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売られる戦場買う人でなし 3 斜線堂侑李

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 正直な話、本当にラブホテルに連れてこられるとは思ってもみなかった。
 僕だってそういうことに耐性の無い処女じゃないわけだし、それに対してどぎまぎするような人間じゃないけれど、それでも。同居人にとっては貴重な休日を消化する場所にそんな場所を指定されたらどきどきしてしまう。ときめきじゃなく、嫌な汗をかく、という意味で。
「……期待してた?」
「してない」
「それはそれで残念」
 古びた駐車場に車を停めながら、同居人は軽やかにそう言った。どこまでが本気で、どこまでが狂気の沙汰なのかが判断しづらくて困る。
「このラブホ、何年物?」
「さあね。私がここを知った時には、ここは廃墟としての地位を確立してたからなぁ」
 同居人は確かに僕をラブホテルに連れて来た。ただし、このホテルは何年も、下手したら十何年も前に廃業しているらしい。安っぽいネオンは壊れてからの方が価値あるものに見えるから不思議だ。
 ホテルの一階部分は完全に外と地続きになってしまっていて、怪しげな雰囲気のロビーと、一階にあった客室、上へ続く階段などが陽光に照らされてきらきらとしていた。部屋の中だと考えると荒れ果てているけれど、ここは外なのだと割り切ってしまうと、照らされたその場所は、聖域のように綺麗なところに見えた。例え、何の為に回るのか未だにわからない回転ベッドに、もうお金をいれても明るい家族計画を応援してくれそうもないコンドームの自販機が片隅で錆び続けていても。
「ここね、取り壊されるんですってよ」
 同居人はカウンターの亀裂から生えた雑草を慈しむような目で眺めながらそう言った。慈しまれるのが不適切なくらい強い植物だ。
「壊される前に来れてよかったね」
「ごめん、何がよかったのか全然わかんないんですけど」
「こういう場所ドキドキするでしょ? 廃墟だよ。廃墟」
「やだよー……僕はこういう呪われそうなところ苦手なんだって言ってるじゃん……」
「私が嫌だって言ってるのにスプラッタホラーとか見てるじゃん」
「スプラッタホラーと心霊の怖さは質が違う」
「そもそも幽霊怖がる人間じゃないでしょう。君が気にしてるのは呪いだけ。大丈夫だよ。ラブホテルでの呪いは全部ここでセックスをした二人の間だけで完結するものだろうから」
 同居人はいつから廃墟好きになったのだろうか。長崎での修学旅行で頑なに軍艦島に行きたがる側の人間だったんだろうか。僕だって軍艦島とかそういうものの価値に無理解なわけじゃないけれど、なんというかここは生々しいし、近すぎる。
「私、ここ見つけた時ドキドキしたんだ。知ってる? ここ、廃墟とかを特集してるウェブサイトで紹介されたりもしてるんだよ。車で来られる場所にこんなところがあるなんて得した気分にならない? なるでしょ?」
「……正直そうでもないけど」
「いいから、奥に行ってみようよ。我儘が全部借りに上乗せされるなら、とことんまで行使したいの」
 同居人はさっさと歩いて僕を手招きした。赤くて綺麗なハイヒールなのに、よくもまあそんなに跳ねるような動きが出来るもんだ、と少し感動すら覚える。同居人の背中には羽根が生えているのかもしれない。
 
 部屋は殆どそのまま残されていた。所々派手に壁に穴が開いている所以外は、完全にラブホテルの一室だ。年代物のウォーターベッドを見て、同居人が興奮していた。
「見て、ウォーターベッドだよ。私、これ小さい頃に観た映画の中でしか見たことなかったのに」
「へえ」
「その映画も、お父さんがね、旅行に乗り気じゃない息子を無理矢理旅行に連れ出すんだよ」
「可哀想に」
「でも、その物語は万雷の拍手に迎えられるハッピーエンドなんだ」
 ハッピーエンド、ねえ。と、僕は思う。ハッピーエンドなんてものが無邪気に信じられてしまうのか。だって、その映画だって描かれてないだけで、父親が突如アル中になってしまったり、息子が反抗期拗らせて父親を刺し殺してしまったりするかもしれない。
 ラブラブなカップルが次の瞬間には被害者と加害者の関係になってしまうかもしれない。世の中なんてわからないものだ。ハッピーエンドなんてどこにも無い。
「これ、寝っ転がっちゃったら駄目かなぁ」
「色々と気にならないんだったらいいんじゃない? 埃とか泥とか」
 同居人は暢気にウォーターベッドを見てあれこれ考えを巡らせている。ハッピーエンドが一生迎えられなさそうな絵面だった。
「でも、もうウォーターベッドに巡り合わないかもしれないよね。ここで寝ておかないと」
「別にここが無くなったからっていって世界からウォーターベッドが無くなるわけじゃないだろ」
