F T R @
九州発! 日本中が楽しくなるWEB文芸誌。美術館・博物館のイベント情報、気になる本や本屋さん、読みたい物語がきっと見付かります

紅い糸 6 松下隆一

cherry

青の巻
 

 
 あの人がうちに来たのは、大文字の送り火もすんで、町に人が戻って賑やかになった八月の終わり頃だった。
 川遊びに来ている子どもたちの声がきゃっきゃっと聞こえてくる。清滝でもこんなに暑いのだから、人と車だらけの河原町辺りはどんなだろうと思ってみたけど、毎年のことだし、いくら思っても暑いだけでせんないこと。
 その日の遅い午後、私は自分の部屋で卒論を書いていた。段ボール箱をそのまま壁にくっつけたような古いクーラーのがらがらという音に悩まされながら、机に向かってパソコンのキーを叩いていた。
 玄関の戸が開いて、「ごめんください」とあの人の声がした。応対に出た祖母が何か話をしていたが、とんとんとゆっくり階段を上がる音がして、障子を開けて顔を覗かせた。祖母は真っ白になった髪を、今どき珍しくきれいに日本髪に結い上げている。その眼は切れ長で鼻は尖り、七十五歳ともなればさすがに皺は多いが、いつも着物を着て、凛とした独特の緊張感を漂わせている。生まれてからずっと祖母の手で育てられてきた私だけど、祖母が声を上げて笑うところを今まで見たことがない。
「お前、ちょっと来てくれんかえ」祖母は言った。
「どないしたん?」
「お客さんやけどな、言うたはることがようわからんのや」
「押し売りやったら追い返したらええのに」
「それが何や、ここに誰それの紹介で来た言うてはってな。ようわからんのや」
「ふーん、何やろな」
「今晩何しよ」
 祖母は近頃特に、Aについて話をしていてもBという話を平気で割り込ませるので、私はついていくのが精一杯の時がある。惚けてはいないようだけど、どこか違うところを眺めて話している感じがしてつかみどころがない。
「またそうめんと焼き茄子でええのとちゃう」そう言って私は祖母の横を過ぎて階段を下りて行った。
 元は旅館だったうちの玄関は広い。紺のスーツを着て茶皮の鞄を提げたあの人は背が高く、髪を短く刈り込んだ鼻の高い細面の横顔が、表からの光を受けて薄い影となって見えていた。玄関を入ってすぐ横に雑然と置いてある古道具の方を眺めていたあの人は、私に気付いて近付き、笑顔を浮かべて挨拶しかかったが、私の顔を見るなり眼を剥いた。
「あの、どちらさんですか」
 あの人は答えずに眼をふるわせて私を見つめている。明らかに私の顔に見覚えがあるようだけど、私の方にはまるでない。
「どうしはりました?」
「こちらは、法川さんのお宅でしょうか」と言って、あの人は顔から首筋へと滴る汗を水色のハンカチで拭った。その顔をよく見るとやつれて頬がこけ、ひどく青白い顔をしている。
「そうですけど」
「私、キョウテクという会社の営業の者で、三上と申します」あの人は名刺を私に差し出した。
 名刺には『キョウテク株式会社 営業一課 三上孝介』とある。その時私はなぜだか胸の内で(孝介さん)と馴れ馴れしく呼んでしまっていた。あの人が初対面ではないような態度だったので、ひょいと釣られたのかもしれない。
「弊社のシステム課の上田からの紹介でこちらにうかがったのですが」
「上田さん、ですか」
「はい。上田健太郎です。彼が大学生の頃にこちらの旅館でアルバイトをさせて頂き懇意にしてもらっていたそうで、最近、社長さんの方から、旅館の営業ツールとしてネットを最大限に生かしたいと連絡があったと聞きました」
「ちょっと待って下さい。その社長というのは私の父のことでしょうか」
「はあ、おそらくはそうかと」
「父でしたら十年前に亡くなっていますけど」
「え、そうでしたか。それは大変失礼致しました」
「でも、その上田さんという方は最近父から連絡を受けたと言わはったんですね」
「ええまあ。でも何かの間違いかもしれませんから」
「それに、父が亡くなってすぐにこの旅館も廃業してまして、この通りの有り様です」
「そうでしたか……どうも、申し訳ありませんでした。社に戻ってもう一度確認して参ります」孝介さんは深々と腰を折って頭を下げ、行こうとしたけど、私の顔に見入ったまま動かなくなってしまった。
「あの、まだ何か」
「ここで箏を弾かれていたのはあなたですか?」
「箏? いいえ。うちにはそんなもんありません」
 孝介さんは深い溜め息を吐いた。
「この表の橋を渡っていたら聴こえてきたもので……」
「表に橋……て、そんなんありました?」
「ええ。赤い木の橋ですけど」
「そんな橋ありませんよ。渡猿橋やったらここからだいぶ離れてますし」
「え?」と驚いて孝介さんは表に出て行った。私もサンダルをはいて後に続いた。
 うちの表は舗装されていない広場があって、そこから清滝川沿いに道が下って続いているだけだった。広場には孝介さんが運転してきたらしい車が停めてあった。孝介さんは突っ立って辺りを見回した。深い緑の中で耳が痛くなるほどわんわんと蝉が鳴いている。
「やっぱり渡猿橋と勘違いしはったんと違いますか」
「いえ。私は確かに橋を渡って……」
 私はふふっと笑った。
「今年はほんまに暑いですからね」
 孝介さんは私を見た。というよりまた見入って動かなくなってしまった。私はちょっと気味がわるくなった。
「なんでそんな見はるんです?」
「え、あ、いえ。実はその、そちら様が私の知り合いにそっくりなものでつい……」
 あんまり孝介さんが真面目で堅苦しい感じだったので、私はちょっとてんごしたくなって微笑み、「実はうち、その知り合いの人と双児ですのえ」と言ってしまった。なぜそんなつまらないことを言ったのか、自分でもわからなかった。
 孝介さんは絶句して、それからその大きな身体をぐらりとゆらして倒れそうになった。私は慌てて抱きとめて、「大丈夫ですか」と声をかけたが、既に気を失っていた。孝介さんの身体は思いのほか軽く、スーツの上からひどい熱が感じられた。
 
