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紅い糸 3 松下隆一

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 ベランダでメジロが死んでいる。窓ガラスで頭をぶつけたのか眼が開いたままで、きみどり色の背がくすんで見えた。メジロというのは一夫一妻なのだと、中学生の頃に国語の先生から聞いたことがある。このメジロが雄か雌かわからないけれど、どちらかを追っているうちに、死んでしまったのかもしれない。その眼がぬれていた。私はつい、孝介さんの眼と重ね合わせてしまう。
 あのことがあってから、私は会社に行かなくなった。疲れ切って身体が動かない。あの日、孝介さんはとうとう夜が明けるまで私を離さなかった。何度も求めてきて、まぐわい、互いの身体の隅々まで知り合った。私の足の指は、ずっと、縮まり、伸びていた。
 格子の窓が白んで、冷気が感じられる頃、彼はがくんとなって畳に転がり、死んだように寝入ってしまった。私はおそろしくなり、服を着てそのまま家を飛び出して夢中で帰って来た。
 一日中ソファに寝転んで、考えることといえば孝介さんのことばかりだった。そのくせ彼が好きではない自分もいる。それが不思議でならなかった。あんなにお互いを知ろうと獣のように貪り合ったのに、その間も、別の私がどこからか、まぐわう孝介さんと私を見つめている気がしていた。
 夢うつつになる。
 眼を閉じると箏の音が耳の奥で響いて、鈍く光る唐紅の血溜まりが見え隠れする。それがなぜだか心地よい。いえ、快感だった。それから、孝介さんと唾液を交わらせた一夜、ううん、万の夜にも匹敵するあの時間を、手に取るように思い出す。
 携帯が鳴って現実に引き戻される。花恵からのメールだった。安否を気遣う内容だったけれど、私は返信しなかった。夢うつつでずっといたかった。
 電話がかかってきた。花恵だった。放っておこうと思ったが、心配のあまり家にまで訪ねて来られたら面倒だと思って携帯に出た。
「もう五日になるけど大丈夫?」
「うん。だいぶよくなったから」もうそんなに休んだのかと思いながら私は答えた。
「ちゃんと食べてる?」
「うん大丈夫」と答えたが、食べている記憶もない。
 ちょっと間があって、花恵は声を潜めて、
「コンパの夜、三上さんと何かあった?」
「ううん別に……どうして?」
「一緒に帰ったから……」
「ああ……あれから喫茶店でお茶を御馳走になってそのままうちに帰っただけだけど」
 花恵が黙り込む。疑っているのにちがいないと思ったけれど、私も黙っていた。
「何もなかった?」
「うん」
「ほんまに?」
「うん」
「そう……」
 花恵の声の調子が興味本位ではなく、何か深刻な感じなのが気になった。
「もしうちと三上さんの間に何かあったらまずいことでもあるの?」
「……ま、ええか。じゃお大事に」花恵は一方的に電話を切った。
 何だろうと思いながら孝介さんについて色々と考えてみたけれど、まるで思い当たらない。彼についてわかっていることといえば、名前とあの家だけだった。
 またソファに横になった。さっきまでの自分が嘘のように、私が私に戻ったように、もう夢うつつになることはなかった。頭の中の霞が晴れて、何を見てもはっきりとした輪郭をもっていた。
 ふつうの感覚に戻ったのだろうけれど、私はとても苛々とした。孝介さんのことが気になって仕方がない。私の知らないところで何かが起きているのではないかと思うと、とてもいやな気がする。
 私は全部を知っていたい。知らなければならない。孝介さんのことについてはすべて……。
 
