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紅い糸 4 松下隆一

cherry


 
 ざあざあと激しい雨の音が聞こえている。三日間降り続いたこの雨で、桜はみんな散ってしまったにちがいない。それとも桜の季節なんてずっと前に終わっていて、もう梅雨に入ったのだろうか。あの薄暗い喫茶店で花恵らと会ってから何日たったのか、今日まで何をしていたのか、何もかもがまるでわからなくなってしまっている。自分自身も、まわりにあるものも、だんだんと影が薄くなっていくようで、気味がわるかった。
 身体が泥のように重い。食欲も失せて、この前はいつ食べたのかも憶えていない。きっと病気なのだと思うけれど、病院に行く気にもならない。誰とも会いたくないし、話もしたくないので携帯の電源はずっと切ってある。
 ソファに横になり、テレビを見ている。何も見ても、テレビの中の人が何を言っているのかわからない。見たくもないのにどうしてこんなものを見ているのだろうと思っていると、テレビの音が急に遠くなって、ぽろりぽろりと箏の音が聴こえてきた。眼の前に孝介さんの家で見た箏があらわれて、私の両手が勝手に動き出して弾いていた。こわいこわいと思いながらも、私の手が止まることはない。

 夕方になっても雨はざあざあと降り続いている。私はずぶ濡れになったまま、墓地の中に立っていた。箏を弾くうちにどうしてもここに来たくなってしまった。私が見ているのは、十人ほどの喪服の人たちが傘を片手に、輪になって納骨をしている光景だった。
 輪の中心にいるのが孝介さんで、傘を差しかけられながら骨箱を墓の中に入れていた。それはこの前話していたお祖父さんの骨にちがいない。私が見たこともないその人が死んで、いい気味だと思うのはどうしてだろう。いくら考えてもわからなかった。
 見つめているうちに私の背中がスッとつめたくなった。孝介さんの傍に寄り添い、傘を差しかけている若い女は婚約者にちがいなかった。抑え切れない激しい嫉妬と憎しみが、心の底からわいてくる。知らないうちに唇を噛み切っていて、口の端から血が流れ出た。なめると鉄錆の味がする。その味がよけいに私の血をたぎらせた。
 一行が納骨を終えて寺の方に戻ろうとした時、孝介さんと眼が合った。私が微笑みを浮かべると、孝介さんは驚き眼をむいた。こっちに来て欲しいと思って手招きをしたが、孝介さんは婚約者に促されて行ってしまった。

 夜になり、やっと小雨になった。風が吹くと凍えるように寒かった。親族や婚約者が帰るのを待って、私は孝介さんの家を訪ねた。玄関の戸が重々しく開いて、孝介さんが怯えた顔をのぞかせた。
「どうしてここに」
「どうしても会いたかったから」私が言うと孝介さんは泣きそうな顔になった。
「この前のことは謝る。だから帰ってくれ」
「いやや」
「あの時は魔がさしたんだ」
「魔がさしたのでもいい。あと一度、今晩だけ……」
「何を言ってるんだ……君、おかしいよ、そんな格好で」
 見れば、私は白いパジャマ姿のままだった。雨にぐっしょりとぬれてはりつき、肌が透けて見えている。それに裸足で泥だらけだった。でも不思議と恥ずかしさはなく、ただ孝介さんが愛しい気持ちでいっぱいだった。
「私を捨てないで」自分でも思いもよらない言葉ばかりが口をついて出る。
「捨てるもなにも……」
 私は素早く孝介さんの胸に飛び込んだ。孝介さんは思わず私を抱きとめたが、強引に引き離そうとする。
「捨てたら、うちは死ぬから」私は必死にすがりついて、孝介さんの耳許で囁いた。自分でも驚くほど陰にこもった声だった。
 孝介さんは力がぬけたようになり、私を家に引き入れると戸を閉めて堪え切れないように抱き締めてくれた。
「僕にもわからなくなった」そう呟いて孝介さんは私の唇をきつく吸った。やわらかくてあたたかな感触が、つめたい私の身体をときほぐしてゆくようだった。
 孝介さんは離れの自分の部屋に私を連れて行き、この前よりも激しく何度も抱いてくれた。私がやせたのか孝介さんがやせたのか、肌を合わせるとゴツゴツと骨が当たる感じがしたけれど、この時間が死ぬまで続いて欲しいと願うほど、夢のような心持ちだった。言葉がなくても身体さえつながっていれば、何もかもが嘘ではないような、そんな気がした。

 夜が明ける頃、孝介さんがまたガクンと崩れ果てて寝入ってしまった。その時、私の中でも何かが弾け、夢からさめたような気がした。孝介さんの寝顔を見ながら、なぜまたこんなことになってしまったのだろうと思った。今の私は孝介さんを愛してはいない。頭の中がおかしくなったようでおそろしい。私は慌ててパジャマを着て、まだ暗い中を裸足で走って帰って行った。
 家に戻るとシャワーを浴び、疲れ切ってぐったりとソファに横になった。おそろしさと恥ずかしさでいっぱいになった。あんなことは二度としてはいけないと思うのに、孝介さんと肌を合わせている感触を思い出して自然と身体が火照ってくる。それは時間を追うごとに高まり、夕方には堪らなく彼が欲しくなっている。
 私はその日から毎晩、孝介さんの家を訪れ、夜明けまで愛しあった。昼間は夜の疲れを癒すようにテレビを眺めてソファに横になり、陽が沈む頃には身体が疼いて仕方がないので、起き上がり、孝介さんのもとへと向かった。
 孝介さんはいつも笑顔で迎えてくれた。会う度に孝介さんは痩せてゆくようだったけれど、そんなことをいちいち気にとめていられないほど私たちは互いの身体を貪り、私は何度も気がいった。