 孝介さんを祖母と一緒に介抱し、離れに運んで寝かせた。その後は死んだように昏々と眠り続け、夜になってしまった。私は枕元に座り、氷のうを変えるなどして夜通し看病した。
 戯れ言とはいえ、私の何気ない一言で孝介さんが倒れてしまったことに責任を感じていた。思い返してみれば、何かに追い詰められているような感じが最初から孝介さんにはあった。それにしても、私は誰と似ているのだろう。全然関係のないことのはずなのに、胸がさわいで仕方がない。
 裸電球の灯りが八畳間を丸く照らしている。午前三時を過ぎて私は眠くなってきた。うとうとしていると、突然孝介さんが跳ね起きた。私が驚いて見ていると、彼はゆっくりと汗だらけの顔をこっちに向けて、「箏の音が聴こえたんです」とうわ言のように言った。私は何と言っていいのかわからず、手拭いで彼の顔の汗を拭ってあげた。
「箏の音が……」
「夢ですよきっと。誰も箏なんて弾いてません」
 孝介さんは我に返ったように、怪訝な顔で辺りを見回した。
「ここはうちの家の離れですよ。昼間、表で倒れはって」
「……御迷惑をおかけしてすみません」
「いいんですよ。さ、横になって下さい」
 私は孝介さんを支えながら寝かせた。いつの間にか眠気もどこかへ行って、胸がしめつけられる。この部屋にはクーラーはないけど、窓から吹き込む風がひんやりとして、暑さは感じなかった。
「気分はどうです?」私が尋ねると孝介さんは眼だけをこちらに向けた。その眼はぬれてふるえていた。
「ありがとうございます」孝介さんは言った。その慇懃さにいやな感じがした。
「双児やなんて嘘ですから。何かしょうもないこと言うてしもて」
「……あなたのせいじゃないです。最近とても疲れてまして、いつ倒れてもおかしくなかったんです」
「それは仕事のせいですか、それともうちに似てるという人のせいですか?」思ってもみなかったことが口をついて出てしまった。
 孝介さんは黙り込んだ。
「そんなに似てるんですか? その人と」
「ええとても」
 私は何かもやもやとした気持ちになった。事情はわからないけど、孝介さんがとても可哀想な気がしてきた。孝介さんの姿を最初に見た時から、私の中の何かが変わるような予感がしていた。
 孝介さんは黙って私を見つめている。それは私を愛している眼だった。これまで男の人と付き合ったこともあるけど、こんな眼で見られたのは初めてだった。逃れることができないと思った。もっと言えばこれが運命というものにちがいない。
 おそろしい。心が勝手にいろんなことを想ってしまう。
 不意に孝介さんが眼をそらした。
「すみません。一人にしてもらえませんか」
 私はがっかりして、離れを出た。あの眼は何だったのかと思うと、悔しいような気持ちになった。ひやりとした風が腕を撫でる。川の流れる音や木々が擦れ合う音がかすかに聞こえ、こんな所に私は住んでいたのかと、今初めて気づいたような、不思議な心持ちになった。
 

