瞳子は、俺に尋ねる。俺はちょっと唇を曲げると、苦笑に近いものを浮かべる。
「相続、だよ。小切手、まだ受け取ってくれていなかった。君のお家くらいの人になると、すぐに色んな所に情報が行って、預金等が動かせなくなる」
「どうして?」
「どうしてって、相続者にしかお金は動かせないんだ」
「父は何時もお金のことばかり」
 棘のある言い方で瞳子は言った。
「相続者は私にするって、おばあちゃん言ってた」
 その呟きに、俺に幾つか質問をしていた警官もぎよっとしたらしい。思わず俺と警官は顔を見合わせてしまう。まさかの父と娘の跡目争いという光景に、さすがの警官も言葉を失くしたらしく、手帳を閉じると俺に軽く一礼した。
「許可が出るまで恐れ入りますが」
 警官にそう言われ、俺は頷くだけだった。自分の荷物を鞄に収め、瞳子を招きよせると、客間の袋戸を開ける。鞄の中に入れておくよりいいだろうと、倉から持ち出した品を入れていたのだ。
「出してもらえる?」
 俺が言うと、瞳子は不思議そうな顔をして首を傾げるも、片袖と数珠を取り出す。
「これがどうかしました?」
「うん、俺には鬼門みたいだから。見覚えある?」
「いえ、初めてみます」
 瞳子は細い指先で、暫く数珠や片袖を確かめるように触っている。年代物だよ、と俺が言うと、驚くほどに冷たい微笑みを片頬に浮かべた。
「じゃぁ、父に見つからないようにしてください。父はなんでも、お金、ですから」
 瞳子は吐き捨てるように言う。俺はどういう顔をしていいのか判らず、頭を掻いた。
「電話、貸してもらえる?」
 溜息を呑み込んで、瞳子に言った。

 
「そう、やっぱり亡くなった」
 電話の向こう、御室の低い声。からん、と、良い音がした。からからと、巡る音。俺は受器を右肩に挟みこむと、香坂家の屋敷を行きかう人の視線から逃れるように壁に寄り添い、その砂地模様を目で追う。
「朝酒ですか」
 俺が問いかけると、ひそりとした忍び笑いが戻ってくる。これだから、御室をあまり一人にしたくはない。
「女学校の後輩なの。下級生なんだけれど、一時我が家に下宿したりで、妹みたいに可愛かった」
 言葉が切れて、また虚ろな音が受話器の向こうから聞こえてくる。何を詰めても埋まらない大きな虚に、低く響いている。
「私のことをよく知ってくれた後で、離れていかない人だった」
 愛おしそうに御室は言う。綾子さんの穏やかな微笑みを思い出しているに違いない。何時になく、しんみりと囁くように、御室は言う。その声に重なり、からん、からん、また氷の音が響くのだ。俺はと言えば、左手を握りしめようとして失敗する。御室が何を見るのか、それは彼女にしかわからない。俺の左手が、何を読むのか俺にしかわからないように。
 左目だけに、濃い色硝子の嵌った御室の眼鏡。彼女の左目は、時に未来を見るらしい。彼女には、大事な人の終わりの景色が見えていたのかもしれない。
「どうするの、仕事は出来そうにないし、この家、なんだか面倒そうなんだけど」
 俺が囁くと、御室の苦笑が伝わってくる。俺は言葉を続ける。
「父と娘の相続争いとか、もう勘弁してほしいんだけど」
「確かにねぇ、相続争いはお前の仕事じゃないねぇ。でもまぁ、誰がご当主なのかお前には見届ける義務があるんじゃないかねぇ」
 のんびりと御室は言い、くつくつと笑う。嫌な笑い方だ。受話器の向こうで俺がぶんむくれた姿が見えたのだろう。小さく咳払いをする。
「何事も勉強だよ、七海。それより、隣のお宮の池の蓮、ほら、薄紫色の綺麗なやつ、あれを分けてくださるそうなの。薄紫の蓮だよ、極楽みたいじゃないか」
 俺のことより、蓮の花が大事らしい。ますます俺はむくれて、受話器を叩きおこうとすると、
「お前の保護者をよこすから」
 そんな言葉が聞こえて、慌てて再び受話器を耳に押し当てる。何か言おうと唇を開きかけるが、単語が出てこない。ちょっと待て、あいつが来ると余計に面倒なことにはならないか。