「そうかもしれないけど、もしウォーターベッドを体験しに行こうって言っても、きっと一緒には来てくれないでしょ?」
「それは行かないだろうね」
「だから意味ないんだよ」
 そもそもここに来たのだって、同居人が貸しがどうとかあまり楽しくない話を持ち出してまで僕を連れ出そうとしたからなのだ。同居人がウォーターベッドを目標に据えてあの華麗な車を走らせようとしたって、僕は絶対に行こうとしなかっただろう。同居人が自分からあの時のことを匂わせるのは珍しかった。僕は献血に失敗し、バイトも落ちた。だから、例外的にここにやってきたのだ。
 ウォーターベッドを目指す楽しい旅行なんて、絶対に僕は認めない。
 僕の怪訝そうな顔に気が付いたのか、同居人が不意に首を傾げた。何かを探っているのだろうか。隙間から、よろしくない好奇心が見え隠れしている。同居人が口を開いた。
「昔の君だったら、ウォーターベッド巡礼の旅に付いてきてくれたと思う?」
「……わからない。そんなこと話しても仕方がないしね。行かなかったかもしれないし、行ったかもしれない。今日みたいにうっかり気まぐれでラブホテルの廃墟に連れて来られてしまったかもしれない」
「そうか、わからない。わからないね」
 同居人が目を細めた。未だに、ウォーターベッドに寝っ転がる勇気は持てないままらしい。仕方ない。同居人のお気に入りである紺色のスカートは、白っぽい汚れにとても弱いのだ。
 同居人は言うべき言葉を言い尽くした、とでも言わんばかりの顔をして頷くと、またウォーターベッドに向き直った。
「……あ、見て。この中金魚入ってるよ。一、二、三……皆死んじゃってるけど」
 同居人の声が弾んでいる。死んだ金魚を眺めている癖に。
 視線に気が付いたのか、同居人は振り返って、真面目くさった顔で言った。
「……いいんだよ? する?」
「何を?」
「ここのホテルが現役だった頃に、カップルたちがウォーターベッドの上でしていたようなことを」
「冗談言うとウォーターベッドの中にもう一体死体が増えることになるけど」
「どうやっていれるつもりなのさ」
 同居人が可愛らしく頬を膨らませた。さっきの発言のグロテスクさと相まって、何だかとても素敵に悪趣味。
「君はここに来て楽しいわけ?」
「基本的に私、廃墟とか好きだからね。軍艦島もいつか行ってみたいと思ってるし。それに、取り壊されるって聞くと、来なくちゃいけないような気がしたんだ。そういうのって、あるでしょ?」
「そうでもない」
 同居人が廃墟好きだというのも、初めて知った。同居人があまり自分のことを話さないからだ。否、昔は話していたのかもしれないけれど、同居人が自分のことを話していた時には、恐らく僕は聞いていなかったのだと思う。あの頃には同居人以外にも、僕の世界には沢山の物があったから。
「僕以外と来ればもう少し楽しかったと思うよ」
「そうやって卑屈になるところは君の悪いところだよ」
「僕の欠点なんて今更な話じゃないか」
 本音が半分と、同居人を困らせてやりたいのが半分だった。
「僕の欠点は魔法のビスケットみたいに叩く度に増えていって取り返しがつかなくなるんだ」
「でも、そうやって天文学的に増えていってポケットから溢れ出す欠点を見た節穴の誰かは、それを満点の星空が溢れ出してるって勘違いして愛してくれるかもしれないでしょ。ねえ、そうでしょ?」
 果たして、それは誰のことを言っているのだろうか。
 同居人がそこに自分のことをキャスティングしているとしたらとんだ喜劇だと思う。同居人の目は節穴なんかじゃない。片方くり抜いてやりたいくらいの慧眼だ。そんな場所には入れない。
「そんなに屁理屈をこねるのが得意なら弁護士か小説家になればよかったのに」
「これは純然たる思い込みだから。屁理屈なんかじゃないのさ」
 同居人が笑う。上手いことを言えたつもりなのだろうか。僕を喜ばせることが出来たと無邪気に信じているのだろうか。
 僕は同居人の寛容さと優しさ、もしかすると愛情みたいに見えるものの正体を知っている。
 裏側にあるものを知ってしまっての手品は楽しめない側の人間だ。同居人なら拍手をしてくれるかもしれない。けれど、箱の底に穴が開いている癖に、僕はそれを脱出マジックだなんて呼びたくないのである。もしかすると子供染みた考えかもしれないけれど、それなら子供で構わないくらいの気分だった。だって、凄く、気に食わない。
「金魚、腐らないんだね」
 同居人は古びたウォーターベッドに浮いている金魚の死骸を軽く指でつついた。死骸はいつか溶けるのだろうか。そもそも、ウォーターベッドに入っている水って本当に純粋な水なんだろうか。もし、ベッドとしての性能を優先して考えられた水が入っていたのなら、金魚を入れたばかり段階でもう既に金魚は半分死にかけているんじゃないだろうか。