 
 三日経って熱は下がったが、孝介さんはよほど疲れているのかよく眠った。ただ祖母の作った料理はきっちり三度、残さず食べてくれるのは安心だった。私が介添えして食べさせるのだけど、彼は話もせず黙々と御飯やおかずを口に運んだ。よけいな負担をかけないように私も言葉をかけなかった。
 孝介さんの倒れた翌日、私はもらった名刺に書いてあった会社に電話をした。システム課の上田という人に事情を話し、ここでしばらく看病を続けることを告げた。上田さんの返事はつめたいものだった。
「面倒かけますが、まあゆっくり休めと言っておいて下さい」
「孝介さんのおうちはどちらなんでしょう。送ってあげようかと思うんですけど」
「そうしてもらってもいいですけど、一人暮らしですからねえ。ま、本人の望むようにしてやって下さい」そう言って上田さんは電話を切った。
 その言葉の節々に孝介さんに対する悪意が感じられて、いやな気がした。受話器を下ろしてあっと思った。どうして孝介さんなどと呼んでしまったのだろう。
 孝介さんには正直に上田さんとのやりとりを話した。孝介さんは横になったまま、諦めたような笑みを口許に浮かべた。
「これでもう終わりだな」孝介さんは低い声で、呟くように言った。
「何が終わりなんですか?」私が訊くと孝介さんは一語一語噛み締めるように、これまであったことを話してくれた。
 会社の重役の娘と婚約し、昇進も約束されていたのに、社内の女性と不誠実な(と孝介さんは言った)付き合いをしたということで何もかもが終わってしまって、今回のことで会社も辞めなければならないだろうと話してくれた。
「婚約者がいるのにどうしてそんなことしはったんです?」
「……それが、僕にもわからなくて。どうしてこんなことになってしまったのか」
 私には孝介さんが嘘を言っているようには思えなかった。
「あげくにその女性が亡くなってしまって……」
「自殺、ですか?」
「いえ。餓死だったそうです。僕に婚約者がいるとわかって、精神を病んで、食事も喉を通らなくなったらしくて……」
「その亡くなった女性と私が似てるんですね」
 孝介さんは眼をそむけ、苦しそうに小さく頷いた。
「会社なんか辞めはったらええんです」私が言うと、孝介さんは一瞬驚いた顔で私を見てから、かすかにほっとした笑みを浮かべた。
「ありがとう」孝介さんは眼に涙を滲ませて言った。
 急に彼が愛おしくなってきた。顔を近付け、自分の唇を孝介さんの唇に押し付けた。孝介さんの唇は氷のようにつめたかった。私は舌をからませようとしたが、孝介さんの口は開かなかった。少しの間、彼はじっとしていたけど、急にふるえて顔をそらしてしまった。私は無性に悔しくなってきて、離れを出た。そのとたんになぜキスなんかしたのかとわけがわからなくなって、腹立たしさと恥ずかしさでいっぱいになった。
 
