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紅い糸 1 松下隆一

cherry

黄の巻
 
 

 
 身体の具合がおかしくなり始めたのはまだ肌寒い三月の初め頃だったと思う。毎晩のように首から下が異常に熱く感じられて火照り、疼く。内科医も婦人科医もカルテを見て首をひねった。どこにもおかしなところがないという。心療内科でも診てもらったが、ストレスの少ない極めて良好な精神状態であると、担当医はにこやかに言った。
「気のせいでしょう」
 というのが私の病状に対する結論だった。確かに医者からすれば気のせいになるだろうけれども、本人にしてみればこんなに気味のわるいことはない。かといって、それで御飯がおいしくないとか、人付き合いがわるくなるとか、仕事がうまくいかなくなるとかといったことは全然なくてふつうだった。身体だけが他人のもののようでおかしい。それがかえっていやな気がする。
 近頃は本当にひどい。夜中に身体の火照りで眼を覚ます。夜明け頃になってうとうとし始めると、今度は猛烈な疼きが胸から下に襲ってくる。じっとしていると身体の中の血がびゅうびゅうと動いているのがはっきりと感じられる。眠れないまま会社に行くことも三日に一度のペースになってきた。けれども眠れないことで身体に疲れがたまるということもない。不思議だがおそろしい気がする。
「あんた、もしかして更年期障害とちがうか」
 奈良に住む母親に電話で相談すると、そんな返事が返ってきた。潜めた声が真面目なだけにすぐに否定できず少しうろたえながらも、
「あほかいな。うちはまだ二十七や」
 と取り繕うように答えた自分がかえって変に思える。あとは何かしどろもどろなやり取りになって電話を切り、ソファに横になった。生まれて初めて自分に向けられた更年期障害という言葉を冷静に考えてみたのだけれど、月のものはちゃんとあるし、火照りと疼き以外は何もない症状であったから、更年期障害だなんて考えられなかった。
 ただ思い当たることがないわけではない。大学時代から付き合っていた彼氏と二年前に別れてからは、この身体を会社と日常生活に使っているだけだった。刺激がないからこんなことになってしまったのかもしれないけど、自分で慰める気にも全然ならない。でも不思議な気がする。彼氏とのことがもう何十年も前のことのように感じられる。顔や名前はぼやけてはいても何とか覚えてはいるけど、あの時の感覚がまるで思い出せない。初めての人だったから比べようもないけれど、みんなそんなものなのかもしれない。  
 とりとめのないことを思いながらふと、指先にひやりとした湿ったものを感じる。それをつまんで眼の先に持って来ると、それは桜の白い花びらだった。そういえば今朝のテレビで京都の桜が見ごろになったと言っていた。ここは渡月橋の桜並木に近いから、その季節になると花びらが舞う。今年も会社の同僚たちと円山公園で花見をやるのだろうなと思いながら花びらを眺めていると、それが急に紅く染まったので思わず振り払った。花びらは一瞬だけ宙を舞って見えなくなった。
 ベッドに入ってからも花びらのことが思い出され、おそろしい気がしてなかなか眠れなかった。ずっとつめたいものが背中にはりついているようだった。紅く染まったことがおそろしかったのではなくて、振り払った花びらが宙を舞ったその一瞬、ふふっと自分の口が笑った気がしたのが不気味だった。私は狂ってしまったのかもしれないと思った。そのうちに火照りと疼きがきて、その晩は一睡もできなかった。
 