 その翌日、会社へ行った。花恵からの電話があってからはふつうに食べて眠り、身体はもと通りになった。でも、しばらく感じなかった異常な火照りと疼きに、また悩まされるようになった。ただ孝介さんへの思いはいっそう募って強くなってゆく。どうしても会いたくなって出勤したのだった。
 久し振りに私の顔を見て花恵は笑顔を見せたが、それは一瞬のことだった
「チエ、口紅」花恵は声を潜めて言った。
 私の口の両端から横に大きくはみ出して口紅が塗られているのを、花恵は注意してくれたのだが、わかっていることだった。
「わかってる。後でなおすから」私は笑顔で言った。
 今朝鏡台の前に座り、口紅の紅い色を見た時、どうしてもそれを顔中に塗りたくなってしまった。その気持ちを必死におさえて塗ったのだけれど、唇からはみ出すのはおさえようもなかった。後でなおすと言ったものの、そんな気は毛頭ない。
 席に着く前に営業課の方を見たが、孝介さんの姿はなかった。
「やっぱり気になる? 三上さんのこと」花恵が茶化すでもなく真剣に訊いてきた。
「そら花恵があんな意味ありげな電話してくるから」
「……お昼に教えてあげるワ」
 その暗い感じの声にいやなものを感じたが、孝介さんのことなら何でも知りたいと思うばかりだった。
 お昼休みには、一度も行ったことのない、河原町通りにある地下の喫茶店へと花恵に連れて行かれた。
「会社の人に聞かれたら困るから」花恵はぼそっと言った。
 会社を出て喫茶店に入るまで、彼女は一言も口をきかなかった。口紅もなおしていなかったけれど、何も言わなかった。
 店の中はサラリーマン風の男の人が四、五人、ぽつぽつとカウンター席やテーブル席に一人ずつ座っていて、新聞や雑誌を読みながらカレーライスやサンドイッチを食べていた。奥の厨房から食器のがちゃがちゃとぶつかりあう音や、水を流す音が不自然なまでに大きく聞こえてくる。
 花恵と私は一番奥のいちだんと暗いテーブル席に着いた。四人掛けなのになぜだか花恵は私と並んで座った。向かいに誰かがいるようで気味がわるかったが、その理由は尋ねなかった。
「ここ、カツサンドがおいしいねん」花恵は言ったが、その声はやっぱり暗い感じだった。
 あまり食べたい気分ではなかったけれど、彼女に言われるままにカツサンドとコーヒーを頼んだ。
 それを待つ間も、カツサンドが出てきて食べ始めても、花恵は一言も話さなかった。私が尋ねたいことは一つだった。教えてあげると言われたことを教えて欲しいだけだった。でも自分から切り出すのも何だかおそろしいようで黙っていた。
 二人とも食べ終わってコーヒーを飲み、一息ついていると急に花恵が手を上げて、「主任、こっちこっち」と言うので見ると、小柄で眼鏡をかけた縞柄のワイシャツにネクタイ姿の男が笑みを浮かべてやって来て、私たちの向かいに座った。
 のり弁当の海苔のように薄く短い髪が頭に張り付いている。頬はぷっと膨らみ、鼻も口も小さく子どものように感じられた。歳は三十過ぎくらいだろうか。どこかで見たようだと思っていると、華恵が、
「知ってると思うけど、こちらシステム課の主任で上田さん」と言って紹介した。
「どうも、上田です」ひきつったように微笑んで上田は言った。よく通る少し甲高い声だった。
「こちら経理の白川千絵さんです」
 花恵にフルネームで紹介されて、自分の名前でないような変な気持ちになった。私はちょっと頭を下げて改めて上田を見たが、やっぱりその顔は見たことがある程度の、薄い印象でしかなかった。
「三上さんのことだけどね、主任の方から話してもらった方がはっきりすると思って来てもらったんだ。主任は三上さんと同期入社なんだって」
 ウエイターが水とおしぼりを持って来た。
「ホットね」と上田は言い、おしぼりで顔をぐりぐりと拭った。その様が猫のように見えた。
「煙草、ええかな?」
「いいよね」花恵に言われて私は頷いた。
 じらされているようで少し苛々とした。上田は煙草に火をつけ、顔を横にしてふうっと煙を吐いた。
「どこまで聞いてええのかな」
「千絵は何もなかったって言うんですけどね」花恵は上田に言って私をちらっと見た。
「そう……けど、若い男と女が二人きりで一つ屋根の下で一晩過ごして、何もなかったというのは信じられへんけどな」
 どきんとなって私は上田を見た。彼はそれを待っていたように笑みを浮かべた。
「孝介に婚約者がいるのは知ってる? あ、知ってるわけないか」
 私は水を浴びたようになった。上田という男が、いかにもわざとらしく言うのが憎らしかった。
「誰なんです、婚約者って」花恵が訊いた。
「うちの佐久間専務の娘さんや」
「へえ、そうだったんですか」
「孝介は専務のお気に入りでね。娘さんに会わせたらひと目惚れしたらしくて、結納も済んでこの秋に結婚することも決まってるんや」
「どっちがひと目惚れしたんですか?」
「娘さんの方らしいけど、僕は孝介の方がちょっかい出したと思ってるんや」
「でも三上さんて、そんなタイプに見えませんけど」
「人は見かけで判断したらあかん。あいつ、飲みに行ったら必ずナンパしてお持ち帰りや」
「え、ほんとですかあ?」
「ほんまや。実はそれが専務の耳にも入ってな。心配やから俺に見張っといて、何かまずいことあったら報告してくれ言うて頼まれてたんや」
 上田と花恵のやりとりに芝居がかった悪意を感じた。花恵は横目で私の方を気にしながら、
「主任はあの晩、チエと三上さんの行動を見張ってたというわけですか」
「ま、専務の頼みやからな。白川さんは、午前一時頃に孝介の家に行って、七時に出て来てそのまま家に帰ったことはわかってる。別に具体的なことを聞きたいんやなくてね、そういうことがあったのかなかったのか、イエスかノーかでええのやけど、教えてくれへんかな」
 そう言って上田は長くなった煙草の灰を落とした。よくわからないけれど私は辺りかまわず爪を立てて掻きむしってやりたい心持ちになった。孝介さんに婚約者がいたということが悔しくてならなかった。怒りに手がふるえそうでコーヒーカップも持てない。それなのにどうしてそこまで彼のことを思うのか自分でもわからなかった。
「チエ、大事なことやから正直に話した方がええよ」花恵は言ったが、私はそんなことで戸惑っているのではなかった。
 怒りに身体がふるえ、火照ってくる。
「その様子ではイエスみたいやな」勝ち誇ったように上田が言う。
「お互い割り切ってたらいいけど、そうでなかったら三上さんには深入りせん方がええね」
 花恵の言葉に、私はカッとなった。口にするつもりはなかったのに、つい、
「孝介さんはうちのもんや」と言ってしまった。
 自分でも驚くほど陰にこもった声で。花恵と上田は思わず驚いた顔で眼を合わせた。上田が少し私の方に身を乗り出した。
「悪いことは言わん。孝介はやめといた方がええ」
 私は睨みつけた。花恵が何か言いかけたが、私の眼から涙がこぼれるのを見て言葉を飲んだ。何で涙なんか流してしまったのだろう。私は孝介さんを好きでも何でもなかった。おそろしい感覚だった。いくら考えても自分自身がわからなくなってしまった。
 
(つづく)

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。