 次の朝早くに孝介さんと散歩をした。清滝川沿いの道を並んで歩いた。辺りには霧がうっすらと立ち込め、蝉が鳴き出すにはまだ早く、木々の緑がぬれて光っている。私の手が時々彼の手にさわったけど、わざとつながなかった。キスを交わすよりも恥ずかしく思えたから。
 不意に孝介さんがふっと笑った。
「どうしはったんです?」
「まだあなたの名前を聞いてなかったと思って」
 そういえばそうだと思った。
「露です」
「え?」
「露。朝つゆの露です」
「そう。変わってるけど、いい名前ですね。学生ですか?」
「はい」と言ったけど、何だか自信がなくなってくるのはどうしてだろう。
「お祖母さんと二人暮らしだと色々大変でしょう。僕も祖父と二人暮らしだったからわかりますよ」
「でも料理や縫い物が上手だから助かってます」
「そうか。それは僕と大違いだな。うちなんか家事は僕がやってたから」
 私たちは眼を合わせて笑った。でも孝介さんの眼の奥には悲しみが感じられて、私は愛おしくて仕方がなかった。
 
 その夜遅く、離れで私と孝介さんは結ばれた。そうなることは二人が出会った瞬間からの必然だった。手をつなぐよりも自然なことだった。
 でも、孝介さんの愛撫を受けながら、不安がよぎった。孝介さんは私を愛してくれているのだろうか、それとも亡くなった女性を愛しているのだろうかと……。私はまだ見ぬその女に激しく嫉妬した。全身が熱くなり、孝介さんを逃すまいと、必死にすがりついて求めた。何度も気がいった。私たちは人間ではなくなった。二頭の獣だった。
 夜明け頃になって孝介さんはようやく私から離れた。シーツにぐっしょりと汗が染み込んでつめたかった。私は彼の胸の上に這い上がるようにして顔を近付け、むさぼるようなキスを交わした。舌をからませ、孝介さんの血と骨までも知ろうとした。
「うちのこと好いてはります?」長いキスの後、私は訊いた。
「ええ」
「死んだ女の人よりも?」
「当然だよ」と孝介さんは答えたが、一瞬その眼がうろたえたのを私は見逃さなかった。
 不安に襲われ、私は孝介さんにすがりついた。地虫の鳴き声が静けさをかきたてる。突然孝介さんが身を起こし、落ち着かない素振りで辺りを見回した。
「どうしたん?」
「……何か、ずっと見られてる気がして」
「そんなん気のせいやって。お祖母ちゃんはとっくに寝てるし、こんなとこまで誰も来いひんもん」
「だったらいいけど」
 私は孝介さんの首に腕を巻きつけてまたキスを交わした。孝介さんはぼんやりとなって私にされるがままになっていた。その様が人形のように見えて気味がわるかったけど、私はもう孝介さんと一つになることしか頭にない。私は孝介さんを知りたい。身も心も過去も未来も何もかも知りたい。愛するということはそういうこと。そうでない愛などありえない。でもどうしてそんなことを想うのだろう。私にはわからない。でもそれでもいい。孝介さんと愛し合えるのなら、何もかもどうだっていい。
 