「いや、あの人には来てもらわなくていいから!」
「どうしてだい。相続云々は彼の仕事だね。領収書さえろくに貰えない子とは思はなかったよ」
 溜息まじりの小さな笑い声がして、電話が切れた。もしもしと暫く受話器に向かって怒鳴ってみたが、俺は肩の力が抜けてしまう。小さく息を吐いた後、屋敷の中の声や音に耳をすませる。
 人の死、というのは不思議だ。何だろうか、この家の中に満ちている奇妙な活気。人が何人も行きかい、色んな声がする。それがいきなり耳元でわんと響き、俺は思わず耳を塞ぐと、思わずそこにしゃがみ込んでしまう。
「大丈夫ですか?」
 柔らかく声を掛けられ、そっと肩に温かな手が置かれる。首を捩じって声の方を見ると、高子さんだった。
「すいません、お役に立てなくて」
 俺が立ち上がると、頭を下げる。高子さんは穏やかな顔に哀しそうな色は見せず、俺を居間に入れてくれる。小さな茶卓は家族用で、新聞や老眼鏡が載っているさまが、安心させてくれる。冷蔵庫から出して来た麦茶を、湯呑みに注ぎ俺に差し出し、高子さんは微笑んだ。
「瞳子の態度、すみませんでした。母がひどく甘やかして。私ども夫婦が諦めかけた時に出来た子ですから尚更」
 高子さんは見ていたのか、さっきの瞳子。俺は答える言葉が選べずに、冷えた麦茶を飲むことに専念する。どの家も色んなことがある。
「あの、今回のご自宅の色んな物を当店にお譲り戴くことを、奥さまはご了承なさっていらっしゃるんですか」
 そろりと俺が言うと、高子さんは今まで落ち着いて優しかった視線を、拠り所がないような不安定なものにしてしまう。
「今更もう、どうにもなりませんでしょう。それにいっそ全部無くなった方が、兄妹達も諦めるでしょう」
 やんわりと、だが思いのほかに冷たい声できっぱりと高子さんは言う。俺はなんと答えていいものか、自分の口元を右手で掻いた。高子さんは自分の態度に戸惑ったように、そそくさと立ち上がり、部屋から出ていった。さて、どうしたものかな。俺は自分の頭を軽く右手で叩く。車の音がひっきりなしなのは、警察や親戚関係がひっきりなしなのかもしれない。
 どのくらいの足止めを食うのか尋ねたくて、朝に出会った警官の姿を探すが、母屋は人が入り乱れて、とてもじゃないが俺はそこに居続けることが出来ない。結局は離れに戻り、座っているしか能がない。それもあんまりだから、散歩でもしようかなと、腰を浮かしかけた時、地の底から響いてくるような重いエンジン音を聞いた。
 空耳だと思いたい、と両耳を塞ぐ。すると、瞳子が客間の前庭にひょこりと姿を見せる。笑いを堪えているのか、強張っているのか複雑な表情でいる。
「御室さんにお客さん」
 その言葉を最後まで聞かないでも、彼女の背後にのそりと立つ大男に俺は思わず天井を仰いでしまう。皮ジャンにジーンズ、白髪の混じり始めた坊主頭。喪の席にやって来る恰好では、そもそも、ない。
「お待たせ」
 いかつい顔でにやにや笑いながら、そいつは言う。瞳子は猫のように首を傾げた。
「お友達?」
「違うよ。店の、その、なんだな、色んなことの手続きをやってくれている弁護士です」
 俺の言葉に、瞳子は疑わしげに嶽の顔を見つめる。暫くジーンズの尻ポケットを弄っていた嶽は、あったと呟くと肉厚な掌の上に、弁護士記章を転がす。
「お前、そんな場所に入れるなよ」
「背広着ないからよぉ」
 嶽はとそう言い、本人はにこやかに笑ったつもりだろうが、鮫みたいな笑い方で瞳子に視線を向け、
「嬢ちゃん、上がっていいかね」
 と、濡れ縁を指差す。足元はライダーブーツなので、お気に入りのBMWの単車をかっ飛ばして来たに違いない。瞳子が頷くと、思いのほか丁寧にブーツを揃えて濡れ縁に上がり、俺の目の前に紙袋を差し出す。
「御室さんからの預かりもの。まぁ、なんだな、大体お前が出かけると、大雨になったり、雷が落ちたり、お前が怪我したりだが、人が死んだのは初めてだな」
