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売られる戦場買う人でなし 8 斜線堂侑李

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 最初のメールから最後のメールまでの時間は二時間三十二分。着信は十八回入っていた。妹ちゃんの方も大分動転していただろうから、俺にぱちぱちとメールを打ってやる余裕が、その二時間三十二分の間に三回しかなかったということだろう。四回目のメールは死んだ後に書かれたものだから、ノーカウントとする。
 四回目のメールは、丁度レポートが書き終わったあたりに送信されていた。
 メールの受け取りを知らせるメロディはカノンだ。特にその曲が好きだったという訳でもないのに、初期アラームの中に入っていたからそれにした。好きではないけれど、綺麗な曲だとは思っていた。あの綺麗な曲に誰一人として気付かない状況があるのだ、と知った。
 母親が死んだことを知らせるメールを受け取ってから、同居人が図書館で待つ僕に携帯電話を届けるまでにゆうに三十分のタイムラグがあったことについて、僕は責めるつもりはない。どうせ、僕が携帯電話を受け取る時には母親は死んでいたのだし、同居人はこの爆弾を抱えた携帯電話を届けるまでに、僕に何度死刑宣告をされたかわからない。あの時の同居人の顔と言ったら。僕は絶対に忘れない。
 揺り起こしてくる手がいつもよりもずっと優しくて、僕は起き抜けに同居人の名前を呼んだ。幸せそうに響いてしまったのかもしれない。同居人は泣きそうな顔をしていた。それでも泣かずに、同居人は僕の手に携帯電話を押し付けた。そこには、寝ぼけた眼でもしっかり認識できるような悲劇のグラデーションが並んでいた。
 甘くてなおかつ胸糞の悪い話で申し訳ないのだけれど、この時僕が設定していたパスワードは同居人の生年月日だった。今にも自殺を選びそうな同居人の前で、僕は同居人の生年月日を正確に入力し、そして、母親が事故にあってから死ぬまでを実況したメールを一通ずつ開封し始めた。
 同居人は一言も何も言わなかった。
 
