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紅い糸 2 松下隆一

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 暗く天井の低い店だった。四条河原町の高島屋の裏、地下にある洒落たカフェバーだったが、店に入ったとたんに私の背中がつめたくなってしまった。花恵によるとここのシェフはフランスで料理修行したとかで、本格的なフレンチを作るというのが売りなのだという。けれども私にはそんなことはどうでもよく、一番奥にある掘り炬燵風のテーブルに着くと息がつまるような気がして堪らなかった。
 参加するのは女性が八人と男性が七人だということで、私と花恵が来た時には皆揃っていて、わあわあと話をしていた。その賑やかさに少しは救われる思いだったが、背中のつめたい感じはずっと続いていた。
 一通りの料理を食べ、ビール、焼酎、ワインの注がれたグラスが次々と空になってゆく。私も花恵や男性社員らと語らい、ワインを二杯三杯と重ねるうちにだんだんよい気持ちになってきて、背中のつめたいのも感じなくなっていった。
「ごめん、ちょっとトイレ」隣に座っていた男性社員が私との話を中断し、よほど我慢していたのか慌てて腰を上げて行ってしまった。
 私はワインを飲みながら何を思うでもなくまわりを眺めていたのだけれど、何だか始めの頃より辺りが暗くなっているように感じられて気味がわるくなってきた。また背中がつめたくなってきてワインを呷った時、眼の端に真っ黒い影を見た気がして何気なく横を見れば、いつの間にかそこに彼が座っていたので水を浴びたように身を固くした。
 私はほとんど口に出してしまいそうな勢いで、(孝介さんだ)と思った。彼は眼を宙に泳がせ、グラスのビールを飲んでいる。私が声もなく見ていると、彼はこっちを向いて不思議そうな顔をした。その細面の顔の上半分は暗い影で覆われてよく見えなかったが、突き出た喉仏だけがぐりぐりと動き、それだけ別のが生きものに見えた。
「どうも」孝介さんは言った。
 微笑んでいるようだったけど暗くてわからない。その声は意外に太くてひずみがなく、落ち着いた雰囲気だった。
「どうも」私も言った。笑顔を作ろうと思ったが、顔が少しゆがんだだけだった。
「君、経理にいる人?」
「はい」
「やっぱり」
 孝介さんはビールを飲み、また眼を宙にやって黙った。その横顔を見るうちにだんだん 
とまわりのわあわあという声が遠くなってゆく。
「三上、孝介さんですね」
 彼はおかしなほどびくりとして私を見た。
「君は……」
「白川千絵といいます」
 名前を聞いたのではなかったかもしれないけれど、私はどうしても言いたくなっていた。彼はビールを呷り、店員にお代わりを頼んだ。
「どんな字を書くの? チエって名前」不意に孝介さんは私を見て言った。
 私の手が勝手に動いて孝介さんの手をつかんで引き寄せた。彼は一瞬驚いた顔になったが、私にされるままになっている。その指は細長く、柔らかで女のような手だった。私は掌にゆっくりと千絵と書いたのだけど、彼は何とも言わなかった。急にそうしたくなって、私は彼の掌をぺろりとなめた。彼は思わず手を引っ込め、怯えた眼を私に向けた。おそろしいのは私の方だ。頭にも浮かばないことを身体が勝手にやってしまう。
 孝介さんが離れて行ってしまうのではないかと思ったけれど、そんなことはなく、その後も互いにただ黙ってグラスのお酒を飲み続け、時々彼はこっちに眼を向けて微笑む。私も微笑んで見せたが、微笑んでいるかどうか自信はなかった。まわりがぐらぐらとゆれ始め、どんどん暗くなってゆく。