 嶽は楽しそうに言うが、余りにも無神経なので、紙袋を受け取りながら、その角で思い切り手を叩いてやる。素早くデカいその手で頭を叩かれた。
「御室さんが来たからおばあちゃんが亡くなったわけじゃないから」
 瞳子はちょっと怖い顔で嶽に言った後、俺に視線を移し、「疫病神なんですね」と呟いたのだった。俺は残念な気分で紙袋を覗く。紙袋には数日分のシャツや下着。御室よ、俺にまだ此処に滞在しろということか。がくりと項垂れる俺の横で、嶽が胡坐をかき、革ジャンの胸ポケットから煙草を取り出す。灰皿を探していたようだが、近くにはない。
「嬢ちゃん、葬儀の日にちは決まったのか?」
 嶽の問いに、瞳子は首を横に振る。客間に上がってくると、座卓の下から灰皿を取り出す。
「伯父が検死を主張しているし、お寺と火葬場と、日にちの悪さが重なって、数日かかりそうです」
「御室、何か言ってた?」
「代わりに葬儀に出てくれって、それだけだが」
 ペルメルの封を切りながら、嶽。そんなとき、高子さんが瞳子を呼ぶ声がする。母屋は人手不足らしい。彼女は小さく一礼すると、母屋に戻っていく。その姿を見送った後、嶽は徐に俺に向き合う。
「この家、まあ色々とあるようで」
 嶽は唇の端に煙草をぶら下げたまま、俺に手帳を寄越す。体に似合わない小さな字で、びっしりと文字と数字が書きこまれている。金額は、ざっと。嶽の調べによれば、数年前に近郊にショッピングモールを兼ねたテーマパーク建設の話が持ち上がったらしい。半世紀前からの計画である国道の拡幅も始まり、香坂氏はモールの集客と人口増を当て込んで、不動産事業に手を出した。賃貸マンション、最初の一棟目は好評だったらしく、それに味を占めた香坂氏は立て続けに田畑を潰してマンションを建てたのだ。
「固定資産税の滞納、競売物件に出てたな。これで、ばあ様が死んで相続がうまくいかないとどうなるのかねぇ」
 まるで他人事なので、嶽は乾ききった声でいる。俺はちらりと、ガンダーラ仏のように通った鼻梁の横顔に、尖った視線を投げつけるといらついた声で訊ねる。
「で、嶽は何しに来たわけ」
 その問いに、不似合いなほどに明瞭な声でしゃあしゃあと言う。
「御室さんのお使いと、俺のお仕事の匂いがしたわけ」
「確かに、俺の体たらくです、すいません」
 独り言にしては大きな声で、俺がごちれば、嶽がにやりと笑う。人の悪い笑い方だ。
「さて、俺はご当主と話してこようか。結局、風琴堂の金の用意が遅れて、依頼主の存命中にこの小切手が渡せなかったわけだから。この金は誰の所有になるのかね」
「ご当主は自分だって、さっきの子が言ってたよ」
 俺の言葉に嶽は肩を竦める。
「あの嬢ちゃんが相続ねぇ」
 嶽は煙草に火を点け深々と煙を吸い込むと、広い庭に視線を移す。ゆっくりと一本を吸い終えると、丁寧に灰皿で火を消す。俺は黙ったままでいる。嶽はそんな俺の髪を乱暴にかき混ぜると、封筒を手に客間から出て行く。読みかけの文庫本が鞄の中にあったことを思い出し、取り出して頁を開いてごろりと横になる。と、出て行ったばかりの嶽が頭の上に立っている。思わず身を起こしてしまう雰囲気。
「顔貸せ」
 嶽の顔は恐ろしく無表情になっている。ということは、かなり怒っている。連れて行かれたのは、最初に通された母屋の客間だった。そこには紫檀の大きな茶卓が置かれ、男女女という三人組と、香坂氏夫婦が向き合っていた。卓の上には冷茶とカステラが並んでいるが、誰も手を付けていない。その中央、むき出しの小切手とカラープリントされたA4の紙が数枚。
「今回こちらにお伺いしている、風琴堂の御室です。先刻、私に仰ったことを、この御室に直接聞かせてやってください」
 嶽のしゃべり方に、首筋がぞわぞわする。俺が正座すると、白髪頭を綺麗に七三に分けた六十項半ほどの男性が、小さく咳払いをする。
「はじめまして、香坂信弥と申します。高子の兄です」