 母親が死んでからのこのこと病院にやって来た僕を、妹ちゃんも医者も看護婦も信じられないような顔で見つめていた。僕を薄情者だと目線で罵らなかったのは母親本人くらいのものだ。だって、目は閉じてたし。
 今日は普通に大学にいると言っておいていた。講義は午前中で終わって、午後は図書館にいるとも。どう考えても三時間一切の連絡がつかない状況ではなかった。そこにいる全員がそう言っているような気がした。
 妹ちゃんには死ぬほど怒られたし、携帯電話を持っていること自体を詰られた。肝心な時に連絡がつかないのなら、最初から持たない方が良かったのだ、と言われた。お兄ちゃんがそんなもの持ってなければ、私は送信ボタンを押すたびに、コールボタンを押す度に、絶望的な気分にならなくても済んだのに。
 妹ちゃんにはその際、右手の薬指と中指を折られてしまった。今となってはもう何で殴られたのかも覚えていない。頭はまずいよな、と思って手でガードをしてみたら、僕の頼りない手の指は軽い音を立ててあっさり折れた。妹ちゃんは謝らなかった。僕は、母親が死んだ病院の整形外科にかかって、ギプスを巻いて貰った。こういう時に病院というのはいい。
 僕が気にしていたのは同居人のことだった。同居人は、母親の葬儀の時に、僕を罵り続ける妹ちゃんをダイレクトに見てしまったのである。
 僕は一切の事情を妹ちゃんに伝えることはなかったけれど、同居人は僕が妹ちゃんに責められるのを聞く度、蒼白な顔で手の爪を噛んでいた。余談だけれど、同居人は手をとても大事にしていた。実生活では不便そうなくらい爪を綺麗に伸ばして、いつでも艶々に磨いていたものだ。それが、葬式の時には見る影も無かった。血が滲んでボロボロで、汚かった。
 葬儀の時が、僕が同居人に能動的に会った最後だと思う。母親と同居人は不本意ながら交流があった。母親は息子に美人の恋人が出来た時のテンプレートな気恥ずかしさをもって同居人に接していたし、同居人は同居人で誰からも好かれる性格をしていたから、二人は仲が良かったのだ。葬儀には出てもらうのが礼儀だと思った。僕と同居人の間に何があろうと、母親と同居人の間には何の関係も無い。それが正しい判断なのかは未だにわからないままだ。
 携帯電話のパスワードを変えた。ついでに同居人を含む全てのアドレスと番号を消した。妹ちゃんからの罵声で生活がままならなくなるのは恐ろしいので、妹ちゃんの電話番号は申し訳ないけれど着信拒否にした。
 妹ちゃんと同じ種類の絶望を同居人は味わったのかもしれない。
 どんなに焦っても、どんなに悲しくても、どんなに怒っても、相手がそれを知る由も無いという絶望。
 それのターニングポイントとなっていたのはどちらの場合も僕だった。それがどうした、と言ってしまえばそれまでの話だ。
 同居人と音信不通に意図的になってから四日くらい経ってから、僕は同居人と遭遇した。同居人は僕に会うなり地面に額を擦りつけて土下座をした。
 よりにもよって、同居人が謝罪の場所に選んだのは大学のメインストリートだ。きっと、僕が会うのを避けていた所為だろう。僕はまだ真面目な学生で、母親が死んでから一週間ばかりだというのに講義に出席していたのである。そこを、同居人は待ち伏せていたのだ。
 同居人は綺麗な格好をしていた。素晴らしい水色の、爽やかなスカート。綺麗だった。よくよく思い返してみれば、その服は僕が前に一度デートの時に褒めたコーディネートだった。同居人も、気合いを入れたお洒落だと嬉しそうに語っていた服である。媚びだとか、そういう穿った見方も出来なくはなかったけれど、直感した。彼女はどこまで自分を貶められるかを試しているのだった。大事なスカートは泥で汚れて、白いブラウスの袖にも汚い茶色が滲んだ。生憎のことに、その日はさっきまで雨が降っていたのである。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「……なんかこれ、僕がそういう趣味のある男みたいじゃない? 僕はどちらかっていうと縛るより縛られる方が興奮するんだけど」
 同居人は僕の冗談っぽい呟きに対しても土下座を貫き通していた。真剣な時に茶化す癖をやめろと怒っていた同居人がなかなか懐かしくもある。そこに感慨を覚えたかどうかはまた別の話なのだけど。