 ぬるい風が音もなく吹いて頬を撫ぜていった。月も星もない空には、灰色の雲のでこぼこが低く見えて、今にも雨が降り出しそうだった。私たちは細い路地を歩いていた。ぽつぽつと古い街灯が立ってはいたが、その灯りは足許に届かないほど暗かった。
 私の腕をつかんでいるのは孝介さんだった。ここまでどうやって来たのか、どうしてやって来たのかまるで憶えがなかったが、孝介さんとは楽しく語らいながら歩いている。酔っているせいか、自分でも何をしきりに話しているのかよくわからないのが無気味だったけれど、私の両足ははっきりとした意志を持って歩いている。
 私の足がぴたりと止まった。孝介さんは不思議そうに私を見た。
「どうしてわかったの?」彼は言った。何を言っているのだろう。
「何がです?」
「僕の家」
「知りませんけど」
「でも君が立ち止まったここが僕の家なんだけど」
「偶然じゃないですか」見れば、そこには黒い板塀に囲まれた、町家風の古い大きな家があった。
「そうだな。知ってるわけがないもんな」笑みを含んだ声で彼は言った。
「こんな広い家に一人で住んで寂しくないですか?」
「どうして知ってるの。僕が一人で住んでるってこと」
 私は胸を衝かれた。自分でもどうして知っているのかわからなかったから。
「会社で誰かに聞いたかも」
「そう。誰も知らないと思ってたけどな」ぶつぶつ言いながら彼は鍵を取り出し、格子の入った重そうな引き戸を開けた。
「さ、入って」
 言われて土間に足を入れたが、とたんに背中がつめたくなった。痛いほどのつめたさで両腕に鳥肌が立った。けれど不思議といやでもなくて、逆にずっとここに居なくてはいけないような気がした。
 細長い土間はぬれて鈍く光っていた。台所の横を過ぎて奥の座敷に上がると、孝介さんはお茶を出すと言って引っ込み、私は大きなテーブルの前に座って待った。右手奥に眼をやると縁側があって、窓越しに庭が見えている。竹だろうか風にさわさわと鳴るのが聞こえていた。ここが外の世界と切り離された場所のようにに感じて、何だかそれが心地よい。
 微かに香の匂いがする。遠くからそれがだんだんと強くなって近付いてくるようだと思っていると、孝介さんが盆に乗せたお茶を持って入って来た。
「静かですね」
「夜中だからね。どうぞ」孝介さんはお茶を私の前に置いた。
「あの、私、どうしてここに来たんでしょう」
 孝介さんはまなじりをゆがめて変な顔をした。
「帰りたいの?」
「いえ。ただどうして来たのかと思って」
「どうしてって、君が来たいと言ったから」
「さっきの店でですか」
「え……さあどうやったかな」
 気まずい感じで孝介さんは黙り込む。私には来たいと言った憶えはなかったが、彼が嘘をついているようにも見えなかった。おかしなことだけれど、私がここに来るのは初めから決まっていたように感じられる。全然帰りたくなくて、ずっと彼のそばに居たい気持ちだった。
「お香の匂いがしますね」
「……祖父が亡くなってね。十日前に」
「そうですか。じゃ、お祖父さんと二人暮らしだったんですね」
「うん。亡くなる前は一年ほど入院してたけど」
「ええ気味や」
「えっ」
 孝介さんは眼をむいたが、もっと驚いたのは私自身だった。どうしてそんなことを言ったのかわからず、どきどきとしてうつむいた。孝介さんが息を飲む音が微かに聞こえた。
「私、ここに来るの初めてじゃない気がするんです」
 孝介さんは黙っていた。庭の方からじいじいと虫が鳴いている。私は眼を上げて彼を見た。糸で結ばれたように眼が合い、背中がつめたくなっていった。ずいぶん長い間見つめ合っていると、彼の顏がおそろしさにゆがみ、小さくふるえ始めた。
「どうしたんです?」
「君には聞こえないの」
「何がです?」
 孝介さんは立ち上がってふらりと出て行った。私も後を追った。暗い急な階段を上がり、彼は二階のその部屋に入って電気をつけた。たぶんそこは広い座敷なのだろうけど、古そうな本や道具や家具がごちゃごちゃと置かれて狭く感じられた。
 その中に、不自然なほど広い場所をとって長い木の塊が置いてあった。よく見るとそれは古い箏のようだったが、糸は一本も張られていなくて、電燈の灯りに赤黒い生々しい艶を見せている。ついさっきまで誰かがその前に座っていたような感じが無気味だった。
 孝介さんは箏の前に立って見下ろした。私はその後ろから箏を覗き込む。
「最近、毎晩これが聴こえてね」
「これって……」
「箏を弾く音がさ」
「でも糸がないですけど……それに、誰が弾くんです?」
「わからないから困ってるんだよ。こんなもの、どこにあったのか……いくら奥にしまっても、誰かがこうしてここに置いて弾くんだ」
 おかしなことを言うと思ってふと見れば、孝介さんのワイシャツは汗でべったりと背中に張り付き、黄色い肌の色を見せている。
「祖父さんの葬式が終わってから毎晩、琴の音が聴こえるんだ」
 その声は怯えてふるえていた。それなのに私は心が弾んで仕方がなかった。気がつくと箏の前に正座し、一度も弾いたことのないのに手が勝手に動いて弾く真似を始めた。孝介さんの止める声がしたけど、全然気にもしないで一心に弾いていると、いつの間にか音も聴こえてきた。わんわんと耳鳴りのように箏の音が響いて身体の中に染み入ってくるようで、びりびりとしびれていい気持ちになってゆく。
 孝介さんが私の身体をゆさぶった。何か必死に言いながら箏を弾かせまいとしている。けれども私の身体はもういうことをきかない。そのうちに彼は大きな声を上げて私の頬をぶった。その鈍い音に箏の音は消えて私は身体を投げ出すように横倒しになった。
「大丈夫?」
 孝介さんは心配そうに言って私の身体を抱き起こした。彼の眼を見た時、わけのわからない涙があふれてきて、私はすがりついた。最初は引き離そうとした彼の手が、力を込めて私を抱き締めるのにそう時間はかからなかった。
 きつく唇を吸い合い、舌をからませた。孝介さんの舌は氷のようにつめたい。いいえ、それは私の舌が火のように熱いせいだろう。
 孝介さんが肉をむさぼる獣のように私の上にのしかかってきた。私はちらと横目で箏の方を見た。一瞬だけ糸が見えた。その糸の色は血の色のように濃い赤だった。

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。