 そう名乗った人は、自分の右隣の二人を手のひらで示し、
「高子の姉、元子、妹の久子です」
 太った方が姉、痩せた方が妹ね、とぞんざいに脳内で処理をする。俺の目は卓の上にある紙に釘づけだ。インターネットからダウンロードしてきたのか、今回うちの店が買い取った品と同じ、ようなもの、が載っている。
「その、母とご店主とは古い馴染みでいらしゃったようですから、申し上げにくいんですが」
「お買取りの値段がお安いと思いません、こちらに比べると。御室さんもご高齢でしょうから、ちょっと鑑定の方、如何なのかしら?」
 むっちりとした指で、姉の方が紙を摘む。よりによって、その店かよ。いわゆる、和文ゴシックのフォントの文字も気に入らないが、「お高く買います」の文字が気に入らない。商売敵でもある店のネットショップをプリントしてきたらしい。
「我が家から安く買い上げて、他で高く売るおつもりでしたら、この買い取りの話はなかったことにしていただきたいの」
 痩せた妹が言う。香坂氏は俺の顔を睨むように見ているし、高子さんは顔を歪ませて俯いている。俺は暫く香坂家の人々を見回した後、嶽を見た。彼は石仏になったように口を結んで微動だにしない。
「当店の顧問弁護士にお伺いしますが、こちらが話題にされているお店、浪漫屋さんとの間での係争物件は何件ありましたか」
「先月までの時点で十一、今月も二件ありますな」
 嶽は必要なことだけ言って口を閉じる。俺は深く息を吸い込むと、
「そこの店で古物を買って、泣き寝入りでうちの店に駆けこんでくる人がいるんだ。うちの店は毎回尻拭いだよ。言っときますが、御室の査定に、絶対、間違いはないんです。過去に何回も名前を変えては倒産させて品をちょろまかす、御立派なお店だよ、その店」
 一気に言い放つ。居並ぶ人を見回すが、誰も何も言わない。俺はそのまま席を立つ。誰も引きとめなかったので、嶽と一緒に部屋を出た。

 
「もう少し高く買い取ってくれたら祖母もサインしたと思う」
 流浪の小切手はまた俺の元。瞳子も納得がいかないような口調で言うが、それでも持ってきた夕飯の膳を卓に並べていく。豚カツとご飯に味噌汁、サラダ付き。わざわざ俺達用に用意してくれた晩飯、三人分。瞳子の言葉に俺は眉根を寄せた。嶽はビールの缶を目の前に並べることに専念している。
「需要と供給で市場は成り立ってるんだよ」
「それぐらいわかってます。希望を口にしただけです。倉にお宝が眠っていて、傾きかけた旧家は再建、娘は晴れて都会に出ることが出来ましたって」
 やけくそ気味に言いながら、瞳子は茶碗に飯を大盛りにし、嶽に差し出す。嶽は飲むと飯は食わないので、俺に回してくる。俺はそんなに食えないので瞳子に返す。瞳子はちょっとむくれて茶碗の中身を半分に減らす。彼女は人見知りする子らしい。親戚と話す時でも緊張している。俺には慣れてくれたのか、それともまるっきり他人の方が接しやすいのか、初めてあった頃よりも表情がよく動くようになった。
「母は何時も自分は貧乏くじを引いたって言います。伯父は大学を出て家を出ました、伯母達だってさっさと結婚して」
「金が絡む相続は面倒だ」
 嶽は呟くと、五本目のビールを飲み始める。瞳子は答える言葉がないらしく、自分の小さな茶椀に飯をよそう。
「伯父も伯母達も嫌いです」
 瞳子は杓文字を握りしめて呟く。そうだろうね、あんなんじゃね。普段の疎遠さも見えたよ、大体、母親が死んだ時にあんないちゃもんつけるかね。
「父がマンション経営に手を出してしまったのだって、元はといえば銀行勤めの伯父がそそのかしたからですよ! それを断りきれなかった父と母も情けないじゃないですか!」
「大人の事情、ってやつさ」
 嶽が皮肉を込めて言えば、瞳子はきっと彼を見据える。
「嶽さんは平気ですか、自分の生まれ育った土地が、見慣れた木が、いつの間にか消えてなくなっていくのが」