 それ以上何も言わない僕に業を煮やしたのか、同居人は地面を這うような声で言った。
「どうして怒らないの。どうして、責めないの」
「怒って欲しいの?」
「そういうわけじゃない。でも、変だよ。全部私の所為なのに。どうして罵ってくれないの。憎んでるでしょ? 怒ってるでしょ? 妹さんみたいに、私の言殴ってくれたって構わないくらい酷いことしてもいいんだよ。私、許して貰えるなら何でもする」
 ……どうして、ねえ。
 僕は首を傾げる。どうしてと言われても、実のところよくわからないのだった。今となってもわからないのだから、あの時の僕にわかるはずがない。簡単な言葉で終わらせられるなら、それは僕が同居人を愛してたからだ、なんて言ってしまって終わらせられるだろう。憎しみよりも同居人への愛が勝ったから、僕は同居人のことをこれっぽっちも憎めやしなかったのである。そう言ってあげれば、同居人の罪悪感はきっと薄れただろう。罪悪感がスパイスになって、体よく愛情を深められたかもしれない。
 でも、僕はそれを言ってやれなかった。同居人は一度も顔を上げない。同居人は震えていた。メインストリートでは、立ち止まって見ている生徒もちらほら見受けられた。きっと、明日から僕は腐れサディストとして名を馳せるのだろう。
 僕は同居人の名前を呼んだ。同居人の背中が一際大きく跳ねる。けれど、顔は上がらなかった。仕方なく、僕は恭しくもうんざりした気分で顔を上げて、と言った。同居人が顔を上げた。涙やら泥やらでぐっちゃぐちゃになっていたけれど、その顔はとても可愛い。
 土下座も折れた二本の指も妹ちゃんの激昂も携帯電話もなんだかとてもどうでもよかった。何の感慨も覚えなかった。覚えていたとしても、それに対してどう接していいかもわからなかった。
 けれど、一つだけ確かなことがあった。僕と同居人の間柄はこの時を境に永遠に道を違えてしまって、どう頑張っても元には戻せないということだ。
 単なる水ですら元の盆には戻せないのだから、飛び散らされた吐瀉物をもう一度胃に収めてやるようなハードなプレイは僕らには無理だったわけである。
 僕は同居人の目を真っ直ぐ見つめて、口を開く。
「別に、いいよ。僕は君を責めたりしない。……僕は自分でも自分の状態が今よくわかってないから、言外に君が何を感じるかどうかっていうのも、わかんないんだけどさ。僕の妹ちゃんみたいなストレートな罵倒やら制裁やらを求めてるんなら、多分期待には応えられないと思う」
 僕はひらひらと手を振ってみせようとした。けれど、いつもの癖で振った右手はそういえば綺麗に華麗に骨が折れていて、振れば普通に痛かった。ままならない。この指も、巡り巡って同居人の所為になるんだろうか?
「あと、もう恋人ではいられない」
 僕ははっきりとそう言った。同居人の顔が一層絶望的な色に染まったのはこの時だ。失ったものをやたらめったら美化するなんて悪趣味だと思っていたのだけれど、あの時ばかりは例外だった。案外愛されてたんじゃないか、と思うと、彼女の想いはやっぱり尊い。
「……本当にごめん」
「どうして景一郎が謝るの……? それって、私を、」
 同居人はその先が続けられなかった。何となく言いたい言葉はわかっていたけれど、それを言ってしまえば、色々とおしまいになってしまうことは察していたのだろう。同居人は聡い。そこそこ頭のいい大学通ってるだから当たり前だけど。
「別れようっていうのは僕のエゴだから。僕はそこそこ重い人間だからさ、一人の女の子の青春を頂いた挙句、勝手な事情で別れを告げるなんて人間として最低だと思ってる。だから、そこは謝らせてもらった。……悪いね、こんな男で」
「景ちゃん……、ねえ、」
「あと、僕、大学辞めようと思うんだ」
 同居人の顔がまた驚きと絶望に染まった。同居人は贔屓目に見ても、僕さえ関わらなければこれからも十分に素敵な女の子だった。
「だから、さよならだ。今までありがとう」
 同居人が返す言葉はわかっていた。僕から出された言葉に、同居人がNOと言えるはずがないのだった。そもそも、何一つ言えるはずがないのだった。
 こうして、僕は大学をやめた。同居人はそのまま残り二年の大学生活を粛々と送り、卒業して、そして、真っ当に就職した。
 
