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紅い糸 5 松下隆一

cherry


 
 カラスのひと鳴きを聞いて、私は眼がさめたようになった。まだ梅雨が続いている。今年の梅雨は長くて鬱陶しい。祇園祭りが過ぎても膿のようにじくじくとした小雨が降り続いている。蒸し暑く、動かないでも汗がにじんでくるのが不快だった。
 孝介さんのもとには毎晩通っている。帰りたくないと言っても、夜が明けると婚約者が来るからと家から出された。孝介さんも仕事には行かず、休んでいた。だから、食事や洗濯などの身の回りのことは、婚約者がしてくれるのだと教えてくれた。
 私はもう婚約者に嫉妬もしないし、憎みもしなかった。私と孝介さんは愛し合っていたから、婚約者のことなど気にする必要もなかった。男と女は肉のつながりがすべてだと思った。それさえあれば、相手に恋人があろうが婚約者があろうが結婚していようが、そんなことはどうでもよかった。
 灰になるまでまぐわえるのなら、男と女の、それがすべてで、美しいことだと思った。不倫だとか不貞だとか、そんなものは私にはどうだってよかった。刹那の肉欲というものが、私にとって本当の、愛の形だった。それにまさる恋も愛もなかった。孝介さんだってきっとそう思っているはず。私と彼とはもう、二人ではなく、一つの愛おしい塊だった。

 なぜだろう。孝介さんの家から帰って来てからずっと、胸がひどくさわいでいる。いやだなと思いながら起きてカーテンを開けると、窓ガラスに水滴がついて一面が白く曇っていた。それを手で拭うと、音もなく雨が降っている。ちらと赤いものが向こうに見えて、何だろうと思ってじっと見ていると、それが表の通りをやって来る傘だとわかった。その傘がどんどん近づいて来るのに合わせて、胸が高鳴って倒れそうになる。顔は傘に隠れて見えなかった。その傘が私の家に来るのだとわかっておそろしくなった。
 インターフォンが鳴らされた。来た、と思って私は玄関に行った。その姿を確かめてから、居留守を使うかどうか決めようと思っていた。覗き穴から覗くと、白いレインコートを着た、髪が長くて若いきれいな女性が立っていた。私は水を浴びたようになった。それは孝介さんの婚約者だった。彼女はひどく思い詰めた顔で表札などを確かめている。
 きっと孝介さんと別れて欲しいと言いに来たのだろう。今までにこんな経験は一度もないのでどうしていいのかもわからない。開けるのをためらっていると、彼女はドアを開けて勝手に入って来た。そして私を無視して横をすりぬけ、あたりを見回しながら廊下を歩いて寝室に入って行った。少し間があった後、彼女は「ぎゃあっ」と大声を上げて玄関から飛び出して行った。
 わけもわからないまま、私も寝室に足を踏み入れた。そこは別に何ということもないいつもと同じ私の寝室だった。彼女は何を見たのだろうと思ってうろうろしていると、鏡台の鏡にちらっと黒い影が見えて思わず足を止めた。
 私は顔を横に向けて、そっと鏡を覗き込んだ。そこには骨に皮と僅かな髪がついただけのどす黒い顔があった。両の眼は墨で塗りつぶしたようになっていた。私は叫んでみたが、その声は少しも聞こえなかった。

 私の死因は餓死だった。なぜこんなことになってしまったのかわからなかった。確かなことは、眼には見えない何かが、私の中に棲みついていたということ。だけど、まだ孝介さんの肌のあたたかさ、やわらかさが私の記憶の底に沁みついて、まだかすかに残っている。
 葬式の時、私が子供の頃によく話していたという、漫画家になるという将来の夢を、母親が涙に咽びながら参列した花恵や友人たちに語った。私はその夢にまるで憶えがなかった。もっと強く望んでいたならかなえられたかもしれないけれど、今となってはもう何もかも遅かった。ボーッとして何の目的もなく、その日その日を生きていたからこんなことになってしまったのかもしれない。
 思い返せば、私は生きていなかったのかもしれないとすら思ってしまう。でも世の中には、表向きは生きてはいても、本当は死んでいる人たちがたくさんいる。その中の一人だったんだと思えば、少しは気が楽になった。
 いいえ、私は生きていた。生の喜びというものを、孝介さんが教えてくれた。形はどうあれ、私は愛され、生きていた。それだけで満ち足りた気持ちにひたれた。
 日が射してにわかに明るくなり、蝉が一斉に鳴き始める。夏だった。私の意識は陽炎のようにゆらめいて空に舞い上がり、少しずつ薄くなっていくと、風が吹いて、きれいに消し去ってくれた。
 
(黄の巻 了)(つづく)

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。