 瞳子の問いに、嶽は唇を曲げて笑ったようだった。回答がないので瞳子は俺を見る。俺は目を逸らした。俺も嶽も町育ちだ。見て育った光景といえば、電線が張り巡らされて切り取られた青空に、煤けた雑居ビル程度。返す言葉はない。
 その晩、嶽の鼾で、常から寝つきの悪い俺は浅い眠りから引き戻され、ふと目を開け、そのまま息を止めた。床の間の辺りに、小袖袴姿の少女が片胡坐で座っている。形の良い小さな顔、切れ長の綺麗な一重で、俺を見つめていた。ぎゅと目を閉じ、再び開けると、今度は目の前にいる。声が出ないでいる俺に、彼女は何やら言いかけるのだが、薄く紅い唇が動いているのが見えるだけで、言葉は聞こえない。白い小さな手が、俺に向かって何かを寄越せというように向けられる。
 ――るりはいずこに。
 そんな声が聞こえた時、瞳子の悲鳴が屋敷中に響き渡る。途端、少女の姿はかき消え、俺は大きく息を吐いた。母屋に灯が付き、足音がする。それでも起きない嶽に腹が立って、頭を叩く。廊下を駆けてくる足音がして、勢いよく障子が開く。トレーナー姿の瞳子だ。彼女は目を大きく見開いている。
「お化けがでた! 電気つけてたのに! だから嫌なの! 暗いところとか! 電気点けてたのに!」
 瞳子は誰に向かって怒っているのか、泣きながら踵を思い切り畳に叩きつけ、籠の中のハムスターのように歩き回る。あまりの気配に俺は声を掛けようとするが、「嫌!」を連発するばかりで、とうとう嶽の腹に乗り上げる。蟾蜍なみのうめき声で嶽は目を覚まし、それでも落っこちてくる瞳子を抱きとめる。さすが、俺だったらそのまま潰れてしまう。
「なんだなんだ、七海が夜這いにでも行ったか」
 下品な物言い。俺が殴るより早く、嶽は瞳子に厚い胸板を思い切り叩かれている。それで少しは気が済んだのか、放してよ、と嶽を真顔で見つめる。嶽は「よくわからん」と呟きながらも、瞳子を横に座らせる。
「女の子の幽霊が出た」
 そう言った時、浴衣姿の高子さんが部屋に顔を見せた。
「瞳子、どうしたの、何があったの?」
 俺達を、不審の目で見ないでください、お願いします。瞳子は高子さんの手を引くと、自分の隣に座らせる。
「お母さん、髪が長くて、私くらいの女の子」
 瞳子が言いかけた時、俺は息を止めた。高子さんと瞳子が座っている後ろ、丁度、床の間の辺りに、少女が立っている。声を上げようとしたが、息が出来ない。長い黒髪を緋色の紐できりりと頭上で結び上げ、辻が花染めの小袖に鉄金色の袴。腰には小太刀が差してある。切れ長の瞳は怒っているのか釣りあがったように見え、人形のように小さな顔は青白い。恐らく、今この部屋にいる中で、俺だけに見えるのだろう。彼女の唇は再び動く。
 ――るりはいずこに。
「こ、此処にはありません」
 吐きだすように唇から声が弾ける。途端、部屋の電気が一瞬消え、また点いた。瞳子が悲鳴をあげる暇もない。金縛りにあっていたような俺の体は突然軽くなり、訝しげな皆の視線に晒されてしまう。左手が疼いている。熱い。
「年は、君くらい。黒髪の、小袖に袴の姿」
 流れ落ちてくる汗を右手で拭い、俺が言えば、瞳子は頷く。立ち上がろうとして失敗し、畳の上に座り込む。
「ここに、何かないんです。何か失くされたもの、人に譲ってしまったものはありませんか。るりはいずこに、って。るりって、なんですか?」
 高子さんが俺から顔を逸らし、しかし何か考える様子で眉根を寄せている。瞳子は俺ににじり寄ってくる。
「その子は誰なの?」
「……俺が聞きたい。とても、怒っている」
 そこまで言った途端、目の前が真っ暗になった。

sunkaku

菅野樹(Kanno Tatsuki)

福岡市の古い町の片隅に住んでいます。
地元を題材にした、色んな物語を書いていきたいと思っています。
好きな場所は、Barカウンターの片隅。
クラシックギターと猫が好きです。
Twitter @kannnokannno