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売られる戦場買う人でなし 10 斜線堂侑李

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 一瞬、ほんの一瞬だけ、このまま同居人の家から抜け出して、何処へ行くとも告げずに逃げ出せないかと思ってしまった。別に同居人が僕の行動を制限しているわけでもなく、僕はただただ同居人を利用しているに過ぎないというのに、逃げ出したくなってしまった。
 きっと同居人はこのくだらない思いつきに対してにこにこして、僕が玄関から入ってくるのを待っている。
 それを裏切ってやるという愉悦。
 それをぐちゃぐちゃにしてやるんだという感慨。それをやれる今の立ち位置が甘美だ。
 それをやれるだけの甲斐性が僕にはない。ついでに言うなら金もない。……信頼とかそういうアレじゃない。ただただ、僕には出ていく能力がない。それだけだ。
 僕は素晴らしい世界に背を向けて、同居人の家の扉に向き直った。一息吐いてから、ドアノブを回した。
「いらっしゃいませ」
 同居人が少し頬を赤らめながらそう言って出迎えてくれる。とても可愛らしい。とても理想的。とても楽しそう。
「今日はよろしくお願いしますねー、お客様」
「……はいはい、どうも」
 僕は心の底から、さっき逃げ出さなかったことを後悔した。
 
「こちら、お部屋ご案内致しますねー」
 「わー、すごーいすごーい」と、気のない返事を返しておく。いつもと変わらない部屋だ。実家がお金持ちな、同居人の部屋。恐らくこの部屋で過ごした時間は同居人よりも僕の方がずっと長い。僕が日の光を嫌っているから、鮮やかな青のカーテンはずっと閉められて、青空の代わりになっている。
「ね、凄い部屋でよかったね」
「ちょっと待て、お前はどういう立ち位置なんだ。さっきまで女将さんだったろ」
「そうなると君が一人で旅行に来てることになっちゃうじゃん!」
「楽しいじゃん」
「駄目だよ。私が当てた温泉旅行なんだし、……君は一人じゃいかないでしょ?」
「……いやまあ、行くかもしれないだろ」
「行かないよ」
 ぴしゃりと話を打ち切るように同居人はそう言い切った。その可能性を考えないようにしているようにも見えた。
 同居人の中での僕の弱者っぷりを噛みしめながら、僕はいつもと変わり映えのしない部屋を見渡した。恐ろしいほど何も変わらない。少しくらい変わってくれてたらいいのに。むしろ、同居人の側が何か変えるべきだったんじゃないだろうか? こういうのって、雰囲気が大事。
「それで、温泉旅行って何するんだっけ」
「さあ、のんびりして観光して温泉に入ってごちそうを食べて寝るんじゃない?」
「観光は無理だから、じゃあそれ以外をしよう!」
「一番重要なファクターを無視するならもう温泉旅行やめちまえよ」
「いいの! のんびりしよう! 日頃のストレスとか日常とか仕事から離れて、楽しく過ごそうよ!」
「僕は仕事してないし、今君いる場所が僕の日常だけど」
 ついでに言うならストレスの原因だって僕に違いない。旅行の全てが個人の延長線上にあるっていうのはどうなんだ? 
「ああーよかったー。江ノ島最高だね。前々から行きたいって言ってたもんね」
 同居人はもうすっかり温泉旅行にシフトしているようだった。
「ここ、やっぱり江ノ島なんだ」
「昔さ、行きたいって言ってたでしょ? だから、江ノ島」
 そんなこともあっただろうか。……全く覚えていなかった。同居人が同居人になる前、どんな会話をしていたのか、そういうのは全く以て記憶から遠かった。
 江ノ島行きたいね、なんて幸せな会話が想像できなかった。