 私たちは毎晩愛しあった。朝遅く起きると二人で散歩に出かけ、家に戻ると祖母のおいしい手料理を食べながらおしゃべりした。何を話したか後で思うと全然思い出せないけど、その時が楽しければいいと思ったりもする。
「卒論は何をテーマにしてるの?」
 空也滝の前で孝介さんは私に尋ねた。彼の眼は不動明王を見ていた。
「平家物語における人情と、現代の人情を比較したものです」
「難しそうだね」
「そんなことないですよ。平家物語って読物としてもおもしろいから」
「そう……露さんは、将来の夢ってあるの」
「大学院に行って、大学に残って、それからは日本文学を海外に広く紹介できたらええなあと思てます」
「いいね。うらやましい」
「孝介さんには夢はないんですか?」
「……前にはあったような気がするけど、今はよくわからないな」
 そう言って孝介さんはうつむいた。滝の音をかき消すように蝉が鳴いている。何気なく彼の影を見てはっとなった。私の影よりも薄く見えたからだった。つめたい風が吹いて過ぎていったが、孝介さんの身体があおられゆれたような気がした。それを見ると不吉な予感がして、胸がつまり、私は思わず孝介さんにすがりついた。孝介さんは私を抱き寄せたが、キスはしてくれず、まだ不動明王の方を見ていた。私は不動明王に嫉妬を覚え、孝介さんにすがる手にいっそう力を込めた。
 

 
 九月のある日、私は大学に行った。この日はゼミ生たちが集まり、担当教授に卒論の序論の部分を指導してもらうことになっていた。孝介さんにも声をかけたけど、家にいたいと言うので残してきた。ここ二、三日、孝介さんは何か気になることがあるようで、落ち込んで考え込むことが多くなっていた。食欲もないようだったが、夜になるといつもと同じように私を愛してくれた。
 久し振りに友人たちと会い、大学の食堂で昼食を食べながら語らった。いつになく私の元気がいいと言って皆驚き、笑った。新しい彼氏でもできたのかと訊かれたが、想像にまかせると答えて誤魔化した。孝介さんは彼氏と呼ぶにはしっくりこない。もっと深いところで私たちは結びついている気がするから。私は孝介さんそのものになりたいほど、愛している。
 まだ残暑が続いていて、大学構内が白っぽく見えるほどだった。友人らと話しながら歩いていて気になることに気付いた。皆の影と比べて自分の影が薄く見えたからだった。何か不吉な感じがして、友人らとの話も上の空になった。私のことより孝介さんの身に何かあったのではないかと思って胸がさわぎ、気が急いた。

 案の定、夕方に家に戻ると孝介さんの車がなくなっていた。私は思わず駆け出して家の中に飛び込み、孝介さんの名前を呼んだのだけど、出て来たのは祖母だった。
「孝介さんは?」
「何や若い女の人が来はってな。長いこと離れで話をしたはったけど、『ひとまず家に戻ります。お世話になりました』言うて一緒に車でいなはったんや」
「何時頃や」
「さあ、三時頃やったやろうか」
 血がたぎった。訪ねて来た女が誰だかわからなかったが、私から孝介さんを奪ったとすれば奪い返さなければならない。私が捨てられるはずがない、あんなに愛しあったのにと必死に思ったけど、二度と戻って来ない気もした。私は自分の部屋に行って孝介さんからもらった名刺を捜した。それは孝介さんを探し出す唯一の手掛かりだった。
 孝介さんの会社に電話すると、あの上田という人を頼んだ。でも外に出ているとかで不在だった。私はお客のふりをして上田さんの携帯番号を聞き出して電話した。
「孝介さんの住所教えて欲しいんですけど」
「何かあったんですか」
「ええから教えて」
 つい口調がきつくなった。それに圧されてか上田さんはちょっと動揺した声で、孝介さんの住所を教えてくれた。
 
 孝介さんの家に着いた頃にはもう陽が暮れかかっていた。空がおそろしく焼けて、雲が橙色や赤に染まっている。汗をかいているのに肌寒い感じがして、清滝の家からここまでどうやって来たのか、まるで覚えがないのは気味がわるかった。
 町家風の家は大きく、重そうな黒々とした格子に囲われた外観だったが、その奥にかすかな灯りが見えた。(孝介さんがいる)と思うと身体がぶるぶるとふるえた。私の中にはなぜという思いや憎しみや愛おしさが入り乱れて散り散りになっている。
 玄関の戸を開けようとしたけど、鍵がかかっていて少しも動かない。
「ごめんください」と声をかけたけど、返事はない。
 玄関の戸の格子をどんどんと叩いても物音一つ聞こえもしない。私は苛々として、腹立ちまぎれに格子をきいっと爪でひっかいた。
 