 そして、そこからまた色々があって、僕は同居人と同居を始めて、今もこの部屋で震えている。人生なんてわからないものだ。元恋人がうっかり同居人になってしまうだなんて、恐ろしいこともあるものだ。これだから僕は社会に上手く順応できないのだと思う。こんな滅茶苦茶なことが起こるのなら、死んだ母親にうっかりエンカウントとかしちゃいそうで怖いし。
 
 どうしてこうなってしまったのか、同居人の軽い悪戯の所為で母親の死に目にあってやれなかったことが僕に一体どんな変化を施してしまったのかは、正直なところよくわからない。そもそも、母親の死に目に同居人の所為であってやれなかったことが、どうして僕が社会生活の中で上手くやっていけないことに繋がるのかも、自分ではよくわからなかった。トラウマの化学反応はいつでも鮮やかで脈絡がない。精神科医に罹ってもよくわからないこじつけをされるだけだったので、最近は不眠症と倦怠感だけを訴えている。ロールシャッハテストはいつでも同居人の笑顔に見えると言った。医者は疲れているんですよ、と笑う。カルテに鬱とかなんとか失調だとかの文字があることを僕は見逃さない。
 それでも僕は外に出ることも献血することもままならなくて、同居人はそんな僕を甘やかすことだけに全神経を注いで日々を送っている。罪悪感を見せないようにするのが苦手な彼女が上手いのは、僕を果てしなく許し続けるだけなのだ。与え続けていれば、同じものが返って来るとでも思っているのかもしれない。僕はそれを黙って見ている。
 不幸な偶然だった。同居人だって、あの日母親の事故の知らせが飛び込んでくると知っていたなら、僕の携帯を隠したりなんかしないだろう。同居人はあのメールの列を見るまで、それが靴や上着や定期入れと同じ類のものだと思ってしまっていたのだ。
 それでも、同居人は確かに僕と母親から最期の時間を根こそぎ奪ってしまった。僕はマナーの悪い大学生なので、あの日も携帯電話をマナーモードにするのを忘れていた。最初のメールが来た時に――否、最初に妹ちゃんがしてきたのは電話だった――何にせよ僕は気付いただろう。母親の病院は大学から車で二十分くらいだった。財布の中にはそこまでタクシーで行けるだけのお金があった。
 要するに、同居人があんなことをしなければ、何の問題も起こりはしなかったのである。
 僕と母親との仲も悪くはなかった。むしろ同年代の息子と母親に比べたら大分仲がいい方だったんじゃないかとすら言える。普通の母親だった。何の問題も起こさず、ユーモアを交えてよくもまあ僕と妹ちゃんを女手一つで育ててきてくれたものだと思う。
 薄々察しているかもしれないけれど、僕には父親がいない。理由なんか重要じゃないだろうからここでは割愛してしまうけれど、要するにここで重要なことは、妹ちゃんは本当に、たった一人で母親を看取らなくてはならなかったということだけだ。
 夢見が悪くなりそうな話だけど、妹ちゃんからのメールによると、母親は臨終の瞬間まで僕の名前を呼んでいたらしい。……会いたかったんだろうなぁ、と他人事みたいな気分で思う。一歩退いていないと、耐えられなさそうな想像だった。
 僕はお昼時にはふさわしくない想像をやめて、これまたお昼時にはあまり見たくないような現実に目を向けた。確か、同居人はお昼ご飯を作っていたはずである。それが今は、一体何に対して戦争を仕掛けようとしているのだろう。
「君さあ、それ先に火、止めた方がいいよ。そもそも、もう何作ってるのかわかんないんだけど」
 とりあえず、最も危なさそうなものから指摘してみた。最善が選び取れない時は大人しく最悪を回避しておいた方がいい。
「私、小さい時からこうなの。図画工作とかで何か一箇所失敗すると、その失敗を隠そうとしてどんどん失敗を重ねて、どんどん負の連鎖を生みだしちゃうの」
「馬鹿みたいな話だな。取り返しのつかないってことは確かにあるんだ」
 僕の言葉に、同居人は少しの間だけ火と共に手を止めて、何やら考え込んでいた。食材達の断末魔が響いてきそうな台所だから、考え事には向かなそうだというのに。同居人の浮かれたエプロンは何が何だかわからないくらい汚れている。それを才能って呼べたら、きっと世界は優しくなるだろう。
 同居人が不意にこちらを向いた。包丁を持ったままの同居人の立ち姿に何の危機感も覚えられなかった。手が震えている。料理が苦手な人間というのは、冗談かと思うくらい刃物を怖がるのだ。
「どこから失敗だったんだろう」
 
(つづく)

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斜線堂侑李(Syasendo Yuri)

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