 金魚の死骸の上でセックスするカップルを想像した。ギシギシと揺れるベッドのお陰で、ウォーターベッドの中の金魚の死骸も上下する。それを横目で見た女が、楽しそうに「金魚が泳いでいるよ」と男に告げる。金魚は溶けずに晒し者になっている……。
 想像しただけで、何だか気持ちが悪かった。やっぱりここはろくなところじゃないんじゃないか、と思う。同居人のセンスなんて、所詮僕とは相いれないのだ。
「もう帰りたいんですけど」
「ええー、来たばっかりじゃん」
「そもそも、こんな何も無いところで楽しめるっていうのは、最早稀有な才能だと思うよ。僕なんかが持ち合わせられるものじゃないみたいだ」
「箸が転がっても楽しいくらいにならないと、社会では生きていけないんだよ」
「箸が転がっても悲しいとか思えるくらいになれば、詩人くらいにはなれそうだけどね」
 僕と同居人のくだらなくて不毛なやり取りを終わらせたのは、甲高い声だった。腐ってもラブホテルなのだから防音設備には自信があっていて欲しかったというのに、筒抜けの声が僕達の耳を刺す。
 壁の向こう側から、四、五人くらいの子供が出てきた。はしゃぎまわって、転げまわって、まるでラブホテルから産まれ出たみたいに新鮮で鮮やかな子供達だ。声から察するに、どうやら鬼ごっこをしているらしい。五人の影の後に、ぜえぜえ言いながらついていく男の子が一人。言わずもがな、この子が鬼だろう。
 僕はその鬼の子の影を追って外に出た。子供達が跳ねまわっているのが、より一層よく見えた。
「君の発想はあそこらにいるガキ共と同レベルってわけですけど」
「……いいじゃないね、私達だったまだ若いんだし……」
 それにしたって程があると思う。童心を忘れないでいることで生まれるメリットなんて殆ど無いことにはもう気が付いているでしょうに。アイドルなんか、処女より先に童心捨ててなくちゃ出来ないものなのだよ。
 僕は何か言うのを諦めて、大人しく近くにあった古びた長椅子に腰掛けた。ラブホテルに置かれていたはずの長椅子なのに、その長椅子の座り心地は病院の待合室で味わったことがあった。同居人は少しばかり抵抗がありそうな様子で長椅子を見ていたので、手を引いて強引に座らせた。さっきまで半分野晒し状態だったウォーターベッドに載ろうとしていた癖に、わけがわからない。
 同居人が座ったことで、廃墟は一層単なる公園らしくなった。
 子供達はどうやら鬼ごっこに興じているようだった。そんなことをしていては体力の消耗に繋がるだろうに、わざわざぎゃあぎゃあと喚き散らしながら走り回っている。走って跳ねて、たった一人の鬼から逃げ回る。
 鬼をやっているのは終始同じ少年だった。体が小さく、恐らく健康もさほど優良児ではなかっただろう少年。彼はどうにも運動神経が悪いようで、さっきから誰も捕まえられないでいる。彼を弄ぶかのように寄って来た男の子にどうにかタッチしてみても、長い間鬼をやらされ続けて体力を消耗した少年はすぐに捕まって鬼に逆戻りになってしまった。
「鬼ごっこは慈愛のゲームだ」
 僕は呟く。同居人が子供達から目線を僕にやった。同居人の過去を僕はよく知らないけれど、きっと人気者だったのだろうなぁと思う。
「鬼ごっこって遊びは子供がやればやる程、その身体的な能力の差が顕著に出る遊びなんだ。本当の子供には戦略とかそういうものがないからね。だから、運動神経が悪い奴はいつも捕まって鬼になり、走り回って体力を消耗し、延々と鬼をやらされる羽目になる。周りの子供達に慈愛というものがあれば、鬼は十回連続ではやらせないとか、そういう取り決めも出来るんだけどさ。そうじゃないと、鬼はいつまでも友達の姿を追い求めてふらふら彷徨う羽目になる」
「考えすぎじゃないの?」
「そういうことを考えすぎることが出来ないとああいうことになるんだ」
 さながら鬼の少年はいかつい称号に反して囚われた雀だった。籠の中でくるくる踊るのを、面白がって見物される。それを一緒に遊んでいるとみなすのは確かに平和かもしれないけれど、単純に胸糞が悪かった。何の疑問にも慈愛にも、下手したら悪意というものにも無自覚な子供の遊びだとわかっているからこそ、酷く胸糞悪かった。
「少なくとも、僕は考え過ぎることが出来る人間だよ。僕はね」
 同居人が何かを言おうとしていた。きっと、清く正しく美しいことだろう。
「ここで遊んでんじゃねーぞ」
 今まで長椅子で静観を決め込んでいた僕が急にそんな声を上げたことに驚いたのか、遊んでいた子供達の視線が一心に僕に注がれる。こんな注目を受けたのは久しぶりだった。僕に意識的に視線を向けるのなんて、悲しいことだけど同居人くらいのものだし。
 子供達は逃げ出すこともなく、僕の方を見つめている。素直でよろしいけれど、今の学校は不審者に出会ったらとりあえず逃げなさいって学校で教わったりしないんだろうか?