 街灯がひび割れたアスファルトを照らし、灯りに群がる蛾の影が映っていた。私は孝介さんの家をじっと見ていた。隠れて見ていたわけでもないので、道行く人が視線を送ってくるけど、それも全然気にならない。
 かすかに家の中から音がした。玄関の戸が開き、出て来たのは見たこともない若い女だった。歳は二十五、六ほどで長い髪を栗色に染め、涼し気な淡い水色のブラウスを着てブランドもののハンドバッグを提げている。私にはない育ちの良さを感じて憎しみを覚える。
 女は戸に鍵をかけて行こうとしたが、私の姿に気付いて飛び上がるようにして驚いた。私は睨みつけているのに、女はこわがることもなく挑むように見返してくる。
「何か、御用ですか」女は言った。落ち着いた柔らかな声の感じがかえって癇にさわる。
 私は昂る気持ちを抑えて、「孝介さんは、いたはりますか」と訊いた。
「孝介でしたら身体の具合がわるいんで今日はお帰り下さい」
 孝介と呼び捨てにするのを聞いてどきんとした。
「あの、あなたと孝介さんとはどういった……」
「婚約者です。佐久間朋美と申します」
 あっさりと言われて私は何も言えず、ただふるえながら彼女を見つめていた。
「失礼ですけど、あなたはどちら様ですか」
「うちは……」
「もしかして、孝介が清滝で世話になったという方ですか?」
「……そうです」
 朋美という女はほっとした笑みを浮かべ、私に近付いた。
「そうだったんですか。孝介から事情は聞きました。すみません、色々とお世話になったそうで」
 嫌味のない屈託さで言って、朋美は頭を下げた。花のようないい香りが一瞬鼻をかすめた。近くで見ればいちだんと清楚に感じられて、私はまた苛々となってきた。
「せっかくお見舞いに来てもらったのにごめんなさい。彼、とても疲れていて今眠ったばかりなんです」
 私が黙っていると、朋美は時計を見た。
「この時間だともう清滝までのバスってないでしょ。私の車でお送りしましょう。この先のパーキングに停めてますから」とたたみかけるように言った。
 私はどうしようかと思ったが、はっきりさせようと決めて彼女について行った。
 お金持ちそうなのに、朋美はブルーの軽乗用車に乗っていた。助手席に乗ると昼間の熱気と香水のにおいがこもっていて、私は気分がわるくなった。彼女の横顔をちらと見れば眼は大きく鼻が高く口も少し大きいようで、ハーフのような顔立ちだった。ハンドルを握る手は白く、爪には真っ赤なマニキュアが塗ってある。その赤の色を見て彼女の傲慢さを感じ、背中がぞくりとした。
 夜のせいか丸太町通りはすいていて、彼女はおとなしそうな外見に似合わずスピードをかなり出した。それとも私が横に乗っているせいだろうか。
「大学生なんですよね」
 信号待ちの時、不意に朋美が訊いてきた。
「はい」
「何年生?」
「四年です」
「じゃ就職ですね」
「いえ、院に行きます」
「勉強が好きなんですね。私なんかいやでしょうがなかった」朋美は笑顔になったが、なれなれしく言われるのがいやだった。
 丸太町通りを北に折れて走り、清滝道に入った時、突然に朋美が、「彼氏はいるんですか?」と尋ねてきた。
 その声が少し暗かったのでいやな気がして、私は黙っていた。
「男の人と付き合う時は、まず本気かどうか疑わないとね」朋美は呟くように言った。
 私の腕にさぶいぼがさーっと立った。心の底から憎しみがわいてきて、私は彼女を睨みつけた。彼女は無表情のままで真直ぐ前を見ている。
 車は清滝トンネルにさしかかった。このトンネルは一車線でおそろしく暗い。信号は青だった。朋美はぐーっとアクセルを踏み込んでスピードをぐんと上げた。トンネルに入ると車内にまで闇が入り込んできたようで何も見えなくなった。
 この女を殺したい、と私が思ったその時、朋美は急ブレーキをかけて停まった。暗い中で荒い息遣いをしていた彼女はさっと私を見た。
「今、私の首に手をかけたでしょう」
「そんなことしてません」
「でも手が……」朋美はおそろしさに顔を歪めて首筋を撫でた。
 その時、車内に立ち込めていた闇がすうっと抜け出てゆくのがわかった。私はふふと笑った。
「このトンネルって出るんですよ」
「出るって……」
「幽霊です。よくあることですから気にしないで下さい。さ、行きましょ」
 朋美は黙って車を走らせた。彼女が怯えているのが私にも伝わってくる。たぶん首にかかった手はさぞつめたかったに違いない。いい気味だ。
 トンネルを出て、間もなく渡猿橋が見えて来た。
「あ、この辺で結構ですから」
 朋美は車を停めた。
「ありがとうございました」と言って私はドアを開けて降りかけた。
「彼、もう二度と会わないって言ってたから」彼女が前を見たまま、小さく吐き捨てた。
 私はそのまま車を降りた。朋美は素早く車を切り返し、走り去って行った。右手の指先に何かを感じる。持ち上げて見ると五指に長い栗色の髪が一本からみついていた。朋美の髪にちがいない。それを見つめながら、さっきトンネルの中で彼女の首に手をかけたのは、やっぱり私かもしれないと思った。たとえそうだとしても後悔はなかった。私はそれほど孝介さんのことを愛しているのだから……。
 