 もう何月の何日か、何曜日か、何時なのかすらわからなくなっている。昼間の疲れは異常なほどで、起き上がることもできず、ただただ眠り続けているだけだった。時々、私が誰なのかすらわからなくなる。でも夕方になると、孝介さんとまぐわうために、身体が勝手に外に出て行く。
 ドアをノックする音が聞こえた。気のせいかと思って放っておくと、何度もコツコツと鳴っている。無視をしようとしたけれど、その音は止まなかった。私は苛立ち、ソファから転がり下りると、這いずって玄関まで行った。ドアノブに手をかけ、何とか立ち上がって覗き窓から覗くと、小太りの禿げ上がった見知らぬ老人が立っていた。
「どなたですか」
「……私、三上孝介の叔父ですが、少しお話がありまして」細く、かすれた声だった。
 孝介さんの叔父と聞いては追い返すわけにもいかずドアを開けた。湿気をたっぷり含んだなまぬるい風が入って来た。
「どうぞ、お入り下さい」私が言っても叔父さんは直立したままで動かない。
「いえ、ここでええのです」
「……あの、お話というのは」
「あなた、毎晩孝介の家に通うとられますな」
「はあ……」
「あれはもうすぐ身を固める男どっさかいな、やめてもらえまへんかと思いましてな」
「それは知ってますけど、お互い承知の上で会ってるんですからええのとちがいますか」
「あきまへん」
「うちは別に婚約者から孝介さんを取ってしまおなんてちっとも思てしません。うちらはただ好きおうてるだけなんです」
「あきまへん」
「なんでです」
「このままでは孝介は死んでしまいます」
「は? 何で死なはるんですか」
「あなた、気づいてないんですか」
「何をです?」
 風がドアを押してバタンと閉めた。もう一度ドアを開けた時には、叔父さんの姿はなかった。私は気味がわるくなり、また這いずってソファまで行き着き横になった。
 叔父さんから交際を止められたこともショックだったが、久し振りに人と話をしてみて勝手に京都の言葉が口をついて出て来たことにも驚きをおぼえていた。何が何だかわからず、混乱してもやもやとするうちに夕方になり、身体が勝手に起き上がってしまった。

「今日孝介さんの叔父さんが来はったわ」孝介さんと長い口づけを交わした後、私は言った。
「叔父さん?」
「七十くらいの、小さくて太った禿げた人」
 暗い中でも孝介さんの顔色が変わったのがはっきりとわかった。
「嘘だ」
「嘘やない。うち、はっきりと見たんやから」
「……それは、祖父の弟で僕の大叔父だと思うけど、来て、どうしたの」
「うちにな、孝介さんと会うのはやめてくれ言わはった」
 孝介さんは長い間黙り込んだ。私は言い知れないおそろしさでいっぱいになり、孝介さんにすがりついた。
「うちはいやや。このままでいたい」
「叔父さんが君の家に行けるはずがない」
「……どうして?」
「先週の月曜日に脳溢血で倒れて、意識が戻らないまま入院してるから」
「ほんまに?」
「他に何か言ってた?」
「ううん」
「僕のお祖父さんこととか言ってなかった?」
「何かあったん?」
 孝介さんは黙っていた。そのうちにぽろぽろと箏の音が聴こえてきた。孝介さんは私をきつく抱き寄せた。
「うちにも聴こえる」
「君と一緒だと全然こわくないな」
「きれいな音」
 孝介さんは私の上になり、箏の音に合わせるように優しく乳房を愛撫してくれた。首筋をきつく吸われて私は思わず声を上げた。箏の音がだんだん大きくなってゆく。孝介さんの手の力も強くなって、乳房から離れると私の首にかかった。孝介さんは私に馬乗りになり、両手でぎゅうぎゅうと首を絞めた。私は手足をばたつかせて抗ったけれど、孝介さんは別人のようなこわい顔つきになって首を絞めてくる。意識が遠のき、見えるものが白黒の世界になり、だんだん暗くなってゆく。
「殺さんといてっ」声を振り絞って私が叫ぶと、箏の音が止んだ。
 孝介さんの顔がもとに戻り、私から離れて仰向けになった。私は思わず身を起こして孝介さんを見ると、両手で顔を覆い、肩を動かしてハアハアと息をしていた。
「なんで、こんなこと……」私が言うと、孝介さんは顔から両手を外し、その手を長い間見つめていた。そして暗闇の中で、眼だけを動かして私を見た。
「……祖父の葬式の後、叔父からおそろしい話を聞いてね」
「どんな話?」
「それは……いや、やめておこう。思い出したくもない話だから」
「うちのこと、もう嫌いになったん?」
「そんなことないよ。でも、これからのことを思うと、おそろしくて……」
「うちもや……けど、孝介さんと一緒やったら何にもこわない」
 私と孝介さんは見つめ合い、微笑み合った。孝介さんは私を抱き寄せ、いつものように私を愛でてくれた。もう帰りたくなかった。ずっと孝介さんと一緒にいたかった。私の上に乗る孝介さんは、紙のように軽かった。その軽さに孝介さんが愛おしくて堪らなくなって、この人になら殺されてもいいと思ってしまった。
 
(つづく)

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。