「ここ何処だかわかってんのか。廃墟とはいえラブホだぞ、ラブホ。お前らみたいな子供がいていい場所じゃないんだよ。そもそも誰の許可取ってここで遊んでるのか言ってみろよ」
「だって、ここ、おじさんの所有物じゃないでしょ?」
 なかなか子供染みていてなおかつ鋭いことを言ってくる。これだから子供は嫌いなのだ。所有物、なんて感じの多い言い方も気に食わない。小学生は小学生らしく『もちもの』と言うべきだ。
「二十代をおじさん呼ばわりしてんじゃねーぞ! 言っとくけどな、ここは僕の所有地なんだ」
「嘘だ!」
「嘘じゃねえよ! 殺すぞ!」
 いきなり飛び出した物騒な言葉に、一層子供達の顔が強張る。ここまできてもなお、子供達は逃げ出そうとしていなかった。ここでようやく気が付く。彼らには危険に対する耐性が殆どないのだ。漠然とした危ないものに邂逅する機会もなかったのだろう。だから、どう逃げていいのかもわからないのだ。可哀想に。
「け、警察に言うぞ」
「言えよ。でも、警察に通報出来るのはお前らが具体的にどうにかなった後だからな」
「ひ」
「お前らを襲った後、僕は逃げるぞ。すぐ逃げるね。お前らがどれだけこの廃墟の中で僕の特徴を羅列してこんな男に襲われたって言っても、僕は捕まらないぞ。僕みたいな特徴の男なんて掃いて捨てる程いるんだからな。僕が何しようと気にする奴なんかいないよ。ちょっとやそっとの事件じゃ、この世界じゃ露見したりしないんだよ」
「何言って……」
「例えばここで僕がお前の足をバッキバキに折ったとしても、多分バレないと思う」
 可愛くも無い子供の顔が泣きそうに歪んだ。いやはや、欲情しない相手のそういう顔を見ても全く興奮しない。大人げないし人間としてもアウトだろうけれど、僕は社会生活不適合者なのだ。一丁前に怖がってんじゃねーよ、と思いながら手を伸ばした。子供が座り込む。ああ、やっぱり駄目なんだな、こういうの。理不尽ということの恐怖を、この子達は知らない。
 暴力沙汰は苦手だけれど、子供相手なら暴力だって振るえるのかもしれない。そう思いながら肩を掴んだ。細い肩だった。
 その瞬間、
「犬だ!!!!」
 同居人が叫んだ。僕も、僕に掴まれている子供も、周りの子供も鬼をやらされていた子も、全員が全員同居人の方を向いた。
 視線の先で、同居人が犬を掲げていた。犬種なんかわからない、茶色のうすぼけた、汚い子犬だ。廃墟になったラブホテルに住みつく小さな命。普段の僕なら気を滅入らせていただろう。僕は基本的に犬が好きなのだ。人間の子供より、百倍いい。
 犬はいつだって素晴らしい狂言回しで、最高のハニートラップ要員だ。犬が一匹いるだけで、その場の流れは一気に変わる。この場合もそうだった。今、腕が折られるかどうかの瀬戸際に立たされているというのに、間抜けに子供は犬を見ている。抱えられた子犬は暢気に舌を出している。アインシュタインじゃあるまいし。本当は、僕達のことを馬鹿にしていたのかもしれない。
 僕は何かを言おうとした。その前に、同居人が犬を掲げている腕を大きく振りかぶる。嫌な予感がした。けれど、同居人のモーションはもう止められない。一瞬だけ何だか眩しそうな顔をして、同居人が犬を投げた。
 綺麗な放物線だった。それが子犬であることを感じさせないようなそれだった。僕はとっさに飛びのいて、クソガキから距離を取る。取り残された子供は、投げられた子犬をぽかんとした顔で見つめている。周りの子供達は余裕のあるモラリストなようで、ちゃんと悲鳴をあげていた。子犬が、子供の顔面に当たった。勢いで、犬と子供の身体が両方とも倒れる。
 犬はその間鳴かなかった。
「逃げよう!」