 もしかすると同居人の嘘なのかもしれないけど、僕にはもうそれすら判断出来ない。
「外には出られないけど、私あの海が見れただけでよかったよ」
「……はあ、さいですか」
「というか、私は君と一緒ならどこでも楽しいんだけどね」
「はあ、」
 それは、今の僕でも適用される言葉なんだろうか?
「…………ね?」
 同居人は僕の方を見て楽しそうな笑顔を浮かべていた。妄想にここまで身を入れることが出来るなら女優にでもなればいい、と思った。折角顔だけは恵まれているんだから。もう少し華やかな世界で生きればいい。
 ……何の反応も見せない僕に流石に気まずくなってきたのか、同居人の顔が段々ひきつっていく。こうなると、根比べみたいで少し面白くなってきた。一体いつまで江ノ島気分でいられるのか、江ノ島チャレンジだ。同居人の表情筋が段々と辛そうになっていく。助けを求めて目線が上下する。でも助けない。面白いから。
「うううぅうう、お客様ぁー」
「いきなり女将になるなよ」
「食事、どうなさいますか!?」
「あ、いいです。断食中なんです」
「えっ、それ温泉旅行で言う台詞じゃないでしょ! 一番駄目な台詞だよ!」
「ここが一番温泉旅行と違うところだよ! お前に包丁を持たせると江ノ島が壊滅するだろ!」
「どうしてそうやって酷いこと言うかなー」
「いいよ……折角だし、出前でも取ろうよ。そっちの方が旅館っぽいだろ……。ほら、寿司とか取ろう。寿司」
 結局金を払うのは同居人なので、勝手な提案をした。
「あ、いいね! 取ろう取ろう!」
 さっきまでの不機嫌そうな顔もひきつった顔も何処へやら、同居人は笑顔でそう言った。そして、飛び上がるように電話機の方へ向かった。携帯電話も持っているのに、ちゃんと固定電話を引いているところが、生活の余裕と育ちの良さを感じさせるような気がする。
「あ、ねえねえ! 何がいい? こっちにメニューもあるけど!」
「一番高い奴わさび抜きで取ってくれたら何でもいい」
「それ、何でもいいって言わなくない?」
 小さく文句を言いながらも、同居人は律儀に特上を二つ頼んだ。こういうところも、また同居人らしいんだよなぁ、と僕は密かに思った。
 綺麗で明瞭な聞き取りやすい声が、ここの住所を告げる。軽い音をたてて、電話が切れた。
「さて、頼み終わったよ! 第一段階は終了だね!」
「あ、はい、お疲れさまです。それじゃあ、出前が来るまで僕は今朝の新聞についてたクロスワードでもしておこうかなと思うんだけど」
「何言ってるの! もっと他にやることあるでしょ!」
「就活?」
「それは温泉旅行中は忘れよう!」
「それならクロスワードやっててもいいんじゃない?」
「駄目! そもそもあれ私のクロスワードパズルなんだから、勝手にやらないで」
「痛いところを突いてくるな……」
 どうせ今日はやらないんだろうし、平日はちゃんと仕事に行くんだから常日頃暇な僕に譲ってくれてもいいのに。心の狭い奴だ。
「まあまあ、ちょっと待っててよ。もう少しで準備が出来るから」
 同居人は楽しそうにそう言うと、ちらちらと台所の脇のところを見ていた。基本的に料理が出来ない同居人はそんなところに用はないはずなのだけれど、さっきから視線は忙しなくそちらへ向けられている。
「何を待って……」
 僕がそう尋ねた瞬間、オルゴールアレンジが施された「おおブレネリ」が部屋中に響きわたった。その音を聴いて、同居人は更に喜色を深め、反して僕の表情は凍りついた。悲しいことにここは江ノ島ではなくよく知った同居人の家なので、この音楽の正体はよく知っている。
「温泉旅行だもん。必要でしょ? ……温泉」
 語尾にハートマークが付いていそうな言葉だった。
 