 翌朝、朝食は食べずに歯を磨くと、何か心が急くような感じで鏡台の前に座った。そういえば近頃は身体の異変とともに化粧も濃くなってきて、同僚からも指摘されたことがある。特に口紅の好みが濃い赤へと変わってきた気がする。前は淡いピンク系のものがよかったはずだけど、赤いのを無駄に何度も塗り重ねるようになってきた。私はもともと薄い顔なのでそのコントラストはどう見ても変なのだけど、止めようと思っても心が許さない感じがした。
 化粧だけではない。通勤の電車までが変わった。この間まではずっと阪急の桂駅まで歩いて行き、電車で四条にある会社まで通っていたのだけれど、今は嵐電の嵐山駅から四条大宮まで出て、そこから会社まで歩いている。遠回りで疲れるだけなのだけど、なぜだかそうしたくなってしまった。
 四条烏丸交差点近くにあるオフィスビルに、私が勤める会社は入っている。各部署の仕切りが全然なくて、私の席からも社長の姿が見えるほどだ。服装も自由で、スーツを着ているのは営業課くらいである。社員は五十人ほどの小さな会社だが、IT関連のソフトを開発、販売していて、社長によれば倍々ゲームを続けているということだけれども、経理課の私にはあまり興味のないことであった。
 奈良で生まれ育ち京都の私大に入学した頃は、卒業後は大阪か東京にでも就職しようと思っていたのだけれど、四年住んでみると出るのが億劫になってしまった。特にこれといってやりたいこともなく、ただ生活に不自由がなく生きてゆければよいと思った。今の会社を選んだのは、働く社員たちが若いというだけの理由だった。将来性があるとか安定しているとかそんなことはどうでもよく、ただ単にみんなが若いということが私の気持ちを動かしたのである。
 何のきっかけだったか、小学生の頃に市役所の職場というのを覗いたことがあったが、並んだ机にへばりつくように頭の禿げたのや太ったのや白髪の男たちが働いている姿を見てぞっとなった覚えがある。子ども心に、(あの人たちはもう死んでいるんだ)と真っ先に思ったものだった。
 何だろう。今日は朝からいつになく胸がさわいでいる。ゆうべ、桜の花びらのことで眠れなかったのがおかしな心持ちにさせていたのかもしれないけれど、仕事をしていても、同僚とおしゃべりしていても、上司に報告している間も、身体中の血がびゅうびゅうと激しく動いているのが感じられて落ち着かない。
 顔までがむずむずとし始めたので、堪らずトイレに駆け込み鏡に顔を映した。口紅は赤いものの、いつもと変わらない私の顔がそこにあってほっとした。けれども、胸はずっとさわいでいた。
 鏡を見つめていると顔のかたちがだんだん変わってゆくような気がして、おそろしくなってきた。早く賑やかな職場に戻ろうと思い、トイレを飛び出した時、水を浴びせられたように身体が縮んでしびれた。すれ違った男を見ただけなのに。それから不思議と胸のさわぐのがおさまった。スーツ姿のその男は痩せた長身の身を少しかがめるようにして、手にした書類に眼を通しながら大股で歩いて過ぎて行った。顔も見ていないのに私の身体が勝手にぎくりとなってしまった。
 男の行った先は私のオフィスで、部署は営業課だった。彼は席に着くと書類とパソコンを交互に睨んでキーボードを素早く打ち始めた。短髪で細面のその顔はまだ若く、眉は細いけれども眼は大きく、鼻は尖って唇は薄かった。私の好みとはまるで違う顔だった。
「あの人、知ってる?」
 自分の席に戻りながら、私は向かいのデスクの後藤花恵に尋ねた。彼女はお酒が好きなよく喋る同僚で、昼食はもちろん夕食も時々一緒に食べる仲だった。
「だれ」
「営業課の窓側の角っこに座ってる背の高い人」
 花恵は首をのばして見た。
「あの髪の短い人?」
「うん」
「……さあ、あんな人いたっけ」
 花恵は独身で、酔うと早く結婚したい、いい男と出会いたいと口癖のように言っている。社内の男性社員についても好き嫌いは別にして、個々のかなり詳しい情報を持っていた。だからこの小さなオフィス内で花恵に知らない男がいるなどというのは、ちょっと信じられないことだった。
 仕事を始めても気になって彼の方にちらちらと眼をやった。そのうちにいつの間にか彼はいなくなっていて、それきりお昼休みになっても戻って来なかった。
 
 室町通りを歩いて錦小路通りに入る少し手前に、『華幻』という和風の割烹料理店があって、私と花恵は昼食によく利用する。全体に黒い色調でカウンター席とテーブル席が十ばかりある店だったが、安いのに上品な感じが気に入り、花恵とは入社した間もない頃から通っている。
 その日は割と早い時間に店に行ったつもりだったが、カウンターもテーブルも一杯になっていた。別の店に行こうかと花恵と話していると、奥のテーブル席から手を振って呼ぶ二人がある。それは松本と加藤というシステム課の後輩男性社員だった。前に一度花恵と私と四人で飲みに行ったことがある。何を話したかはまるで記憶にないけれども、飲むと二人ともやたら声が大きくなってうるさかったことだけは覚えている。
 さすがに昼食は静かだろうと思い、誘いに応じて私と花恵は二人の前に座った。
「今度の土曜あいてます?」
 いきなり松本の方がにやにやしながら聞いてきた。
「なに」
 花恵はわかっているくせにぶっきらぼうに言う。
「久し振りに社内コンパをやろうと思いましてね」
「またこの四人でやるの?」
「違いますよ。今度は独身ばかり集めて派手にやろうと思ってますから」
「期待しといて下さい」
 加藤が口をはさんだ。何を期待するのか私にはわからなかったが、それよりも松本と加藤が全く同じ人間に見えてきて、おそろしいような気持ちがした。
「うちはいいけど、千絵はどう?」
 不意に聞かれて戸惑った。乗り気でなかったので断ろうと思ったが、
「ええよ」
 となぜだか言ってしまった。その理由はいくら考えてもわからなかった。
「営業課にいる背の高い結構男前の人がいるでしょ。あれってなんていう人?」
 昼食を食べながら、花恵が二人に尋ねた。松本と加藤はちょっと顔を見合わせて、
「あの人のことやないかな」
「あの人ってだれや」
「いつも営業成績トップでイケ面の……名前が出てきぃひんな」
「ああ、堅物で有名なあの人やな」
「そんな有名な人の名前がなんですぐ出てこないの」
 呆れて花恵が言ったが、小さな会社なのに自分たちだって知らないのはおかしいと思った。
「あ、三上さんや」
「そうそう。三上孝介」
 松本と加藤は思い出してほっとしたような顔になった。
 私は(三上孝介) と胸の中で繰り返した。初めて聞く名前だった。(孝介さん) と勝手に呼び方を決めて彼の顔を思い浮かべてみたが、なぜかぼやけた感じがして、やっぱり好みではないと感じた。けれども自分ではどうしようもないほど、ひどく会いたい心持ちになっていた。
 オフィスに戻ってから孝介さんの姿を眼で追ったが席にいなくて、あたしが帰る頃になっても戻って来ることはなかった。
 
(8月号につづく)

matsushita

松下 隆一(Matsushita Ryuichi)脚本家。1964年生まれ。

兵庫県出身。京都市在住。松竹KYOTO映画塾シナリオ科第一期卒。社団法人日本シナリオ作家協会会員。
第10回日本シナリオ大賞佳作受賞。映画『獄に咲く花』TV『推理作家 池加代子2』CS『天才脚本家 梶原金八』他。