 その翌日にこっそりと孝介さんの家に行ったのだけど、昨日と同じでいくら声をかけても戸を叩いても、ひっそりとして返事はなかった。私は弄ばれて捨てられたのだろうか。でも愛しあったいくつもの夜を思い出すと、そんなことはとても信じられなかった。
 夜になり、小雨が降り始めた。ぬれるままになっているとだんだん情けなくなってきて、堪え切れずつい涙をこぼしてしまった。一度泣き出すと涙が止まらず、雨と一緒になって顔がべたべたになった。朝から立ち通しだったので、足もくたくたで私は座り込んで泣き続けた。
 と、人の気配を感じて見上げれば、祖母が傘を差しかけて立っている。
「風邪ひくえ。はよ、いの」祖母は言った。
「いやや。うちは孝介さんが会うてくれはるまでは帰らへん」
「そないなこと言うても、心変わりしはったんや。言うてもせんない。帰ろ」
「いややいやや。うちはここにおる」
 だだをこねながら、こんな子どもじみたことをなぜしているんだろうと自分でも不思議に思ったが、会いたい気持ちは偽れなかった。祖母は私を持て余すように傘を差しかけたまま立ち尽くし、私はずっと泣き続けた。
 がたっと戸が開いて、中からもれてきた灯りが私の前にすっと伸びた。えっとなって顔を上げると、玄関の戸の間から孝介さんが青白い顔を覗かせている。
「孝介さんっ」
 私は立ち上がってぱっと飛び、戸を必死に開けると孝介さんにすがりついた。彼はちょっとためらってから私の頬を両手ではさみ、きつく唇を押し当ててキスをした。ひんやりとした、味のないキスだった。
「どうしても、君のことが忘れられない」離れると孝介さんは言った。
 そんなわかりきったことを今更言う彼が憎たらしくなって、私は唇をぶつけるようにキスをして、彼の口の中で舌を蛇みたいにぐねぐねと動かしてやった。
 それからまた、孝介さんは愛してくれるようになった。私と祖母は毎晩彼のもとに通って一晩過ごしては清滝の家に帰って行った。祖母は私が心配だからとついて来るのだけど、私たちの夕飯を作ってくれたりするのがありがたかった。
 昼間には時々朋美が来ているようだった。でも孝介さんは私のために夕方には彼女を帰してくれていた。真実は夜の世界にあると言ったのは誰だったろう。私は彼女に勝った気がして自然と顔がほころんだ。
 
(つづく)

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。