 犬を投げたばかりの同居人が意気揚々とそう言った。僕は頷く。頷くよりも先に同居人は逃げ出していたような気がするけれど、きっと彼女だって必死だったのだろう。
 逃げる瞬間に、ずっと鬼をやらされていた子と目が合った。一瞬だけの意思の疎通。そして、……笑顔。やられたなぁ、と思う。あの子の笑顔はいけない喜びに満ちていた。きっとあの子はこの快感を忘れられない。僕みたいに、少しいけない人間になるだろう。もう彼は虐げられることはない。鬼ごっこはヒエラルキーのゲームだ。
 全ては入れ替わり、順位だって崩れ落ちる。
 言い訳めいて聞こえるかもしれないけれど、だから僕は別に良いことをするつもりなんか更々なかったのだ。目の前に広がる光景が不快だったからぶち壊してやろうとした。それだけ。同居人が好きだと言った場所であんなことが起こっているのが少しばかり不快だっただけ。それだけ。あの子達はもうこんな場所で遊ばないだろうし、鬼を延々とやらされる役は入れ替わる。それだけ。
 同居人は、履いているのがハイヒール型の新型スポーツシューズなんじゃないかと疑いたくなるような速さで走った。あまり外に出ていない僕の全速力と同じくらいの速さと言えば、その恐ろしさが分かっていただけるかもしれない。
「ろくな場所じゃなかったな、やっぱり」
「こんなはずじゃなかったんだけどな」
 同居人からその台詞を聞くのは何度目だろう。現実では勿論夢の中の同居人もいつだってその台詞を言いながら後悔してるから、なかなか馴染深い台詞だ。
 赤い車に乗り込む。同居人の動きには無駄が無かった。流れるようにキーを差しこみ、エンジンをかける。本気なのだと思った。本気で同居人は前科がつくのを恐れている。映画さながらの華麗な足捌きで、廃墟になったラブホテルから赤い車が走りだす。
「はーびっくりした」
「上手く逃げおおせたけれど、こんなに目立つ車なのだし、これ、後々通報されてもおかしくないよな」
「まさかこんなことになるとは思わなかったよ」
 同居人が溜息を吐きながらそう言う。
「犬、どこから見つけてきたの」
「見つけてきたんじゃないんだよ。いたの。あそこに。……一匹で寂しかったかなあ。少し同情しちゃったよ。だって、あのラブホテルはその内取り壊されちゃうんだから」
「でも投げた」
 同居人は何かスポーツをしていたんだろうか。そうじゃなくちゃ納得が出来ないくらい綺麗な投げ方だった。バスケットボールでもバレーボールでも納得が出来る綺麗な投げ方だった。一生僕がそれを尋ねることはないのだろうけれど。
「大丈夫だよ。犬は投げたくらいじゃ死なない」
「わからないだろ」
「私がわかるのは、あそこで犬を投げなかったら君はきっとあの子の腕を折っていただろうってことさ」
 同居人はそう言った。正解だ。
 同居人は僕が何をしようと赦すようになっている。取り決めみたいなものだ。同居人が僕に借りているものの代わりに、全てを受け止めてやるろ勝手に決めているのだ。馬鹿馬鹿しい話だと思う。そうして、受け止めるものの重さが増えないように、同居人は犬まで投げる。
 何だかとても虚しくなって、背もたれに深く寄りかかった。シートベルトはつけない。これが見咎められたとしても、被害を被るのは同居人だけなのだ。
「ちなみに、君って何座?」
「私?」
 何で今? という無言の疑問が聞こえるみたいだ。それでも同居人は、息を切らせながら、吐息の間に紛れ込ませるように答えた。
「獅子座」
 
(続く)

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斜線堂侑李(Syasendo Yuri)

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