 
 さながら籠城戦だった。半裸になりながら脱衣所の扉を押さえる僕は、世界で一番間抜けに見えるだろう。普段も誉められた存在じゃないが、今の僕は最早哀れだ。背中にドンドンと容赦なく扉を叩く感触を感じる度、心細さでちょっとばかり泣きそうになった。一体何がどうしてこうなったんだ?
「ちょっとー! 何で温泉入ってくれないの!? ちゃんと温泉らしさを出す為に、入浴剤も入れたよ!? 私の努力、もしかして伝わってない!?」
「伝わってる伝わってる! 背中にダイレクトに感じてる!」
「それじゃあ何で!? ここにいるってことはお風呂入ってないってことでしょ!?」
「僕がここにいなくちゃいけない理由、少しでいいから考えてみたことある!?」
 ドンドンという音が止まない。このまま斧で扉を割って、そのまま顔を覗かせてきそうだ。
 そもそもこうなった原因は全て同居人にある。同居人の笑顔が不気味だったものの、お風呂にはまあ入らなくちゃいけないものだし……と促されるまま脱衣所に入った矢先の出来事だった。同居人が意気揚々と脱衣所に飛び込んできた。
 僕は久しぶりに派手な絶叫をあげながら、半分以上上を捲り上げていた同居人を突き飛ばした。服を脱いでいる最中で油断していた同居人はそのままよろめいて廊下へ強制退場させられた。そのまま扉を乱雑に閉める。そうしている内に、この状態というわけだ。
「開けてよー! 大丈夫だから一緒に入ろう!? だって温泉なんだよ!? いつもと違うんだよ!!?」
「何が大丈夫なんだよ! 大丈夫じゃないだろ!」
 実際の温泉だって混浴なんておいそれとないというのに、これは完全に温泉旅行の範疇から外れている。それどころか完全にデリヘルの領域だ。デリバリーどころか備え付けのヘルス! 手に届く場所にあるインスタントな情事だ。冗談じゃない。僕と同居人は恋人じゃなく、寄生虫とその宿主でしかないというのに。
「わかった! 百歩譲って入らないから、ゆっくり浸かってよ。私は君にリフレッシュしてもらいたいんだ」
「譲る範囲が狭すぎるんだけどな……」
 けれど確かに、背後の衝撃は止んでいた。ドンドンというダイレクトな恐怖がないだけで少し落ち着く。
「……何もしないよ?」
「うんうん、それはわかるんだけど……。じゃあさ、地面に伏せてこうビーチフラッグみたいな姿勢になって、扉を背にしてくれないかな」
「え? 何で?」
「信用してないわけじゃないけど、ほら、一応、一応ね」
「……うん……わかった」
 心底不服そうな声だったけれど、一応同居人は了承してくれたようだった。気配がもう一段階下がり、位置が低くなる。
「やったよー」
 床の近くから発せられているからか、その声は奇妙によく響いた。
「それじゃあそれから十……いや、二十秒数えてくれないか。その間に僕は浴室の中に入るから」
「はいはい」
「じゃあ、二秒数えてからカウントを始めてくれ」
「ねえそれ全部で二十二秒じゃない? いいけど」
 やけに物わかりがいいな同居人。しかしそれでいい。こうなったらこっちも意地でも風呂に入らなくちゃいけない気分になってきた。まるでこれが何かの重要な勝負であるかのような雰囲気である。負けたら失うのは尊厳だ。売られた喧嘩をほいほい買うような人間じゃないけれど、始まってしまったからには勝つしかない。
「それじゃあ始めるよ。いーち、」
 同居人の声が聞こえた瞬間、僕は弾かれたように脱衣所の扉から離れ、浴室へと飛び込んだ。急いで扉を閉める。その瞬間、スッパァーン!! とまるで襖が開け放たれたかのような気持ちのいい音と共に、同居人が颯爽と脱衣所の中に飛び込んできた。とっさに浴室の扉を背で押さえる。さっきぶりの刺激が僕の背中に伝わってきた。
「ちょっとー! 何で下脱いでないの!? 流石の私もそのまま湯船に浸かられるのは抵抗があるよ!」
「てっめえええええ!! 二十二秒どこ行ったんだよ! 相対性理論もびっくりだわこのド腐れ体内時計が!!!」
「ちゃんと数えたよ!!! 時差があるようだけどちゃんと数えたもん!!!」
「やっぱ僕らの心の距離って超遠いんじゃん!! 来んなよ!!」
 脱衣所の扉が浴室の扉に変わっただけで、状況は何も変わってない。むしろ擦りガラス? になったことで、扉はもっともっと心許なかった。このままバリンとガラスが割れて、そうしたら……そうなったら……どうなるんだろう? 安直なアンラッキースケベ?
 女の子が一緒にお風呂に入ろうと強請ってきて、それを諫めるだなんて字面だけ見れば最高に素敵なシチュエーションなのに、相手が同居人であるというだけで本当に怖い。
 かつてはあれこれやっていたというのに酷い話だ。据え膳をひっくり返して暴れる子供みたい。でも、ここだけは譲れなかった。僕の嫌悪感とか憎しみとか、そういうドロドロとした感情はまだ存在しているはずなんだ。
 バンバンという音と共に、ガラスへの衝撃は止まない。このままだと割れちゃう! らめぇ! 壊れちゃううううううっ!
「おらっ!」
 バアン! という大きな音を立てるのは予想以上に楽しいものだった。退屈が嫌いな同居人がこんな行為を続けられていた理由がよくわかる。同居人は困った風に扉を叩き続けていた訳だけど、実のところ結構楽しんでいやがったのだ。やれやれ。
 まさか僕の方から殴られるとは思わなかったのだろう。同居人がびっくりしているのがドア越しでもわかる。気配もやや後ずさった。攻勢を極めていた人間は一転して攻められると弱い。はは、単純な法則じゃないか。僕は上半身裸で勝ち誇る。ややあって、同居人が声を発した。
「……ちょっ、やめてよ。扉壊れちゃうでしょ」
 ごもっともなご意見だった。ここは同居人が多大なる親の援助を受けている大切で小奇麗なアパートメントなのだ。居候の僕が好き勝手にぶち壊していい場所じゃない。
 けれど、今回はそうも言っていられないのだ。何せ男としての尊厳が掛かっている。ここは熱海じゃない。江ノ島でもない。同居人と一緒に風呂に入れるような場所じゃないのだ。
 僕は意を決してもう一度浴室の扉を叩く。バアン! と大きな音がした後に、少しだけキシッという不穏な音が聞こえた気がするけれど、まあ心配しても始まらない。ここはどうせ同居人の家だ。
「ここは僕の家じゃなく君の家だ。だから、僕がこの扉をぶっ壊したところで痛くもかゆくもない。壊して欲しくないならそれ相応の誠意を見せた方がいいんじゃないかな。何せ、壊されて困るのは君なんだからな」
「いや、ええ……っ、その、」
「どうした。壊されたくないならさっさとこの場から立ち去れ。僕は穏便に風呂に入りたいんだ」
 
(つづく)

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斜線堂侑李(Syasendo Yuri)

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